Creation.8,9,10
御無沙汰しました。
どんどんいきましょう。戦争と平和。の回より。
作.美智子
現代人は「私とモノ」の関係性の地平に棲んでいる。
過密した街にいながら、壁一枚隔てた隣人の顔も知らない。
デバイスに表示された0と1を見て笑みを浮かべ、感涙にむせぶ。
残酷な人の死すら雲散霧消して、ゴシップに成り下がる。
「私とあなた」の関係性を失い、本当に相手に何が起こっているのかをわかろうとしない。
わかる力が失われている。
血が流れるのは秒読みだ。
今こそ考えなければならない。
ここで過去に起こった惨劇を。
そして想像しなければならない。
私に何が起こって、あなたに何が起きれば、私とあなたの関係がどのように変化しうるのかを。
作.マルコフ
戦争があったという事実自体に意味はない。
「世は全てこともなし。」起こったことは凡て起こるべくして起こったのであって、それこそが世界として正しい形であるはずだ。
それが起こったということについて反省する必要はないし、何でも戦争に結びつけるのは杞憂が過ぎる。
ただし問題は、と僕は思う。僕が現時点で自分の意思として戦争になんて参加したくないということだ。
重たい銃を担ぎ南の国で熱暑にあえぎながら人を殺し人に殺される?尽忠報国なんて題目を掲げて戦闘機で空母に突っ込む?雨に打たれただけで血反吐を吐いて死を待って床に伏せる?
冗談じゃない。
そんなのは虚構の世界で十分だ。
僕は過去とか関係なしに、今そう思う。
作.おしょくじけん
中学の修学旅行では原爆資料館を訪れた。
そこで何かが印象に残って、感想文では印象に残ったと書いた。
ただ、いま思い返しても、当時何が印象に残ったのか思い出せない。
高校で日本史と世界史を勉強した。
戦争はその2つの教科に共通して出てくる重要な範囲としてしっかり暗記した。
ただ、いま思い返しても、何が重要だったのかよくわからない。
必要なのは事実じゃなくて意識なのだと思う。
意識は非常に個人的なもので、劇的な経験を経ずに得られた意識はすぐに消えてしまう。
だから、歴史は記録には残れども個人からは風化していく。個人が個人である以上、歴史は繰り返す。
きっと、事実を勉強するだけでないアプローチが必要なのだ。そして、そのアプローチは現代において個々人に委ねられている。
回想
こう並べると、まるで一人の人物が三つとも紡ぎ出しているかのような体裁が浮かび上がってきますね。
実はこちら私ポンティンの友達が三タイプに分けて送ってくれたものだったんです。
「関係性の地平」「虚構の世界」「歴史、記録、事実、勉強」
戦争体験を外部化する(自ずと外在化する)のがある種の癖とも言えるでしょうか。
やっぱりどうしたって内部化できない。限界感みたいなものに萎えさせられている気がしている。「それ」へと思い馳せる努力さえもが気だるい、とでも言いたげな、そんな重力の働き。
そりゃあそうです。普通、僕らが目にする・耳にする「戦争」ってのは劇画化され、または神話化される。そんな世代です。ひっじょーうに、うしろめたい。僕は。そのうしろめたさからこんな回を組んだのかもしれない。そして、いつからか・どこからかの教育で、こんなうしろめたさをプログラミングされたのかもしれない。
だけど、それでも拭いきれない戦争というものへの嫌悪感、「NO」と言いたいこの衝動を何とか表現してみたかった。
反省
まだ初期の放送であり、番組構想に時間をかけきれてない甘さがありました。
今にして思うのは、「戦争と平和」を語るときに、被害者の激情のみを切り取る一義さに走ってしまっていたかなということです。
左派の方々には「んな、あほな。」言われるかもしれないけど、
「僕ら」日本軍とて各地で残虐を繰り広げる立場にいたわけだ。
あのアメリカ様に直接攻撃したから戦争を反省しなきゃいけないんじゃない。
最近だんだんアジア諸国の国際情勢が変化してきたから戦争を反省するんじゃない。
ただただ暴力に「NO」できる姿はあるだろうか、、、
ゴジラに蹂躙されながら、ゴジラに加担したという"身の覚え"にこそ潜在力があるのかな、、、と。(『菊とポケモン』を読んで。)
ぽん