美しき夏、未だ変わらぬ父の姿
例年に比べて半月遅れの夏が、ようやく顔を覗かしたともなれば、居ても立ってもいられぬのが、畳に寝転がる息子、庭先の土に潜む蝉の幼虫たちである。
干上がってしまいそうな小池の隅、マンホールほどの水溜まりに、哀れ裏向きになって果てた蛙の姿を認めると、この猛暑のなか何かを考える事すら馬鹿馬鹿しく思えて、それでいて蛙君の身体は近所の野良猫に持って行かれてしまったのだから、こちらもお手上げであった。
関わるべきモノ、関わるべきではないモノ。
そんな思考は、夏のひこうき雲が分かつ、空の境界線によって生み出され、猫によって奪われた蛙の死体と共に消えた。
キリが良い所で、涼やかに鳴く風鈴達の音色。
「お義父さん、今日は暑いですねぇ」
「岡山の夏はなぁ、毎年こうなんだ。百間川の土手に行ってごらん? 全部干上がっとるよ」
「へぇ、そうですかぁ......」
中庭の灯篭にもたれて目をつむれば、妻と父との何気ない会話が耳に入って来た。
その後、グラス片手にサンダルを履こうとする妻と目が合ったかと思えば、力なく頷く彼女の頬には一筋の汗が。
「よほど、岡山に帰りたいのかしらねぇ」
「放っておけば、じきに治るだろ」
「でも、最近はずっとこんな調子よ?」
どうも妻は、父が患った痴呆による面倒事に––例え軽度とはいえ––、実の息子である私が積極的に介入しない事に、少なからず腹を立てているようであった。
齢六十二という若さにも関わらず、稀に起きるその発作は本当にささいなモノであり、例えば箸の持ち方を忘れる、夜中にトイレの場所が分からなくなるというような類ではなかったし、彼は自らの生活を自己完結させていた。
暇となれば旧友に連絡を取って、昔話に花を咲かせてみせた。身近な人間の連絡先を、全てそらで言う事が出来た。
大阪の北部、つまり私の自宅へ父を迎えて半年が経とうとしていたが、自分で掛かり付け医を見つけて来ては、ぶつぶつと文句を言いながら帰ってくるのが常だった。
それでも父は、稀に自らの居場所を見失ってしまうらしかった。あの干上がった蛙のように。
「岡山から連れて来るべきではなかったのよ」
「母さんが死んだ時、君も賛成してたよな」
「あの時は......断れる訳ないでしょう。所詮、あたしは他人なんだから」
ちょうど頭の真上に太陽が位置する頃、結論が出そうもない話にうんざりする我々を他所目にラジオから聴こえてくる高校球児のかけ声が、無性に私をやるせなくさせた。
北陽高校のナインが、表情を歪ませています。
五点を取られてなおもピンチの三回裏、夏の日差しは更に強さを増す一方。踏ん張りどころであります––
三回裏の五点差、まだなんとかなるさ。
青い水筒に麦茶を注ぐ息子は、肩に背負った水着バックやゴーグルを自慢するような目で、私の方を向いた。そんな事だから、はみ出た薄茶色の水滴が机や床に垂れては、妻がせっせと雑巾を動かすはめになる。
「ヤス君がさぁ、プールの後祭に行こうって」
「あら、いいじゃない。学校のプール?」
「ううん。今日はスポーツセンターの方」
心配性の彼女は、息子がトイレに行って用を足している間も、バッグの中を漁っては「絆創膏はいるかしら?」だの「着替えが入ってないじゃないの」などと呟いては、私に同意を求めるような表情をした。
小学四年生、微妙な年頃ではあるものの、そこまでに母の世話が必要なのだろうか。神妙な顔付きになった私に、横の誰かが水を差すのはいつもの事だった。
「まるで母さんを見てるようだな」
「もう、やめてよ。父さん」
そう発した自らの瞼には、確かに日々忙しなく動き回っていた母の姿が浮かんでくるのだから少年時代の記憶とは不思議である。
「あたし、美容院に行きたいんだけど良い?」
息子を送り出した後、やっと一息ついた妻は、こちらの返答を待たずに意気揚々と家を飛び出してしまった。台所に散らばる財布や携帯。
他人の事にはよく気が付く彼女だが、自分の事となればまるで目に付かぬらしい。そんな憎めない性格を以て、父は彼女を気に入っていた。
父と息子の二人。もし、そんな組み合わせとなる様ならば、私は決して父を大阪へは呼ばなかっただろうし、反対も然り、今や老いた身体に鞭を打って、わざわざ息子と一緒になりたいが為に故郷を捨てる父ではなかった。
「北陽は今年、甲子園に行けそうなんか?」
新聞から目を離さぬ男が、どこに向けて放ったか分からぬ口を開いた。高校野球––
「さぁどうだろう。大阪は激戦区だから」
「......」
「父さん、北陽高校を応援しているんだ?」
「昔からよう聞く名前だからな」
どうやら今日の痴呆は影を潜めて、いつもの堅苦しい父が帰還されたようである。少なくとも自分の居場所は認識しているらしい。
「少し外でも歩こうか。由香の奴、貴重品を全て忘れて美容院に行きやがった」
さて、その重い腰は動くのか否か......。
相変わらず姿勢が良いものだ、と感心をしていると、正面より迫る電柱にあわや顔をぶつけそうになった私の姿を見て、父は軽く溜息をついた。呆れ返ったという意味を孕んだ溜息。
今年の梅雨明けは、例年の比じゃないほどに暑くなると、天気予報士が言っていたっけ。毎年そんな言葉を聴いている気がするのは、世界で私だけなのだろうか。
近くの緑地公園に近づくにつれて、蝉とも分からぬ夏虫の喧騒が耳に入って来た。三十代と六十代の男連れが、歩幅を合わせて悠長に散歩をする気温ではない。
額の汗を拭うついでに父の姿を横目に見れば、決して痩せすぎではない身体に、真っすぐ正面を見つめるその瞳。軽い痴呆だとはいえ、そこら辺のナヨナヨとした中年よりも、明らかに活発な出で立ちからは、無駄に歳を取って来た訳ではない事は明白である。
我々に無駄な会話というのは存在しなかった。
いや、必要な事すら口に出せぬ父だからこそ、私は関わるべきではないモノとして判断をしていたのかもしれない。
美容院についた頃、妻は財布も携帯も持っていない事にすら気付いていないのだろう、そんな僅かな不安にも至らず、チェアーに座って寝息をたてていた。
「由香さん、最近お越しにならなかったので、どこか別の店に浮気でもされているのかなぁと心配してしまいました」
まだ二十代だろうか。若い女性店員が明るい声でそう言えば、父はこちらに無言の圧力をかけて来た。まるで、お前が家に閉じ込めているからだ、と言わんばかりに。
「妻もここの店を気に入ってますから、浮気だなんてそんな......料金は私が払いますから、カットが終わった後に起こしてやって下さい」
「もうすぐ終わりますから、少しお待ちになって下さい。飲み物は何がいいですか......」
そんな店員の心遣いもむなしく、無言で外に出て行った父の後を追う私。まるで共犯のようではないか。
数分歩いた後に「良い店だったな」と一言。
「でも父さん、ああいう店員は苦手なんだろ」
そんな軽口を叩きながら、どこかホッと胸をなでおろす自分がいる事に気が付いた。やはり血は争えないものらしい。
どこからともなく、懐かしい拍子が聴こえて来た。小さい墓地の向こう側より私を招く、盆踊りの誘いの手が。薄暗くなった周囲を旋回するコウモリの群れ、それらは祭囃子に吸い込まれるようにして皆飛んで行ってしまった。
浴衣を着た男女が、ベビーカーを押して坂を登っていく中、我々はそんな視界に入らぬ幻想を遠くの方から浮かべる事しか出来ずにいた。
どこか懐かしいね
そうだな
付近の自動販売機で冷たい茶を買った。
こんな暗がりでもハッキリと分かる程度には、老いて、細くなった父の腕。こちらに手を伸ばす男は、幼い頃に私の手を引いて屋台の中を歩いた彼と寸分変わらぬ瞳を持ちながら、それでも年老いていく自らの姿を認めた上で、諦めや儚さという、似て非なるものを匂わせていた。
「岡山に、帰りたいんだろ」
「母さんはもう逝っちまったからな」
「僕らが無理に呼んでしまったんじゃないか、由香はそう思っているんだ」
「いい歳だろ、俺も。やっと......」
その打ち上げ花火は、今年の夏祭における目玉だった。そのたった一発を以って、我々は色鮮やかな光に中に閉じ込められてしまった。
呆けさせて貰える––
掻き消されてしまった彼の言葉は、私にはそう聴こえた。本当の事は分からなかった。その後会話が続いた訳ではなかったから。
頼りがいの無い息子。私はそんな烙印をいつの間にか受けていたに違いない。しかし、その息子による誘いで自らの故郷を捨てて大阪に参った父の心境たるや。自分も分かるのだろうか。そんな心を理解する時が来るのだろうか。
「北陽高校、試合負けたってな」
「あぁ、そう。よく知っているね」
「携帯ですぐに見れるだろう」
そういう目敏さ、器用さは、息子には遺伝しなかったようである。
日が暮れた細道を二人で歩いていると、父の口調が少し強くなっていくような感じがした。
「隆は野球をやりたいんだってな」
「それも携帯で調べたの?」
「馬鹿言え、お前。そんな事も知らないで...」
なるほど、だから高校野球なんぞに耳を傾けていた訳か。
あと何年先になるか、果たしてそれまで興味は持つのか。あの気が変わりやすい息子を見れば大いに疑問ではあるが、確かに私はそんな意思を今までに聞いた事はなかった。
「まるで父さんが、僕のやりたい事を知っていたかのような言い方だ」
こちらからそう振れば、彼がムスッとして口を閉ざすのは分かりきった事である。だが、そのしかめ面の中に、口元を若干歪ませる笑い癖。そんな父の未だ変わらぬ姿を確かめつつ、歩く夏の帰り道。
なんとも湿っぽく、そして何故これほどまでに美しいのだ。