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天王星食

2022年11月8日、皆既月食が見られた。
皆既月食中に惑星食が起こるという、1580年以来442年ぶりの極めて稀な天体ショーであった。

442年ぶりと言われてもピンとこないが、1582年が本能寺の変であるから、1580年といえばその2年前、つまり織田信長がまだ生きていた時代である。もしかしたら織田信長も同じ空を見上げていたのかもしれない、と思うと感慨深い。

そんなことを思いながら家事の合間に月を眺めた。月が天王星を隠す様子はさすがに肉眼で見ることはできなかったが、太陽-地球-月が一直線に並んだとき、大気と太陽光の関係で赤銅色にぼやけていたのがなんとも幻想的だった。
時にスマホで写真を撮ったり、時に飼い犬を抱っこしながら空を見上げたり、最後には温かい飲み物を片手に少し凍えるように眺めていた。

季節ごとにちがう雲の形や空の色、夜空に瞬く星、月の満ち欠けなど、小さい頃から空を見上げるのが好きだった。
それで思い出したが、私は生まれつき片頬に3つのほくろがあり、小学生の頃、そのほくろを見た男子に「おまえの顔、夏の大三角形だなぁ」と、からかわれたことがある。
夏の大三角形は年齢を重ねるごとに本当のお空に飛んでいきましたが。

皆既月食を眺めながら、今まで見てきた空をふと思い出していた。
伊豆で見た満点の星空、アスファルトに寝そべり、次から次へと流れる星を見て、願い事を早口言葉のようにいくつも唱えた。20コくらいお願いした気がする。そのひとつ、“億万長者になれますように“ は、いまだ叶っていない。

真っ暗なキャンプ場の夜空に輝く金星、
東京タワーに寄り添うオレンジ色の月、
北海道の空はものすごい広さを感じたし、
なんちゃら流星群のときには湘南の砂浜へレジャーシートを持って出掛けたりもした。

バリ島、オーストラリア、アメリカ西海岸、インド洋…当たり前だが、緯度の分だけ違って見える夜空には、決して同じものはなかった。

小学校の夏休みの宿題で出された星の観察。
星がよく見えるようにと、建物のない郊外の静かな場所へ父が連れ出してくれたのだが、何回かに分けて1時間ごとに観察をしなければならなかったため予想外の長期戦となった。
辺りにはコンビニも何もなく、持ってきた水筒のお茶を飲みながら車の中で父といろんな話しをした記憶がある。
最後の観察時間には私は力尽きて寝てしまい、父が代わりに観察ノートに記入してくれた。

父の天体望遠鏡で月や星を初めて見たときの衝撃は今でも覚えている。
幼少期、家にあった初代ウォークマンを、ふわふわのスポンジのついたイヤホンで聴いたとき以来の衝撃だった。

それはそうと、昼間の月を見て、アメリカはあそこにあるんだ!と譲らなかった小学生の私はなんだったのだろう。今となっては黒歴史である。

お風呂上がり、すっかり冷えた体を温かい飲み物で暖める。
月食で盛り上がっていた仕事仲間と写真を共有し楽しんだ。なんという平和。仲間たちの写真がリアルに上手すぎて、私が撮った月はなんちゃって満月にしか見えないが、これが私自身とiPhoneの限界である。

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