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隣人は、その口を開く

 ともすれば、こんなド平日の夕刻、圧力鍋を目前にして携帯を触る私の横で、暗い表情に侵されている君は、秩序ある平穏な日々を脅かす悪魔かもしれない。悪人なのかもしれない。

 恨めしそうにこちらを見上げるその顔、私が何の不満もない生活を送っている事には異議を立てず、ただ自らの話を聞いて欲しいという感情のみで、遙か遠い世界から波を越えてやって来たのか。でも私は、君がどこに住んでいて、普段何をしていて、何歳かという事も知らないんだぜ。そんな奴にいったい何を求めるのだ。

「例えば、君が一番大事にしている物が無くなったとする......。因みに、何か大切にしている物が君にはあるかい?」

「今、夕飯を仕込んでいる圧力鍋だね。強いて言えば」

「ううむ、まぁ良い。その鍋が何かの拍子で消えてしまったとする。運悪く泥棒が入ってね。そうなれば、君はどう思うかな」

「悲しいね。高かったんだ、コレ」

「そうだろうとも。悲しいよな。でも、もっと感じるモノはないかい? 生きていくのが辛いとか、犯人を見つけ出して痛い目に合わせたいとか、そんな感情に苛まれる事は?」

「......ないね。今のところは、だけど」

「上手く伝わらない様だな。その鍋の名前は、何というんだい? 何歳になった?」

「名前!? 考えた事もなかったな。折角だから、貴方に付けて貰いたいね」

私はそう言って、鍋の側面に貼られたシールを眺めた。製造日が2019年7月となっていた。

「俺が名付け親になるのかい? そうだな、では今日をもって、この鍋は次郎とする。ちょうど一歳を迎えた鍋は、遂に名前を与えられた」

「うん、目立たない名前だが、泥棒に取られる心配はないだろう。蓋に、こうやって......次郎とペンで書いてやればね。いやぁ不気味だな」

「少しはこの鍋、もとい次郎にも愛着が芽生えて来ただろう。では、最初の質問に戻ろうか。もし次郎が消えてなくなったとしたら、君はどう思うだろう」

「悲しいね。名前まで付けたのに。まだ一歳の右も左も分からない鍋なんだ」

「そうだ。使い古された鍋は、簡単な方向感覚くらいなら把握しているだろう。では、次郎の仇を取りたいと考えるんだね?」

「考えるかもしれない」

「よしよし、苦痛で夜も眠れないね?」

「眠れないかもしれない」

「ありがとう。それこそが今の俺の心境だ」

圧力鍋、もとい次郎の頭から勢いよく蒸気が噴き出た。私は次郎の中から萎びたキャベツと、鷄肉の塊を取り出して、小皿に盛り付けた。
男は、それをつまらなそうに眺めていたのみで、食べたいとも要らないとも言わなかった。

「つまり貴方は、何かを失ったんですね?」

「その通りだ。だが、それだけではない。まだまだ君と話をしたい。俺の惨めな人生についての話。何をやっても上手く行かなかった話。そんな事を、まだまだ君に理解して貰いたい」

「夕食を食べながらで良ければ、聞くよ」

「いや、違うんだ。俺の話を聞いて、君もそんな気分になって貰わなければ意味がない。親身になって......俺の事を考えてくれ。先ず、俺がどれだけ運がない男かを知ってくれ。何故こんな見すぼらしい格好をしているか知ってくれ。因みに、君の着ている服は幾ら?」

「上下で800円だった。言い訳ではないが、スーパーの安売りが先週あったんだ」

そう言い終える前に、男は消えていた。
私は携帯の電源を切って、束の間の一人を楽しむ事にした。だが少し油断をすれば、彼等は遠い世界から、嘘か真かも知れない話を携えてやって来るのだ。うんざりしながら夕食に手を付けようとした時、ある事に気が付いた。

「毎日の様に、下らない話を世界に垂れ流している自分もまた、似たようなものじゃないか」

夕食後、携帯の電源を付けるのが億劫になる私であるが、三十分もすればそんな気分も消えてなくなるのだろう。そして今度は私が、誰かの夕食時に横から話しかけているかもしれない。

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