素晴らしい日々の先に
この間、箱根までサイクリングに行った。朝早く起きて、足柄峠側から仙石原に登って、強羅から小田原に降りて湘南と横浜経由で帰ってきた。
疫病の手が逸れた隙を狙って、多くの人手があった。仙石原は寒かったが、ツーリングのバイクでいっぱいだった。強羅と箱根湯本は観光客で溢れかえっていた。江ノ島周辺のチャラい熱気も、由比ヶ浜でぴいぴい走り回る子供達も、そして、そうやってたっぷり遊んで疲れて帰る横浜に向かう渋滞も、以前と同じエネルギーに戻っていこうとする空気を感じた。
素晴らしいなと思った。
我が子を含めて、お出かけできないことを子どもに強いた1年半だった。そもそも子どもは遊んだり走り回ることで生きていくのに必要な肉体を育む生き物であるにもかかわらず、それを制して家で静かにしてろというのは虐待なんじゃないのと言われても反駁できる自信がない。なんといっても、そもそも僕たちはそんなふうに過ごさなければいけない時代を生きてこなかったから、それがどれだけの損害なのか想像もつかない。外で好き勝手に騒ぎながら遊べるようになって、本当によかった。
しかしそんな子どもの事情も、箱根も湘南も横浜も、状況がただ元の方向に戻ろうとしているだけだ。それでも、自然な方向への揺り戻しが起こっていることに素晴らしいなと思った。
相模湖近くの遊園地にキャンプをしにいった。キャンプといってもグランピングなので手ぶらで行って温泉に帰ってくる超お手軽なものだけど、5歳の女の子のアウトドア欲は十分に満たされた。コテージの横にファイアーピッドが付いていたので、久しぶりに薪を使った焚き火もできて幼少の頃から県民の森のかまどに慣れ親しんできた千葉出身の気も済んだ。
遊園地で遊んでいると、昼前に遠足らしき小学生の団体がやってきた。彼らはおべんとうを食べた後の自由時間になると蜘蛛の子を散らすようなダッシュであちこちに出かけていった。
しばらくして遊園地の高台にあるアトラクションに並ぶ列で彼らのうちの10人くらいと出くわした時、彼らは集合時間までの残り時間を勘案して、後いくつ乗れるかを深刻そうに相談していた。「これに乗ったらダッシュしてあっちに乗って、最後にまたこれに乗ってダッシュすればギリいける!」彼らのダッシュの万能性と、ダッシュすれば急げる肉体を本気で羨ましく思った。僕たちにもあったはずなのに、どこになくしてきたんだろう。
そして集合時間の14時になった瞬間、彼らは高台から転げ落ちるように坂の麓にある集合場所にダッシュしていった。どこにいたのか、10人くらいだと思っていた集団は30人くらいに膨らんでいた。ポンポンと跳ねるように一生懸命駆け降りていく小学生の大群を上から見て、なんだか面白くなってゲラゲラ笑ってしまった。
ゲラゲラ笑いながら、ここでもやっぱり素晴らしいなと思った。小学生はそういうしょうもなさそうなことに一生懸命深刻になれる生き物だと思う(いや、高校生くらいまでそうかもしれない)。そんな生き物たちが自然体でいるような気がして、いいなと思った。そしてどうでもよさそうなことにも一生懸命になる練習をしておかないと、真にどうでもよくない事態に直面した時に一生懸命になれないので、やっぱりあるべき姿なんだろう。
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そんなこんなで、最近あらゆるものが素晴らしいなと思ってしまう。
最初は人々が自然体で生きる様を素晴らしいなと思っていたと思い込んでいたのだが、この間スーパーに行って、四国の村で作られているポン酢がそこかしこで普通に売っているのを実感して素晴らしいなと思ったのでもう末期だ。これは量産化が軌道に乗るまでの企画とオペレーションの頑張りに勝手に想いを馳せて感動したのだ。
末期だけど、ナイフのように振る舞うよりは遥かにマシだと思っていた。
しかし10個くらい上の友人に最近こんな感じなんだよねと状況報告のつもりで話してみるといくばくかの言いにくさをあえて打ち消すようにバッサリと。
「老いだな」
えっ。
「確かに自然なさまを素晴らしいと思う気持ちはわからなくもない。でも、いろいろわかったふりして現状を安穏と肯定していくのは違う。ヒガシくん、最近全然びっくりしてないでしょ」
確かに、最近はゆるやかな諦観に包まれてる気がする。何を見ても聞いても想像通りのことばっかりで。
「それは、ヒガシくんが簡単に触れられる範囲の物事にしか触れてないからだよ。何かにびっくりする時ってもう全然違う方向からの刺激じゃない。そもそもそういう刺激が得られる場所に出てないんじゃないの?」
うっ。
「老いは足からくるって言うじゃない。あれって何もフィジカルな話だけじゃなくて、精神的な話でもあるんだよ。何かを得たいと思って出かけたいと思わなくなった時に人は老けるんだよ」
「老けてるって感覚がないままに、周りの状況がどんどん変わるも、新しい刺激に全然触れてないから考え方が全然アップデートされてない。でも真面目な人ほどそのギャップに悩んでテンパっちゃう。ギャップに悩んで調べたりするもなお足が出なくて本質が掴めてなくて、からぶっちゃう。ミドルエイジ・クライシスってね、そういうことなんだと俺は思うよ」
わかる。2年前にその言葉を知った後、今年の夏を過ぎたあたりから急に自分の実績のなさと無力感に苛まれてる感じがする。これか、って思ってた。何もないはずはないのに、自分のことを全く語れない。
「地獄だよ。じ・ご・く。要は若いやつとかイケてるやつへの嫉妬なんだけど、それを絶対に認められないから分裂しちゃう。で、足がまた止まる。足が止まった後にどうなるかはわかるよね。」
「ちっとは抵抗してみなよ。どうせ最近仕事も既存の何かをこねくり回したようなことしかしてないんじゃないの?完全なゼロから物事を生み出すのは不可能だから、やっぱり頭をぶん殴られるような刺激って定期的に摂る必要があるんだよ。そういうことをしたければだけど」
・・・。
世の中が素晴らしい話をしていたはずが、なぜか憑き物を落とされてしまった。
その昔、目に映るもの全てにうっすら怒っていた。それに疲れたちょっと昔、目に映るものの大体がどうでもよかった。
そして今、目に映るものの大体を緩やかに肯定して俺も丸くなったなと感じていたら実はそれは地獄の一丁目だった。なんて人生はままならないのだと思う。
絶対的に肯定すべきはこのままならなさくらいなんだろう。そしてままならなさを前提として、なんとかそれに抗う力を若さといい、それに迎合する状態を老いというのだろう。きっと。ただ抵抗するにも疲れが出て、それは確実に出足を鈍らせるから、本当に人生はままならない。
より長く走るための原資か、娘のおやつ代として使わせていただきます。