信用と信頼を考える
「信用」と「信頼」、似たような言葉だけど全然違う。最近その違いを考えざるを得ない局面に遭遇したので、ちょっと整理してみようと思う。
ちなみに辞書的な「信用」の定義はこちら。デジタル大辞泉より。
[名](スル)
1 確かなものと信じて受け入れること。「相手の言葉を信用する」
2 それまでの行為・業績などから、信頼できると判断すること。また、世間が与える、そのような評価。「信用を得る」「信用を失う」「信用の置けない人物」「店の信用に傷がつく」
3 現在の給付に対して、後日にその反対給付を行うことを認めること。当事者間に設定される債権・債務の関係。「信用貸付」
「信頼」と区別するための「信用」の考え方として全く参考にならない。2なんて両方入っちゃってるし。だから、一旦自分自身の経験をもとに整理してみる。この言葉にいくばくかでも敏感な人はみんなそうしてきたんじゃないだろうか。
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「信用」っていう言葉からはどことなくデジタルなかほりがする。もろに「信用スコア」っていう言葉が存在するくらいだし。僕の中ではその人や物のあらゆる属性の相対的な点数を導き出した上でその点数を全部足し合わせたものが「信用」だとなんとなくの整理がついている。
これはほぼ間違いなく、複数回家を買った経験が自身の認識に色濃い影を落としている。住宅ローンの審査を受けるとき、これは自身の「ちゃんと生きてきたスコア」が可視化されてるんだなあと、次から次へと溢れ出る情報と猛スピードで進む時間軸が織りなす虚空の中でぼんやり思ったものだった。
流行りの「ゼロトラスト・アーキテクチャ」も理想形としてはそのアクセスのあらゆる属性を調べてスコア化して認可のあり方を決めるのが肝だ。ここでもモロに「信用スコア」という言葉が出てきている。このように「信用」と「スコア(数値化)」はとても相性がいい、というかそれそのものなんだと思う。
(この理解で警察来ないよな...?)
一方の「信頼」は考え方が難しい。明らかにデジタルではないが、みんなこの言葉を気楽に使ってるので理解が簡単なものに聞こえるし、「信頼」という言葉をもとに多分日本人全員が脳内にそれぞれのイメージを想起できるものだ。ちなみに僕は「信頼」という言葉を耳にすると石原裕次郎と渡哲也が宝酒造の「松竹梅」を酌み交わすシーンが頭に浮かぶ。なぜかはわからない。
「信頼」ってたぶん、目に見えないのが重要な要素なんだと思う。目に見えないけれど、なんとなく積み上がってるのはわかるもの。ただし目に見えないからこそ、それがなくなるのも一瞬。というよりも、目に見えない何かに自然と依存していた自身に醒めてしまうのが本当のところなのかもしれない。
それでもその目に見えないものによって人は感情を動かされ、実際に行動したりする。理屈ではなく、信用が所属するロジカルな世界との相性は悪い。それが信頼というものなのかもしれない。それでもそんな目に見えない信頼を商業的に築きたくて、いろんな商品やサービスの仕掛け手が日々ロジカルに工夫を凝らしている。それはリソースが有限である以上しょうがないんだけど。
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そういうわけで信用と信頼って全然違うものなんだけど、案外ごっちゃにされているシチュエーションは多いと思う。
論理と理論の区別がついてない人が結構いるように、そこに違いがないと思っている人は割とたくさんいるように思う一方、わかった上で気づかないふりしてあえて誤用してくる人も相当数いると思う。無論そういう人はevilだ。(今回考えざるを得なかったのはコレだ)
信用を用いるべき場面で信頼を持ち出してくる人に手持ちのお金を見せてはいけないし、信頼を用いるべき場面で信用を持ち出してくる人に心を許してはいけない。
それでも、信頼で培った地位に信用がついたりもするので、両者が地続きなのは間違いない。それでもそこをごっちゃにして入れ替えるのがあまりにも短絡というものなんだろう。
本業?ではこの両者をブレンドして使っていたりもするんだけど、酔っ払った日曜夜の話題としては似つかわしくないので今度書こうと思う。書くかもしれない。気が向いたら。今日は餃子に合わせたTOKYO CRAFTがうまい。
より長く走るための原資か、娘のおやつ代として使わせていただきます。