#89「余の辞書に不可能という文字はない」2年 中島悠翔
初めまして、こんにちは。関西学院大学体育会サッカー部2年の中島悠翔です。今回初めてこのようなブログを書くので拙い文章ではあると思いますが、最後まで読んでいただけると嬉しいです。
何を書こうか色々考えましたが、大学サッカーを通して、自分が思ったことを率直に書こうと思います。
関学の体育会サッカー部に入ってから早くも1年半近く経過した。藤枝東高校でサッカーをしていた時も自分が思うようにいかないことは多々あったが、大学に入ってからも既に多くの困難にぶつかった。
1年生でランテストとセレクションを通過し、1番下のDチームから大学サッカーはスタートした。この頃のDチームではIリーグにDチームとして出場することができ、関学のB1と同じリーグで1年間戦うことになった。運良く左サイドハーフとしてレギュラーをすぐに掴むことができ、すぐにCチームに上がれるのではないかと思っていた。しかし、実際はCチームに上がることはできず、同期がどんどんCやBに上がっていく中、約半年間Dチームでサッカーをすることになった。この時、自分が思うように昇格できないと思うと同時にもう1つ悔しい思いをしていた。それは自分が右サイドハーフとしてプレーできていないこと。「自分は右サイドハーフとしてプレーしたい。」高校と大学で何回言ったか分からない。高校の時も左サイドハーフとしてプレーすることが多かった。自分がなぜ右サイドハーフにこだわるのか。それは自分自身で左サイドハーフとしての限界を感じていたからである。正直悔しかった。自分のやりたいポジションでサッカーができず、思うように昇格もできない。ただそんな中、一矢報いるチャンスが到来する。関学のB1との試合である。同じリーグであったため、当然戦うことになる。結果は言うまでもなく完敗。自分個人としても何もさせてもらえなかった。ここまで実力差を感じたのはサッカー人生で初めてだったかもしれない。ただ幸運にも、この試合の後自分はCチームに昇格することができた。
8月初旬にCチームに上がり、1週間目にBチームとダービーを行うことになった。絶対に結果を残してやると挑み、開始5分で先制点を決めることができた。「もっともっとアピールしてやる。」と意気込んでいたその時、左足に激痛が走った。数分プレーを継続したものの、歩くことが痛くて困難になり、自ら交代を要求した。前半10分くらいだったと思う。診断結果は左足第五中足骨骨折。そこからは手術をし、リハビリ生活が始まった。人生で初めての長期離脱で、完全復帰まで3ヶ月近くの時間を要した。ただ、同シーズン中に復帰することができ、やりたかった右サイドハーフもできるようになったが、体力が思うように戻らなかったり、試合勘が鈍ったりしており、コンディションを完璧に戻すことができなかった。結局後期のIリーグは出場時間0分で昨シーズンが終わってしまった。
今シーズンが2月から始まった。
昨年Cで一緒にプレーしていた同期や先輩はABCにいる中、私はDチームにいた。恥ずかしいことに走りで全く走れなかった。悔しいなんてものじゃなかった。そこからは死ぬ気で昇格するために努力した。その結果D→B→C→Bとカテゴリーを移動し、今はBチームで活動させてもらっている。今シーズンは他の人よりもだいぶ濃いシーズンを過ごしているという自覚がある。
これからの大学サッカーでもさらに多くの困難に直面すると思う。ただ、周りには「日本一になる」という志高き素晴らしい仲間がいて、私には「プロになる」という目標がある。今までも数多くの困難を乗り越えてここまでやってきた。そしてこれからも「日本一」と「プロになる」ために、どんな困難も乗り越えてみせる。
「余の辞書に不可能という文字はない」
ナポレオン・ボナパルト
最後まで読んでいただきありがとうございました。