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[僕が漫画家になるまで] ハタチのころ③ <専門を卒業したあと>

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<2009年5月/コミティア88>

前回の記事こちら☝

 定期購読マガジン、カガミツキログ第5回です。前回に引き続き今回も無料版です。

 全3回に渡ってきた『ハタチのころ』コラム、今回で完結です。

 有料版の方では商業仕事のネーム公開など、こういった形でコラムを書いていますので気になる方はそちらも宜しければゼヒ(定例文)。


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<2008年10月/習作>

[向き・不向きに気付いたこと]

 専門学校に入って1年が経つとそろそろ進路を考える時期になります。学校でもそういう講義も多くなってきます。
 就職する人はゲーム会社・グッズ会社など、フリーランスはイラストレーター…etc 色々あるのですが、学校側は「最初は就職するのがベター」だと言います。これはつまり「社会経験を積んだ方がいい」ということだと思います。

 当時の僕はといえば、「自分のやりたいこと」が分からないので講義も課題も卒なくこなしてきて、この時期に学校で開かれる「ゲーム会社との面談」もいくつか受けてみました。そこの面談を通過し、会社で直々面接しにいった時に言われたことは「UIデザインをやってみないか」という話でした。

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<2009年12月/CDパッケージ習作>

[グラフィックデザイナーという道]

 専門学校に入る前は「絵で何かを残したい」という気持ちだけで入った自分が、そこでまず評価されたのが絵ではなく、「ポートフォリオのデザイン」でした。そしてゲーム会社に呼ばれて面接に行った時に言われたのがその言葉です。

 「あっ、こっちの道もあるのか」と目からウロコでした。

 ゲーム会社の方は二次面接で落ちてしまいましたが、その後グラフィックデザイナーの方向も考え始めます。いくつかCDジャケット・装丁デザインをやっている会社にも書類を送ったりして、ありがたいことに1社、最終面接まで行きました。

 そこで言われたのは「少しでも絵の道を考えているなら、この業界に来ないほうがいいと思う」という言葉でした。

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<2009年6月/ブログにて>

[絵の道を行くのなら]

 この言葉は当時すごく衝撃的で、その言葉が無かったらもしかしたら僕はそのままグラフィックデザイナー職に居るかもしれないです。

 面接というよりは社長さんとマンツーマンで会話のような形で、ポロッと自分が絵のことを話しちゃったから、向こうが汲み取ってくれた言葉だったかもしれません。

 覚悟を決めてその業界に行けば良かったんでしょうけど、その言葉に少し気持ちが揺らいでしまったんでしょう。おかげで採用はされず。でしたが、あの面接は今でも思い出せるくらい印象に残っています。

 この時になんとなく分かったことは、「得意≠自分のやりたいこと」

 そして、この頃は卒業制作に取り掛かるところで、「何を作ろうか」と考えてた時期でした。

 普通、進路に見合った卒業制作をやるのが良いとされており、「テーマが一貫したグラフィックデザインで色んな制作物を作る」ことも考えていましたが、結果的に「フルカラー12ページの漫画作品」を作ることにしました。

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<2009年7月/課題>

[未練の気持ち]

 当時『robot』『季刊GELATIN』といったワニマガジンの雑誌がとても好きでその影響もあってか、ただの漫画ではなく"フルカラー"で描くことにしました。

 他のクラスメイトはフルカラーの1枚イラストを連作で描く人が多く、周りのレベルを見るに「同じことをしても面白くないし、埋もれる」という気持ちから「じゃあ漫画にしよう」と思いました。
 ただし、ちゃんと漫画を1本完成させたことは今まで一度もありません。かなりチャレンジなことでした。

 ゲーム会社もダメ、イラストも向いていない、グラフィックデザインは得意だけど…という経験を積んで取捨選択をして出てきたのが漫画というもので。僕にとってはもうこれだけしかない、という武器でした。

 「絵が上手くなりたい」一心で専門学校に入ったのに、卒業制作作品が絵の作品ではないということに未練があったんでしょう。

 でも、のちに漫画家になったけれど、この時は「なるぞ!」という気持ちよりもただがむしゃらに「描くぞ!」という気持ちだけです。将来のこととか余計なこと考えなかったからやり遂げた気がします。制作はとても大変でした。

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<2010年2月/コミティア91>

[カミングアウトという作品]

 そして出来上がったのが『カミングアウト』という作品です。これはのちにコミティアでスローペースながら定期的に発表し続けるシリーズになりました。
 作品については今後「カガミツキログ」にて語ることにします。

 この作品はそのままコミティアに初めての個人誌として頒布もし、出張編集部に毎回持ち込みに行くようになりました。

 そこで色々な漫画批評ももらい、今でもたまに当時のメモ帳を見返したりもします。学科では唯一漫画の講義は無かったのでタメになることばかりでした。

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<2011年2月/コミティア95>

[専門学校を卒業したあと]

 結局、漫画をやっていくことになったので就職もせずにひとまずバイトでもはじめようかなと考えていたら、「とりあえず1年間、うちの学科のスタッフにならない?」と学科担任から話をもらい、1年間チューターという仕事をしていました。
 (チューターについては語ることが多すぎるので、今後別の記事にて話します)

 卒業したあとも、マンガ学科・キャラクターデザイン学科合同で行われる漫画編集部批評会に参加させてもらい、そこで見てもらった編集さんが初めての担当編集になりました。1年間ほどお世話になりましたが、実力がまだまだで成果は実らず、しかし漫画のいろはを最初に叩き込んでくれた方なので今でもすごく感謝してます。

 チューターの仕事を1年間やったあとは同級生の内山敦司先生のところでアシスタントをさらに1年間続け、専門学校で行われてた編集部批評会に拾われてようやくデビュー出来たのがコミックフラッパーさんでの読切『キックアシスタ』という作品でした。

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<2012年10月/読切『キックアシスタ』扉絵>

 デビューから初連載までお世話になった編集さんとの架橋になったのも実は専門学校の編集部批評会で、専門学校には本当にいろんな事を学び、色んなキッカケをいただいたし助けてもらいました。

 専門学校に居た期間は在学2年間+チューター1年間でしたが、今でもあんな濃い時間は無かったなぁと思います。

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<2014年1月/『祓ってませんよ?』イラスト>

[僕が漫画家になるまで]

 3回に分けて書いてきましたがいかがでしたでしょうか。

 僕にとって漫画家になれたのは特に専門学校に入学したことがやはり一番大きかった。何になりたいのか分からなかったけど、色々やってみて自分にはこれしかない!と思ったのが漫画でした。

 向き・不向きのこと、得意・不得意なこと、実際にやってみないと分からないことが多く、それを学ぶ為の2年間だったと思います。

 果たして漫画家と名乗っていいほど現在活躍してるかはさておき、少しでも創作や趣味、お仕事、何かのエネルギーになってくれたら幸いです。

 お仕事は大変だけど、夢中になれたモノの方がやっぱりやり甲斐がありますから。これからももっと飛躍できるようにがんばっていきます。


 ご一読いただき、ありがとうございました!

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カガミツキ
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