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1995年の忘れられないある1日のこと〈上京前夜〉

毎年、年の瀬になると「歴代の出来事を総ざらい」的な番組が増えますよね。

そんな番組を見ていると、記憶がぶあっと蘇ってくる日付けがあるんです。

それは、1995年3月20日。
地下鉄サリン事件のあった日です。

あれからもう30年近くが経つのですが、どれだけ経とうと忘れてはならない事件があった一日で、また私にとっては少し違った意味でも、忘れられない一日です。

今回はその日のこと書いてみます。


当時18才で。愛知の田んぼいっぱいな田舎の町に暮らしていました。

その頃、全日本女子プロレスの平成7年組オーディションに合格。

あの日は、その全日本女子プロレスへ入門するにあたり「会社と親が面談をする日」だったんです。(他の年代の選手もあったのかな?ちょっと分からないんですが)

朝早く、母親と新幹線で「名古屋駅」から「東京駅」に移動しました。そして山手線で、会社(事務所・道場・寮)がある「目黒駅」へ。

携帯も持っていない時代で。母も私も事件のことは知らないままでした。それでもたくさんの警察官があっちにもこっちにもいる。やっぱり異様に感じましたよね。

路線は違えどあの日の朝です。都心部はかなり混乱していたのだと思います。母が「警察が多いねえ」「なんか怖いねえ」と何度も言っていたのを覚えています。

そして、目黒の行人坂をくだって会社を訪ねました。

応接室に通された私たちは、そこで会長から事件のことを聞き、と言ってもその時点では誰もその全容は分からず「〜らしい」ばかりでしたが、「すごく大変な事件か事故かが起きたんだ」って。

知らない土地にきてますし、なんか心細さがありましたよね。

面談は短かったと思います。会長が「責任持ってお預かりします。」みたいなことを母に話していました。

私は「ああ、このおじさんが会長ね。見たことあるある。」みたいなことを考えていて、わりと気楽な感じでいたと思います。

ちなみに、気楽ついでにこの半年後「お腹空いた」とか言っては会長室に入り浸る新人になっちゃいます。会長たち何か作ってくれるか、ご飯連れて行ってくれる。あと田舎っ子にゃ食べたことのないお菓子とかがある、多分頂きものの。よくソファに座って食べていたけど自分でも行動が謎。

でもそのとき応接室のすぐ外にいたスタッフとは今でも繋がっていたり、(現キャンプの師匠ここにいる)面白いものですね。

さて、愛知の田舎からでてきた母と小娘は無事に面談終えましたら、やはり喫茶店多すぎ文化圏からきているので、帰り道、喫茶店に寄りましたよね。

権之助坂の渋い小さな喫茶店。

コーヒーとサンドイッチだったかを頼んで、テレビは事件をずっと伝えていて。喫茶店のママさんと母はニュースを見ながら「怖いねえ」って話していて。友達か。

そんなこんなで帰り道も何だかちょっと緊張しながら東京駅へ移動し、父と姉にお土産を買って、新幹線で無事に帰宅したのでした。

という1995年3月20日。私にとって忘れられない一日です。

なお、このあと1週間後ぐらいに入門、寮へ入りました。

母と歩いた行人坂が「心臓破りの坂」と呼ばれていることは入門してから知り、毎日毎日走ることとなり、渋い喫茶店もそのランニングで権之助坂をくだって行くと左側に見えるので、いつも自然とチラ見してましたよね。

喫茶店、さすがにもうないだろうな。行人坂も、さすがもう走れないだろうな。

あ、走る気ないくせに言いました。

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