忌々しきトロイカ
ひとつ仕事を終わらせた後、珍しくも休日の昼間から酔いどれの街を目指す私の歩み。普段なにかを拒絶し、数少ない誇りを拾い続けて来た脳裏のトロイカ。さては、また私の歩幅を狂わせるべく、言い争いをしている訳ではあるまいな。彼等に主導されてきた人生というのは、実に楽しいものであった。私は常々、そのような他人任せにも見える楽観的思考を浮かべて、それが自らとの乖離を認める段階まできたときには、盲目、沈黙の酔っ払いとなるのだった。
利口な自分、堅実な自分、愚直な自分がいて無謀な自分が存在した。世間に馴染んだ自らの上に、よほど酔狂とも思われる革命的な自分が立ちすくんでいた。まともな人間として存在しようとすればするほど、その内に孕む狂気というものが浮き彫りになっていく心境からか、私は己を統率するべく、様々な私にこの身を預けたのだった......。利口な彼には、随分と世話になったようだ。堅実な彼は、世間というものがいまだ理解出来ていないらしく、愚直な彼が、周囲における私の評価というものを、なにかにつけて一生懸命な奴だと、引き上げていった。しかし、それらを隠れ蓑にしていた無謀な私、お前は少し知識を得た後、一言も発言をする事なく、いまになっても肘掛け椅子から身体を起こそうともしないではないか。
「少し頭のネジが飛んでいないと、良い作品は出来ないからね」
とある映画監督が、自ら語った言葉だ......。
貴方のネジが何本不足しているのか、私には知る由もない。例え、その優秀な脳を守る殻に一本のネジすら締められていなかったとしても我々は貴方を称賛し、敬愛し、なかには崇拝する者までいるかもしれないのだ。
いまに至るまで、私はネジがしっかりと締まった人に会った事がない。皆、表向きには世間との付き合いを考慮した人格を、そして裏では少なからず理解されたくもない自分というものが存在している。常軌を逸した思考の下には、必ず我々の理性の根が張られていた。理性が枯れ果てた者は、人知れず病院送りにでもなったに違いない。とにかく、優秀な作品を生み出すのは、勝手に飛び抜けていった貴方のネジたちではない。人が持ち得る勤勉さ、それだけだ。
「芸術家が発した狂気を、まともな神経をした専門家......つまり我々のことだ。その特異性を受け止める一般の人々......これは、君たちのことであるが、結局は芸術に孕んだ狂気そのものを正気の一部と考えるか、それとも正気よりはみ出た馴染みない狂気を我々は称えるべきか。長年に渡る思考の中で、ただ一つ、これだけが理解を得ない問題である」
どこかの専門家が、自ら語った言葉だ......。
彼は、中世の絵画を主としていくつかの論文を発表したが、1950年、上記の発言そのものが狂気の一部だとして様々な雑誌を賑わした後弁解のないままに忘れ去られていった。畑違いではあるが、昨年に発表された「1984年」(著:ジョージ・オーウェル)に対してのコメントではないか、との憶測が世に広まりはしたものの、果たしてそれが否定的なものか、肯定的なものか、彼の頭のネジの弛み具合というのは、いまとなって誰が分かることだろう?
さながら我々のような平々凡々も凡、とくに過去の幼気な記憶にすがり、誰がどのような闇を抱えているとか、芸術は狂気の狭間にこそ存在するだとか、正常な人間に美しいもののなんたるかは分からぬだとか......。終いには、誰も望まない不幸自慢にて、自らの徳や人間性を主張してくる者、自らの生に美徳を見出す者。彼ら、彼女らは口を揃えてこう叫ぶ。
「あぁ、だれか僕を見て! 救われない僕が、いま芸術という名の保障された深淵に身を投げようとしている! 社会に肯定されない僕が、重くのしかかる過去をこの身体に背負っていま底知れぬ闇夜に一石を投じようとしている! 反響する生々しい音が聴こえるでしょう? 僕です。あれが、僕の意識の片割れなのです。苦しい、切ない、それでもこの鼓膜を刺激する波紋の数々というのが、芸術のなんたるかを僕に、いま一度教えてくれるのです。まともじゃない、正気ではいられないほどの闇を見て! ほら、僕を......もっと僕を、僕を見て! 僕を見て! 僕を......」
されば、私の脳内たちよ。我々は利口に、堅実に、そして愚直に生きようではないか。彼らが一生懸命に植えた闇の幻想は、深い酔いの世界と同義なのだから。しっかりと頭のネジを締めて、光の中に生きようではないか。暗い側面の中にしか美しさは存在し得ぬ、そんな事は誰が決めたのだ。誰が語った。私はこんな深いアルコールの世界でも、正気を保っている。正常である。例え、深淵から誘いの手が伸びてきたとしても背筋を伸ばして立っていられる──。
そして、機能する忌々しきトロイカ。お前、この私をどうしたいというのだ。もう良いよ、もう充分だ。それ以上、あちらの世界に引っ張るんじゃない。あぁ、もう良いったら......!