タテモノを [見る] テーマ : ガラス編(その②)
「ガラス・パビリオン」、正式には「トレド美術館ガラス・パビリオン」である。所在地はトレド・・といってもスペインではなくアメリカのオハイオ州。五大湖のひとつエリー湖のほとりにある街だ。シカゴからは車で4時間、一番近い主要都市のデトロイトからも1時間半くらいは掛かるので、観光ついでに立ち寄るには気合いが必要かもしれない。
トレドは元々ガラス産業が盛んで、デトロイトの自動車工場向けにガラス部品を納めたり、建材・瓶や工芸品などを製造していたらしい。それに関連してか、トレド美術館にも古今東西のガラスコレクションが多数あり、この「ガラス・パビリオン」はそれらの展示・収蔵が目的の施設、というわけである。
建築家は妹島和世氏と西沢立衛氏によるSANAA。竣工は2006年で、「金沢21世紀美術館」や「森山邸」と前後する作品だ。大体このくらいの時期に大学生になった僕、というか当時の大勢の建築学生は、本当に設計課題なんかではこれらに影響を受けたと思う。誰かしらはボリュームをパラパラと分散させてみたり、フリーな曲線でシングルラインの平面図を提出していた気がする。僕も誘惑に負けて(?)一回くらいやったと思う。でも、当然なんだけど、ちょっと真似してみたところで、上手くなんていかないのだ。
閑話休題、現地に到着し、道を挟んで建物を見ると、平べったい建物が芝生に佇んでいるのが見える。西沢氏によると、この敷地は元々駐車場で、そこを緑地に変えて「公園の真ん中に立つパビリオン」を提案してこうなったらしい。(※1)
壁面はアールを描いていて、それが不思議な影を落としている。入口に近づくと係員のオバチャンが扉を開けて通してくれた。ボランティアでやってるんだろうか。ここの職員さん、地方都市ならではというべきか、堅苦しくなく、でも観光客を邪険に扱うでもない、程よくユルい感じの対応で、本当に気持ちが良かった。
内部は平屋で、ガラスの曲面壁でぐるっと囲まれた部屋が並んでいる。各室が独立しているので、部屋と部屋の間には不思議なスキ間が巡っている。このスキ間は単なる意匠でもデッドスペースでもなく、温熱的な緩衝帯として機能させることで、内外ガラスで包まれたミュージアムを機能的に成立させているらしい。また、上述の地域的背景からガラスが安く入手できる事情もあったらしく、これらの要因からガラスの部屋をたくさん敷き詰めるプランが実現したようだ。
やんわりと薄暗い空間に立ってみると、ガラスのレイヤーに包まれて、身体までフワフワするような軽さを感じる。単にガラスが沢山使われて、柔らかな曲面だから、というのを超えて、普通の建築にある構築性が抜け去ってしまったような軽さなのだ。こういう時こそ「よく見てみる」に限る。するとまず気づくのが、納まりのミニマムさ。上下左右ガラスを支える枠が見えないので、ガラスという「ホントは結構重い」物質をガッチリ抑えている感じがしないのだ。1枚1枚の板も基準幅は2.4mと広く、目地のシールも8mm(面取り部も含めると12mm)と細く抑えられている。結果つなぎ目は時折現れる細い線としてのみ現れるので目立たない。
ガラスにひとしきりウットリした後気づくのが、構造体の少なさ。直径約90mmの鉄の柱が、ポツリ・ポツリと所々にあるのだけど明らかに本数が少ない。位置も一見バラバラで、グリッド的な秩序を感じさせない。本当は全部柱を消したかったのかもしれないが、これらがわずかに残っていることで、むしろ構造の異常さが際立っているような気がする。
先述のガラスのスキ間(キャビティ)は、外周にもぐるっと回っている。二重ガラスの間は空調されているので、システム的にはエアフローウインドウ(※2)に分類できるのだろう。
英語には、transparency(透明性)の対義語としてopacityという言葉がある。直訳すると「不透明度」となる、日本語では普通は使わない概念だ。ガラスが曲がって、幾重にもなったこの建築の中にいると、あちこちでガラスの「opacity」が卓越する場面に出くわすので、ハッとさせられる。ついガラスは「透明(transparent)」という固定概念を抱いてしまうけど、あくまでそれはこの物質の一属性に過ぎないのだ。曲がれば複雑な反射をするし、それがレイヤーになれば不透明になっていく。金属に由来する微弱な色の成分も、重なれば重なるほど、深みとなって現れてくる。
柔らかな空間にマッチしたカーテンには、光が「溜まって」いた。
このパビリオンには、ガラス工房(ホットショップ)もプログラミングされている。先程のスキ間(キャビティ)は、この部屋が発する熱気をバッファーするのも目的だ。繊細な空間に割と本格的な炉がインストールされているサマは、建築雑誌では見られない。1日に何回か実演を行なっているらしく、タイミングが良ければ無料で見ることができる。
ガラス工芸品の展示も、実はかなり充実していた。展示方法が建築にマッチしているかどうかはさておき、、な感じではあったけど、ガラス器好きの人は半日か一日中楽しめるんじゃないかと思う。古代ギリシャやローマの貴重なガラス器もものすごい物量だ。
こうして建築から工芸品まで色々見ていると、ガラスという素材のアンビバレントさに気付かされる。ガラスはフラジャイルで、器は落とせば割れてしまうし、丈夫そうな建築ガラスだって破損してしまうことがある。一方でガラスは物性としては非常に安定しているから、木のように腐ったり、鉄のように錆びてしまうことがない。それゆえ、何千年も前の制作物を美しいまま今でも見ることが出来るのだ。
古代のガラス器は、不純物も混じっているし形も歪だけど、その反面「これはどうやってつくったんだろう」というような偶発的で不思議な光との戯れを演じてみせたりする。いっぽう、一見単純な現代の建築板ガラスだって、この建物で見たように、グラデュアルな多様性を兼ね備えているわけで。「単純」になってしまっているのは、我々の眼のほうなのかもしれない。
現代の建築実務では、うっかりしているとガラスは耐風圧と環境性能、あとはコストで決めるような事態になってしまったりする。もちろん安全性や性能は最優先。それは揺ぎないんだけど、これらの数値が安全ゾーンになったのを、さも仕様決定の「お墨付き」にしてしまうのは、思考停止でしかないし、真面目なようでいい加減な素材との向き合い方なんだなと思う。数値は、物質の持つ無限の属性の一片を、解釈出来るように切り取ったものに過ぎないのだ。
とある高名な建築写真家は、「耐風圧でガラスを設計するような奴には一生ファンズワース邸みたいなものは作れない」という趣旨のことを、かつて述べていたそうだ。この逸話を知った当初は「そんな無茶な」と思ったけれど、色々な「ガラス」を見た今となっては、少し意味が分かるような気がする、、、、と締めくくりたくなるのを今はグッとこらえたい。分かったつもりが一番危険ですから。
※1 「自作について / 西沢立衛」
https://www.tozai-as.or.jp/mytech/07/07_nishizawa07.html
※2 建築外装部の二重ガラスの間に室内空気を循環させ熱負荷を低減する手法