小説 織野姫子のモノローグ(2012年)

さまざまなもの思いに耽りながら、わたしはしだいに眠りについた。
するするするする、ゆるやかにしずかに、吐き出されていく蜘蛛の糸みたいに。
織野姫子、という名前で呼ばれる、普段の自分から、遠ざかって。
そのくらがりから、たちこめてくる水の匂いは、せるせるせると、音をたてては、意識の襞にまで流れでていった。大小の渦ヶを、幾重にもつくって。それはわたしを呼んでいる気がした。
――いつもそれを見ていると何か懐かしい気持ちになる。まるでふと駅ですれ違った女の人の髪の毛の匂いが、子供のときに、ママの使っていた香水の匂いと似てたんじゃないかって、いきなり思い出すみたいに。
うん、そうだった、あの渦たちはどこかなつかしい気にさせられる。
だってその水の底には、死んでしまった兄さんがいるから。細川先生もいる。――小学校の担任だった――それに、おばあちゃんが昔どおりの暮らしを続けている世界が広がっているのだと、わたしはいつでも知っていた。だってその水の底には、死んでしまった兄さんがいるから。細川先生もいる。――小学校の担任だった――それに、おばあちゃんが昔どおりの暮らしを続けている世界が広がっているのだと、わたしはいつでも知っていた。

よく覚えてる。その世界では、おばあちゃんから編み物を習ったり、簡単な生け花の手ほどきを受けたりする。それであたしにとっては面識のない、戦争で亡くなった、おじいちゃんについての思い出話を聞かされる。おじいちゃんは、昭和のはじめのモダンボーイで、新感覚派の小説や、モダニズムの詩が大好きだったんだって、そういう話。
あたしがまだ十歳にもならない、子供だったときの出来事が、無意識のどこかで録画されているみたいだった。
そういうことを前にも言った、おまえの体は映画館みたいだねって、あなたが言うから、思わずわたし笑ってしまったのを覚えてる。

――でもその夜は、勝手が違っているようだった。
今まで何度か見たことのある、深緑色の、暗い渦巻きがいくつもいくつも、暗闇の中にうっすらと動いていた。
そうしてそれは飛沫をあげて、何もかもその中に呑み込んでしまいそうな様子だった。
渦の廻りの、いたるところで、ビー玉のみたいに、真珠のみたいに、なにかの魚の、卵のみたいに、まるい光が、しらじらしらじらと謂集して見えた。

最初は泡のようだって思ったけど、どうも違っているようだった。
そのうち、何人かのこどもたちの、手足や頭が、逆巻く渦に、現れ消えた。何度も姿をのぞかせはじめて。まるでモールス信号みたいだった。こどもたちは必死の形相で、おぼれながら、口々に助けを呼び求めていた。
だけれどいったいどこからだろう、大きな大きな手が降りてくる。誰の手だろう、とても大きくて、まるで爬虫類の皮膚みたいな、成長した楢の樹の樹皮みたいな、ざわざわとした腕。
それはおぼれる子供の一人の体を、節くれだっている、指で抓まんだ。
かわいそうな子供は、闇夜の中に、放り投げられ、飛んでいくのがうっすら見えた。

どこかの岬のようなところに、その子の体は投げ出されていた。盲目のような、漆黒の闇夜に取り囲まれて。
でもその場所は、やわらかい、粒の細かい光の暈に、包まれていた。
まるでラトゥールの描いた室内画みたいだった。
――夢は物語の秘密を、常識を無視して教えてくれるよね。
その場所で、どうしてかわたしは、子供の名前が、ミズチという名前なのを知っていた。
でもその顔は、高校のときに、同じクラスだった、佐伯くんの顔だった。
佐伯くんは、少し切れ長の、細長く高い鼻をしていた。中性的で、髪の毛の短い、整った容姿の、少しさみしそうな顔をしていた。
(そしてわたしは、学校ではいつも、佐伯くんのことを遠くから見ていたのだった)

でも、その世界の佐伯くんは、青白くやつれていて、疲れているみたいだった。いつも着ている白いシャツ。でもそのシャツは、ところどころで破れた上に、水を吸ったせいで重くなっているみたいだった。
わたしの目には、その姿はなにかとてもうつくしく、なまめかしい様子に見えた。
そうしてそういう風に見えたのが、なんだかいけないことのような気がして、少し怖くなったことを覚えてる。

長い睫毛。女の子みたいにつぶらな瞳を、草叢みたいに覆い隠して。
つぶらな瞳は悲しそうにきらきらと闇夜の中で輝いていた。雨の中で、まるで雨に煙る草叢のどこかで、迷子になった子猫みたいに。淋しそうな様子で。

その世界では、ミズチという名で呼ばれている佐伯くんは、上野(こうずけ)の国に住んでいるらしかった。

神代の時代に、上野の国にまで降りてきたという、高天原の、喪われた神々の血を引く、豪族の私生児として、佐伯くんは生まれた。

けれども何週間も降りっぱなしの記録的な大雨は、利根川の水位を破滅的なまでに上昇させてしまった。

洪水は大勢の犠牲者を出してしまった。
それで佐伯くんは、竜神様の怒りを鎮めるための、人柱に選ばれたのだった。
両手両足を縄で縛られ、猿轡を噛まされて。五月五日の夜遅く、他の七人の子供たちと一緒に、荒れ狂う川の中に投げ込まれたのだった。

ひとしきり咳き込んで、どうにか自分の体が五体満足で生きているのを確認したあと、佐伯くんは、すこし戸惑っているみたいだった。いぶかしみはじめた様子だったの。
ひどく疲れて、やせ細って、粗末な服を着て、寒そうにしながら。
それを見ていると、わたしは不憫に思えてならなかった。どうにかできないだろうかと思ったのね。

でもふと気がつくと、わたしは自分が佐伯くんのすぐそばにきていたのがわかった。

佐伯くんの背中から数十センチほどしか離れていない、暗闇の中に、ふわふわ浮いている自分を見つけた。驚きはしたものの、すぐに気を取り直したの。それで佐伯くんに話しかけた。・・・佐伯くん・・って。

すると佐伯くんは、すぐにこっちを振り向いたから、はっとした。
なのに、まるで何にもなかったみたいに、佐伯くんはすぐにさっきまで自分が見ていたほうに、首をむきなおしてしまった。
わたしぎょっとして、たちまち不安で堪らなくなった。

勢い今度は大声で、佐伯くんに向かって、呼びかけないではいられなかった。――思い出すたびに可笑しくなる。現実の世界でも、あんな風にできていたらどんなによかっただろう。――佐伯くん!って・・・。
でも佐伯くんは、何にもまったく聞こえない様子で、悲しそうな顔をして、あたりを見回すだけだった。だから落胆した。
落胆するとね、落胆っていうのはこういうことを言うんだろうなって、いつでも変に納得してしまうの。だけどみぞおちのあたりに冷たいものがはしるのも同時に感じる。

わたしは納得したことの心地良さと、みぞおちの冷たさが綯い交ぜになって、自分でもよくわからない気分になる。

それから、何かのこだまみたいに、自分の思いが、しだいにしだいに、空からここまで返ってくるから、わたしは自分が何を思っていたのかがわかるようになる。

――佐伯くんには聞こえないんだ!って。

だけれど、これは夢の中の話なんだから、もしかしたら無理も通るかもしれないって、わたし思って、何度も何度も呼びかけていたの。

――佐伯くん、佐伯くん、聞こえないの、あたしの声が聞こえないのって――

やっぱり、皮肉ね、笑ってしまう、夢の中では、あたしはこんなに大胆になれる。だけれど夢は、わたしの世界でできているから――こっちの世界で、心の中で、叫んでいるのと、結果はなんにも、変わらない。
――佐伯くんは、まったく気づかずに、ともかくあたりを歩いてみようかって、思案しているみたいだった。
そこでわたしは、佐伯くんのところにもっと近づいて、その腕を掴もうとした、だけれどこの手は、空しく佐伯くんの腕をすり抜けてしまうばかりだった。
――すごく悔しかった。いらだたしさを覚えたの。でもそれが収まると、やりきれないようなさみしさを覚えた。
でも見捨てるわけにもいかなかった。
このまま佐伯くんのことを見ていようと思った。

暗闇の中に崖のように切り立っている岬の上に、佐伯くんはぽつんと立っている。
そして岬は、なにか蛍のような光をとじこめている、黒っぽい岩石でできている。
闇夜の中に、そこだけぽうっと、灯台みたいに明るくなって。

岬の根元の、陸地の方では、大きな岩ばかりの上り斜面が、緩やかに広がっていた。
どこかの山に続いているのだろうかって思った。
――佐伯くんは、しばらく逡巡している様子だった。
そのうちどうにか心を決めると、道のないような道を歩き始めた。
とても断面の多い、ぎざぎざしている、岩ばかりの道だった。
いかにも地崩れを起こしてしまいやすそうな道だった。

岩の内側からは、赤や緑や橙色に、クリーム色や、コバルト色の、ほのかな光が、ぽおっとともっていた。
とてもきれいで、幻想的だったから、わたしなんだか自分の気持ちも、ぽおっとなって、幻燈みたいに、ほのほのとやわらかくなっていくような気がした。
そうして却って、自分で自分が抑えられずに、かなしい気持ちでいっぱいになった。

道は、しだいに傾斜がきつくなっていった。急勾配になっていく、それがあんまりきつすぎるから、佐伯くんは、両手と両足を使って、攀じ登っていくようになった。
岩と岩の、出っ張った部分を、掴んだり、足で押さえたりするたびに、ぽろぽろ、ぽろぽろ、岩のかけらが、はがれて落ちる。
そのたびによく佐伯くんは手足を滑らせた。
ひどいときは何メートルも下にずれ落ちてしまうの。
――そういう様子はとても危なっかしくて、痛々しかった。どうにも見ていられないような気がした。

手足の皮膚が何箇所もすり剥けて、胸や背中には血が滲んでいた。

斜面は随分長く続いていたの。一体いつまで佐伯くんは苦労するつもりなんだろうと思っていた。
すると次第に、擦り切れて、傷だらけになっている佐伯くんの体からも、まわりの岩と、同じ様子の、ほのかな光が灯りはじめた。
だんだん光は大きくなって、仕舞いには佐伯くんの着ている服全体も光りはじめた。背骨の辺りで、鶏冠のようにまぶしさがあつまっていった。
肩甲骨の辺りから、光り輝く羽根のようなものが、左右ふたつに裂けて生まれた。

そのまま見つめているうちに、真っ白い塊になった、旧い佐伯くんの抜け殻が、ぽろりときれいに剥がれていったの。
それはすうっとしずかに、眼下に広がる、奈落の深みに落ちていった。

無数のほのかな明かりのせいで、クリスマスツリーみたいだって、場違いなことを、あたしは思う。そういう斜面には、相も変わらず、白いシャツのようなものを着ている佐伯くんが、ぽつんと一人で取り残されている。
さっきよりも幾分かは大人びた様子で。
でも無表情なの。何を考えているのかはわからない。
自分がまるで、白蛇みたいに、脱皮したことにも、気付かない。
そのまま頂上に向かおうと、佐伯くんは動いている。傷口は癒えているみたいだった。

それであたしは、よかった、佐伯くんはこれで大丈夫だ、と思って、安堵している自分のことに気がついた。

その斜面を登りきったあたりは、もう真っ暗で、まるで墨汁で塗りつぶされたみたいな空だった。
何か鬼火のようなものが、そこらじゅうでふわふわと浮かんでいたの。
まるで妖精たちのランタンみたいに、地面をなまめかしく照らしていた。
あたりは一面の、淡い色をした花畑になっていて、たくさんのヒメシャガの花、サクラソウ。ヒヤシンス、スズランの花や、コスモスの花が、咲いていた。
色とりどりの、小さな雪崩に埋め尽くされたみたいに。

こんな風に照らされていると、まるで咲いている花たちの、一輪一輪が、それぞれだれかの魂みたいに、思えてきて仕方がなかった。
わたし、佐伯くんについていったの。
廻りのものには目もくれないまま、先へ先へと通り過ぎて行く佐伯くんについて、移動していった。
そしたら今度は、泡のように白っこくて丸い、粒粒としたものが、地面を覆っている場所が、急に目の前に広がった。
近づいてみたら、その泡のようなものは、奇妙に丸い花びらをつけた白い花々だった。今までそんな花は見たことがなかった。夢の中でも。――夢から醒めても。
――そこらじゅうに、こんもりとした膨らみがあった。縦横30センチくらいの盛り土で、どの土の上にも、不ぞろいな形をした、小さな石たちが積み上げられていた。
そうしてうろついている佐伯くんの足元をふとみたら、あたしは黒い革靴の表面に、赤黒い血のしずくの乾いた痕が、数滴ほど付着しているのに気がついた。
わたしたちがこの場所に来てからはだいぶ時間が経っているらしかった。
気づかないうちに、佐伯くんはどうも誰かの亡骸を埋葬したものらしかった。

振り返るとそこは、わたしがこどもの頃に住んでいた、西日暮里の、高台の上にある、道灌山の公園になっていた。
蛇腹のように、高台の上から迫り出している、銀色の手摺の上からは、山手線沿いに広がる市街の明かりが、輝いているのがよく見えた。
地平線いっぱいにちりばめられて。地上に移植されている、人工的な、星空みたいに。
――そういう夜景を、ひろびろと背にしている、角のあたりに、桜の老樹が、何本か植えられていた。
それらの根元は、複雑に隆起して、屈折した曲線を、地面から浮き上がらせていた。

そういう根本の絡まるせいで、他よりもやわらかくなっている地面のあたりでは、大量の土が掘り返されて、ちいさな小山ができていた。
掘り返された、地面の穴は、ちょうど人一人が、横になれるくらいの大きさがあった。

――そうしてそこには何か安らかな顔をした、黒いレースのドレスを着ている、長い黒髪の、とてもきれいな女の子が眠っていたの。――ううん、きっと彼女は死んでいるのだろうと思う、だけど、まだ息絶えてから間もない様子だった。
ビスク・ドールみたいに白い肌には、林檎色の赤みが、ところどころで差していたから。
閉じられた睫毛。それから、金縁の刺繍の入っている、赤いリボンをつけていた。

小さな薄い、桃色のかけらが――桜の白い、はなびらたちが、黒い土と、彼女との間を、隔てるように、散り敷かれていた。
それでも、あらわになった、二の腕や、耳元には、黒い小さな土塊がついていた。そう、両手に抱えきれないくらいの、桜の花びらにかざられて。かすかに土で、汚されて。――女でも思わず、見惚れてしまいそうな美しさだった。

だけれど、どこかで見覚えのある顔のような気がしたの。
不意にあたしは、彼女は小夜子という名の女の子だったと思い出した。
あたしが彼女を知っているのは、ひとえに彼女が佐伯くんと付き合っている、という噂を、知っていたから。
あの噂は本当だったんだ、って思った。

――佐伯くんはね、掘り返された土のすぐそばに立っていた。
うつむくようにして、小夜子の遺体を見守っていたの。
いつの間にか、佐伯くんの背は高くなり、年恰好は随分大人びて見えた。
あんまりやさしそうな目で見つめていたから、不思議と嫉妬は感じなかった。
どうも佐伯くんが殺したわけではないみたいだった。
――だからあたしはまた少しほっとした。――でも、そしたらね。――佐伯くんは、かすかな声で、一言、姫ちゃん、と呟いた。

そしたら、そしたらね――もうその土の中で、眠ったように死んでいるのは、人形みたいに埋葬されている、あたし自身の亡骸だった。そうしてあたしは、それを見ている、黒いレースのドレスを着ている、小夜子の姿に、なっている自分に気がついた。
怖くなった。そう、とても怖かったの。――違う、違う!これはあたしだけれどあたしじゃない!って。――だけれどそれを、どういう風に、佐伯くんに伝えればいいのか、うまく言い表す言葉が見つからなかった。

あらわす言葉が見つかったとしても、伝える仕方がわからなかった。
――そうしてそのまま目を醒ましたの。

あたしは自分の部屋にいた。
気付くと窓は、開きっぱなしになっていた。しずかな風が吹きつづけていた。
レースカーテンは穏やかにはためいていた。
編みこまれた糸たちの隙間から射し込んでくる、透明で、無意味な光は、ベッドシーツを、水のような明るさで浸していた。

外はもう夏ね。

わたしはこうして、外にも出ないで――あなたのことを、怖がっているのね。

(2012年)

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