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太平洋ひとりぼっち(定例食事会の謎18)

定例食事会 太平洋ひとりぼっち

 月に一度の夕食会。今夜も、春山、高橋、南田、ケゾえもんの四人は、馴染みのレストランに集まっていた。ワインを片手に、知的な議論に花を咲かせるこの時間を、彼らは心から楽しんでいる。

「現在地を知るってのが、いかに大変かよくわかったよね」

 高橋が感慨深げに言うと、南田が頷いた。

「でも、やっぱり時計が肝心だったのよね」

 春山が興味深そうに言葉を継ぐ。

「ところで、航海といえば、堀江謙一って知ってる?」

「もちろん! 世界で初めて小型ヨットで太平洋横断した人だろ?」

 ケゾえもんが即座に答えた。

「そうそう。当時の堀江青年、23歳だったのよね。そんな冒険旅行にはパスポートが発行されなかった時代だったから、パスポートなしで1962年5月、兵庫県西宮を出発してサンフランシスコを目指したの」

「たしか、『太平洋ひとりぼっち』って本を出してるよね?」

「そうなの。堀江さんって文章がとても上手で、すごくおもしろいのよ」

「市川崑監督で映画にもなったんだよな。主演は石原裕次郎だったっけ?」

「そういえば、彼は天測航法をしてたよね? 六分儀を使って現在地を割り出してた」

「その六分儀を買いに行ったときの話が、おもしろいのよ」

 南田が笑いながら言うと、ケゾえもんが興味津々に身を乗り出した。

「どんな話?」

「神戸の大丸の向かいにある専門店に行ったんですって。お金がなかったから安物を買うつもりだったのに、イギリス製の素晴らしい六分儀を見つけちゃって、どうしても欲しくなったの。それで値段を聞いたら3万5千円、今とは貨幣価値が違うけどね」

「それは大変だったな」

「予算オーバーだから、なんとか2万円で売ってくれって頼んだら、店のオヤジに『アホらしゅうもない』って本気で怒られたんですって。でも、粘りに粘って、『たいへんなお人やな……仕入れ値で泣きましょ』って、2万5千円にしてもらったそうよ」

「すごい交渉力だな!」

「でも、六分儀は大切だからね」

 最近、航海の知識をつけてきた南田が感心したように言う。

「一方、お金がないって言いながら、ディレクションビーコンは5万7千円で買ってるのよ」

「ディレクションビーコンって?」

「各基地局からの電波を受信して、現在地がわかる機械よ。でも太平洋に出ちゃえば使えないから、八丈島を通過するまでは、天測だけじゃ自信がなかったんでしょうね」

「慎重な人だったんだな」

「そうよ。泣きの涙で買ったって言ってたわ。それに、ほかの船に衝突されるのを防ぐために、船のレーダーに映りやすくするリフレクターのことも真剣に考えてたみたい。結局、これは確率を考えてやめたらしいけど」

「この航海、本当に冒険だったんだな……」

 高橋がしみじみと言う。

「そうなの。このときは外界と連絡を取る手段を持たなかったのよ。まさしく“ひとりぼっち”だったわけ。実際、93日間の航海だったんだけど、90日目に仲間が心配して捜索願を出しちゃって、大騒ぎになったのよね」

「本当に命がけの旅だったんだな」

「しかも途中で大型客船に出会って、ちっぽけなヨットが太平洋のど真ん中にいるもんだから、みんなびっくりしたのよ。食料や水を渡そうとするのを、無寄港無補給の記録がダメになっちゃうから、必死で断るのが大変だったみたい」

「それで、そのとき現在地を聞いたんでしょ?」

「そう。でも、客船の船員から聞いた現在地と、自分の天測の結果が違ったのよね」

「どっちが正しかったんだ?」

「あとでわかったことだけど、堀江さんの天測が正しかった可能性が高いのよ」

「すばらしい」

「さらに驚きなのが、彼が持っていった時計よ」

「H4か?」

 ケゾえもんが冗談めかして言うと、南田が笑いながら首を振った。

「まさか。彼が持って行ったのは、防水でもないセイコーマーベルっていう腕時計、たったひとつよ」

「えっ!? そんなのでよく最後まで持ったな!」

「そうなの。何回も暴風雨に遭って、船室全体がずぶ濡れになったのに、奇跡的に壊れなかったのよ」

「もし壊れてたら、大変なことになってた」

「まあ、アメリカ大陸が東にあるのはわかってたから、サンフランシスコには着けなかったかもしれないけど、どこかにはたどり着いたでしょうね」

「それにしても、予備の時計くらい持っていけばよかったのに」

「しかし、彼は23歳にしてすでにベテランだった。これまでのセーリングでもそうしてやってきたんだろうね。それに彼が使ったのは本当に小さいヨットだ。重要だからと言っていちいち冗長性を持たせたらすぐにキャパオーバーになる。割り切るしかないよ」

「ところで、待って。そのセイコーマーベルってどのくらいの精度があったの? H4並み?」
とは春山。

「ちょっと待って、調べるね……手巻き式で……ヒゲゼンマイ方式……日差30秒だって」
南田がただちに反応する。

「航海が90日間だったんだよな……。ってことは、45分もズレるぞ!」

「45分のズレって、距離にするとどのくらい?」

「チャクラポン、わかる?」

「約1000キロくらいになるかと思われます」

「ええっ!? よくサンフランシスコにたどり着けたわね……」

「でも、堀江青年には、時刻合わせの方法があったのです」

「えっ? なんで?」

「ラジオを持っていっておりました。毎正時の時報で、いくらでも時計を合わせることができたのです」

「おお……! そこがハリソンの時代との違いか!」

「なるほど! 気がつかなかったわ……」

 春山が感心しながらグラスを傾ける。

 今日の食事会もまた、時計と航海のロマンに満ちた夜となった。


カバー写真:日活映画「太平洋ひとりぼっち」より