サーリネン と サーリネン
はじめに・・・
2020/04現在、コロナウイルスが世界中を大混乱に陥れ、アメリカも大変なことになっているのは皆さんご承知の通りだと思います。僕は地方都市に住んでいますが、一か月くらいほとんど外出しない日々が続いています。この記事ですが、米国がこんな状況になる少し前に行ってきた建築見学記になります。その点、ご承知いただければ幸いです。
米国が危機的な状況を脱出し、日本でも爆発的な感染増加・医療崩壊が起きず、誰もが健やかに・気兼ねなく外出できる日々がいち早く再来することを祈っています。
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僕の住む街(アメリカ中西部の北のほう)も冬が明けて、ようやく春の気配がやってきた。木々の芽吹きにはまだ時間が掛かりそうだけど、雪と短い日照時間からは解放される。
気づけば、米国に来てから結構な月日が経ってしまった。実のところ、僕のアメリカ滞在は期限付きで、残された時間はそんなに長くはない。理想と現実を見比べると、達成できてないことばかりで何だか溜息が出てきちゃうが、とにかく、建築だけは週末を使ってそこそこ見てきたんじゃないかと思う。お世辞にも歴史があるとは言い難いアメリカだが、反面20世紀建築の物量はやはり凄まじく、教科書で見た名作からちょっとマニアックな建物まで、訪れては感心し、幾つかについてはこうして拙い感想を垂れ流してきた。
それらの中でもとりわけ心に残った建築というのが何件かある。その一つとして思い浮かぶのが、「ファースト・クリスチャン・チャーチ」。以前紹介した、モダニズムの街・インディアナ州コロンバスに建つ教会である。
この建物のどこが印象的だったか。それは、デザインのあちこちに見て取れるデザインの「手つき」だ。あえてシンメトリーを崩した立面、手間の掛かったディテール、所々に気紛れのように施された装飾—―これらの全てが、20世紀中盤以降のアメリカ建築を支配した「工業・大量生産」とは全く違う価値観に基づいていることは明らかだった。
設計者は、エリエル・サーリネン。これも以前紹介したが、彼はもともとフィンランドのナショナル・ロマンティシズムを代表する作家で、「シカゴ・トリビューン・ビル」コンペへの入賞を契機にアメリカへとやって来た建築家だ。言うまでもなく、エーロ・サーリネンは彼の息子である。
エリエルは、渡米後はミシガン州のブルームフィールド・ヒルズに居を構え、そこに立地する「クランブルック・アカデミー」の芸術学校長として教鞭を振るいながら設計活動を行った。キャンパスも彼が設計を手掛けた。
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今回見に行ったのは、この「クランブルック・アカデミー」。自宅からは大体3時間のドライブだった(この程度の運転なら「長時間」と感じなくなったのは、アメリカに来てから成長したことの一つかもしれない)。
敷地は、緑豊かな森の中みたいなところにあった。訪問日は運よく快晴。クリアな空気はまだ肌寒いが、むしろそれが気持ちいい。
このキャンパスであるが、「クランブルック教育コミュニティー」として、幾つかの施設で構成されている。中核をなすのは小・中・高校にあたるクランブルック・スクールで、アイビーリーグをはじめとするトップ大学に卒業生を送り続ける大変な名門らしい。そして、エリエルが校長を務めた「美術アカデミー」。ここは米国版バウハウスを理念として創設された美術・デザイン系のスクールで、学部はなく大学院のみが設置されている。こちらも難関とされ、かつてはチャールズ・イームズらを輩出している。エーロ・サーリネンがイームズと出会ったのもここだ。その他には、美術館・科学インスティチュートetc.が敷地内に点在している。
キャンパス内を散策していると、「ここはアメリカではないんじゃないのか??」という謎の錯覚が生じるような、桃源郷の趣すらある風景が広がっていた。エリエルが設計を依頼されたのが1925年で、以降の年月でデザインと建設が進められた筈なのだが、そこにある建物はそれよりずっと前からあったように見える。といってもそれは決して歴史建築を偽装しているという訳ではなく、佇まいは極めて自然だ。古い、というより年齢不詳な感じ。まるで、様々な人がめいめいに手を加えながら時を重ねたような雰囲気を発している。レンガの外装に不思議な装飾が象られていたり、どこかの遺跡から持ってきたような彫刻が一体化されていたり、木製扉のデザインが一枚一枚違っていたり。
つまり、このクランブルックの建物も、ファースト・クリスチャン・チャーチと同様、デザインとものづくりの「手つき」が息をしているのだ。ひとつひとつのものを設計者は丁寧に手で描き、それを人の手で造りあげる。その結果が、単調な繰り返しに陥らない、様々な人が手を加えたような豊かな建築意匠となっている。建築の設計・施工において、「手」のもつ力が信任されていた時代の息づかい、とでも言ったらよいだろうか。それは、規格寸法とか工場製作の都合とかからものを決めることに慣れてしまった僕たちの目には、もはや理解を超えた何かに見えてしまう。
例えば、スクールの中庭に建っていたこの列柱。一見さり気ない設えだが、注意を凝らすと、一本ずつ異なる意匠が施されていることに気付く。柱身は面取り・溝・彫刻の有無などのパターンに分かれ、柱頭の形状はそれこそ一つずつ違っている。さらに言うと、壺が置かれるライムストーンの台座の位置は法則性が無さそうだし、急にダブルコラムになっている部分もあったりする。
どう考えても、ひとつひとつの理由を言葉で説明できそうにない。こんなデザイン、いろんな意味で現代では実現不可能だろう。知らず知らずのうちに「合理性」とか「生産性」を意識する癖のついた現代の建築家・設計者にとっては、冷静に理解できる範疇を超えて、少し怖さを覚えるくらいだ。しかし同時に、合理的な設計と場所や空間の豊かさとは、必ずしも関係ないことをハッと思い出させられもする。
とにかく、この列柱の例に限らず、設計者の手つき・・・おそらくは一つ一つが製図版の上で克明に描かれたのだろう・・・を感じるディテールが、敷地の至る所に点在している。中にはエーロが手掛けたとされる意匠も存在しており、裏庭にひっそりと残る鹿やドラゴン(?)を象った門扉はその一つといわれている。彼は当時まだ10代(!)だったというから驚きだ。
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しかしここで疑問が。偉大な父の仕事に囲まれて若年期(13~20歳)を過ごし、その幾つかを実際に手伝いもしたエーロは、なぜ自分の作品では全く違う方向に舵を切っていったのか。ちなみに、エーロ・サーリネンの作風には統一性がない、という批評はよく聞かされるが、決して傾向が無いわけではない。ひとつ確実に挙げられるのが、シルエットへの志向性だ。TWAターミナルを筆頭に、インガルス・ホッケーリンク、MITクレスギー・オーディトリアムなど、主に敷地やプログラムが許す場合、エーロ・サーリネンはシルエットを重視した作品を残している。このヒロイックなイメージが、戦後アメリカの全能感みたいなものとマッチして、彼の成功を支えたと見るのは妥当だろう。
写真:上から「TWAターミナル」「インガルス・ホッケーリンク」「MITクレスギー・オーディトリアム」
だが、エーロの原点ともいえるクランブルックのデザインは、明らかに「シルエット」以外の部分に力点がある。むしろ、全体像としては捉えることができず、ずーっと近寄ってはじめて知覚できる「部分」にエネルギーが注がれている。
写真:クランブルックのゲートと細部意匠
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エリエルとエーロの対比がさらに端的に見て取れるのは、インディアナ・コロンバスの2つの教会だ。ひとつは本記事の冒頭で引き合いに出したファースト・クリスチャン・チャーチ。もうひとつは、これも過去の記事で紹介した、エーロが手掛けたノース・クリスチャン・チャーチである。ファースト・クリスチャン・チャーチは、今回くどいくらい強調しているように、まさに「手つき」を感じさせるディテール志向の建築。いっぽうで、ノース・クリスチャン・チャーチのほうは、完璧なまでの「シルエットの建築」なのだ。勿論ディテールまできっちり納められているのだが、その表情は非常にさっぱりしていて、決して細部自体を見せることを目的としていない。同じ街に、親子それぞれの建築家による全く様子の違う建物が共存しているのだ。
写真:ノース・クリスチャン・チャーチ
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この対比を、クランブルック以降のエーロの経験、すなわちパリやイエール建築学科が理由であると説明することはできるかもしれない。しかし僕は、少年期から細胞に刻み込まれるようなデザイン体験はそう簡単に拭い去れないのではないか、と想像している。では、何が理由なのか?まぁ真実を知ることはできないのだけど、もうちょっとだけ想像を深めてみたい。その補助線として、かなり突飛ではあるのだが、ここで現代建築家の発言を引用する。
それは、割と最近公開された隈研吾氏の対談記事である(対談相手は作家の林真理子氏)。この中で、隈氏はこのようなことを述べている。
20世紀の最初のころの建築って、教科書に載ってる小さい写真でも全貌がわかるような、シルエット重視の建築が傑作と言われてたんだけど、21世紀になってからはインスタ映えするためにディテールが特徴的なことのほうが重要になってきた。
「インスタ映え建築」が「良い建築」なのかは異論があるかもしれないが、現代を代表する建築家がこのようなことを述べるのには注目すべきだと思う。だいぶカジュアルな雰囲気の発言とはいえ、国内外・官民問わず、恐らく最も多種多様なプロジェクトに接している隈氏にとって、「シルエットから(インスタ映えする)ディテールへ」という変化は、何らかの意味でそれなりの切実さがあるのだろう。
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さて、エーロ・サーリネンに戻ろう。急に外側から補助線を持ち出したワケは言うまでもない。当時の彼も、現代の隈氏と似たように、時代の建築に重要なことをいち早く感知していたのではないか。そして、彼の時代に重要だったものとは、ほかでもない「シルエット」だったのではないか。
エーロが作品を発表した戦後のアメリカは、テレビや雑誌といったマスメディア隆盛の時期だ。そこで求められるのは、限られたカット数や秒数で目立ち、人々の記憶に残ることだったろう。建築の場合、際立ったシルエットによってそれは最もよく表現可能だ。逆に、細やかなディテールは当時のメディアの解像度ではなかなか伝えることが出来なかっただろう。
エーロ・サーリネンは、当時からメディアの力をよく意識していたことは知られている。バルタザール・コルブという写真家をほとんど専属のように抱え、竣工写真のみならず模型や現場写真をたくさん撮らせているし、ワシントンDCのダレス国際空港計画においてはアニメーションによるプレゼンを作成している。なによりも、彼の(2番目の)妻はNYタイムズでアート・建築批評を担当した人物(エイリーン・B・サーリネン)で、メディアの機微・人脈を熟知していた。
事実、エーロはマスメディアの力を追い風として建築家としてのスターダムをのし上がったと捉えられている。なんせ、1956年のTIMEマガジンの表紙になったくらいだ。ゲートウェイ・アーチ計画、MITオーディトリアム、そしてTWAターミナルなど、マスメディア「映え」するシルエットを持った彼の作品は、追い風を受ける力強い翼となったことだろう。
画像出典:TIME MAGAZINE
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また、マスメディアの他に、工業化と大量生産という背景があったことも思い出そう。アメリカの50年代といえば、様々なものが大量生産され、庶民を含めた人々に行き渡り、かつてない物質的豊かさが享受された時代だったであろう。エーロ・サーリネンの作品は、意匠的な意味でその雰囲気が反映されているだけでなく、実際に工業化の産物を建築に応用している。有名なのはGMテクニカルセンターでネオプレンガスケット(ガラスを固定する部材)を建築に転用した例だ。また、僕はMITチャペルを訪問した際、天窓にアルミハニカムが反射板として使われているのを発見したが、おそらくこれも航空材料の応用だろうと思う。或いは、ダレス国際空港のモバイルラウンジ(上記アニメのやつ)やディア・カンパニーのコールテン鋼(赤錆の表面を露出して使用できる対候性鋼材)など、工業・大量生産時代だからこそ実現できたアイデアとデザインは他にも挙げることができる。
写真:MITチャペルのアルミハニカム反射板
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手仕事とディテールから、工業生産とシルエットの建築へ・・・エーロの作品にみられる父エリエルとのあまりにはっきりとした対比は、彼ら一家がフィンランドからやって来て以降のアメリカの変化と呼応している。そういう意味では、両者の作品を見比べることは、単に竣工年代の違いを超えて、20世紀アメリカ発展の鏡を見るようなものなのかもしれない。
でも、思うのだ。いや、これは完全に僕の想像なのだけど、エーロは本当に諸手を挙げて、この変化に乗っかってたのだろうか、と。確かに彼は時代の追い風を機敏につかまえてスターダムにのし上がったけれど、その裏には「メディア受け」を意識せざるを得ないフラストレーションや、大量生産以前の細やかな手仕事がもはや期待できない諦念もあったんじゃないだろうか。
だって、彼の創作の原点、というか生活そのものだったクランブルック(一家の住まいも敷地内にあった。勿論エリエル設計)に息づくデザインとクラフトの精神は、あっさり忘却してしまうにはあまりに豊かすぎるように思えたのだ。目まぐるしく変化するアメリカと並走しながら最新プロジェクトを指揮している最中も、頭の片隅には手摺一つ・ドア一枚をアレコレ「手で」考えていた頃の日々が、取り戻せない過去として残っていたのではないだろうか。
とは言ったものの、エーロ作品の中にもエリエルから受け継いだエッセンスがほのかに香る作品は無いわけではない。例えば、MITチャペルは、先のアルミハニカムのような新素材が使われると同時に、レンガ積みのアレンジなどに父親譲りのセンスを発見できる。細かな手仕事についても、ハリー・ベルトイアの彫刻に託していると見ることができるかもしれない。この光の彫刻、とかくメディア「映え」もするのだけど、近寄って見ると結構いろんなカタチ(△とか♢のフレームなど)がくっ付いていて、実物で初めて分かる遊び心があるのだ。とても小さな作品だが、この建築家のいいところがギュッと凝縮されている感じがして僕は好きだ。
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クランブルック・アカデミーの見学後、ちょっと寄り道をした。実は、エーロ・サーリネン事務所はアカデミーの敷地のすぐ近くにあって、建物がまだ残っているのだ。もし仮に父のやり方に嫌気が差していたのなら、ニューヨークでもデトロイトにでも行きそうなものだが、そうしなかったところも、さっきの僕の想像の理由のひとつである。
まぁそれはいいとして、かつてのサーリネン・オフィスは今は別の入居者に使われていて、当時の面影はない。昔の写真で見られる緑豊かな裏庭も駐車場になっていた。予め知っていなければ見過ごしてしまうだろう。でも、仕事の鬼として知られたエーロが昼夜・土日もなく建築を追求し、当時若いスタッフだったケヴィン・ローチ、シーザー・ペリや日本からやって来た穂積信夫氏ら、後年の建築界を牽引した人材が情熱を燃やした創発の現場を目の前にすると、何か心にぐっと来るものがあった。
(おわり)
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