うすた京介ギャグの"わからなさ" ~ジャガージュン市の詩『春郎』から見る修辞と対象の欠如~
はじめに
この記事が目指すのは、うすた京介のの面白いギャグがどう面白いのかを説明することではなく、うすた京介のギャグがどういうことを指向(※志向ではない。ここでは作者の意図は問題にしない)しているのか、そして既存の笑いの文法と何が異なるのかを論じることである。その手掛かりとして、『ピューと吹く!ジャガー』第21笛におけるジャガージュン市の詩論を参照する。
ジャガーの詩論
『ピューと吹く!ジャガー』第21笛で、ジャガーがポギーの詩を否定し、自身の詩論を展開するシーンがある。要約すると、ポギーの詩は「わかりやすいようで実はわけわからん」から詩ではない。詩というのは、「わかりにくいようで実はよくわかる」ようでなくてはならない、というものである。
しかし、後者の例としてジャガーが即興で作った詩は「わかりやすいけど何だかよくわかんねぇ」とツッコまれる。
それに対しポギーは心の内で逡巡する。ジャガーの詩はわけわからんけど、「妙に印象に残る詩ではあった」。つまりあれは「わかりにくいようで実はよくわかる」詩だったのではないか? と。
ここで、ポギーの詩とジャガーの詩、そして「わかりやすいようで実はわけわからん」と「わかりにくいようで実はよくわかる」という形容について持論を交えつつ整理してみる。
ポギーの詩
ポギーの詩は、「わかりやすいようで実はわけわからん」とジャガーに否定されている。しかし、私にはそうは感じられない。むしろポギーの詩は「わかりにくいようで実はよくわかる」ものだと思う。
第21笛のポギーが「耳くそ」を表現した詩の最後の4行「耳に残る光のカケラは 砕け散ったダイヤモンド 初めて気づいた これは天使の贈り物…」だが、ここでは「光のカケラ」「砕け散ったダイヤモンド」「天使の贈り物」は耳くそを言い換えた表現、暗喩である。
比喩とは、何らかの対象aを別の対象bによって婉曲的に表現する技法であり、そして受け手が比喩を解釈するときは、bからaに変換する作業が必要となる。比喩は、単語a'によって対象aを示すという、我々が普段のコミュニケーションで使う表現よりも複雑、あるいは煩雑と言ってもいいだろう(だからこそ詩のレトリックとして成立している)。このように、言葉とその指示対象の関係の点でとらえた場合、ジャガーの詩の「春郎くんのお母さん」は「春郎くんのお母さん」以外の何者も示していないのに対し、ポギーの詩の「光のカケラ」は「耳くそ」という遠いものを指している(ハマーの「す…すごい!今のがホントに耳くその詩…!?」という感想は、この遠いものを比喩によって見事に結びつけたことに向けられている)のである。そしてこれは、言葉と指示対象の遠さという点で「わかりにくい」。なお、第20笛でポギーが登場した際、ポギーの詩に対してファンの女性たちは「何言ってんのか全然わかんない! わかんないけどなんかすごい! 雰囲気にごまかされてしまいたい!!」という感想を抱く。
一方、比喩という技法自体は一般に浸透しており、古典的で、下手に使えば陳腐でさえある。耳くそを題材にした詩において、「光のカケラ」が耳くそを示していることは、ある程度の言語能力を身につけている人間であればわりあい容易に理解可能である。その点で、ポギーの詩は「わかりやすい」。
この詩が「わかりにくいようで実はよくわかる」のか、それとも「わかりやすいようで実はわけわからん」のかを判断するうえで、「わかりにくい」と「わかりやすい」のどちらが先行するのかが問題になる。これは、詩の鑑賞経験から説明される必要がある。
(一般的な)詩を鑑賞するうえで、我々はまず、美しい言葉の響きを味わうだろう。ポギーのファンの女性の感想に乗っかって「雰囲気」と言っても良い。ポギーやピヨ彦がポギーの詩を美しいと思うのは、「光のカケラ」という響きによってであって、それによって婉曲的に表現されている「耳くそ」の方ではない。詩は、一般的な意味理解の仕方とは異なる仕方で受容されるからこそ言語芸術なのである。その意味で、ジャガーの言う通り、「わかりやすいようで実はわけわからん」のは良い詩ではないといえるだろう。そして「光のカケラ」という響きを味わってから、「耳くそ」が表現されていると解釈する。先述の通り、そこに「比喩」というレトリックがはたらいていることは容易に理解できる。
つまりポギーの詩は、ジャガーの言うことに反して、「わかりにくいようで実はよくわかる」詩なのである。それは言い換えると、「文の意味は文字通り受け取ることはできないが、何らかの対象が比喩という古典的な技法によって婉曲的に表現されていることは容易に理解できる(また、その対象も推測が可能である)」ということである。
ただし、後にポギーがジャガーの詩に対して逡巡する中で考える「わかりにくいようで実はよくわかる」とは意味が異なる。これについては後述する。
ジャガーの詩
ジャガーの詩は「わかりにくいようで実はよくわかる」のお手本として作られたものが、これはツッコミの通り、「わかりやすいようで実はわけわからん」詩である。以下、ジャガーの詩「春郎」の全文引用。
小学校の時/春郎くん家に行った時/春郎くんのお母さんが着てた/赤い水玉のシャツが/よーく見たら/赤い水玉じゃなくて/エビの絵だったのが/すごくイヤだった/なんかイヤだった/妙にリアルでイヤだった/さて 春場所も近いので/そろそろ稽古に行って来ます
先ほど見たポギーの詩のような比喩の技法は、ジャガーの詩には全く使われていない。この詩の文章は、小学生の作文のように簡単で稚拙な記述によって構成されている。単語a'によって対象aを示す日常的な、一般的な意味理解の仕方で容易に理解できる。その点でこの詩は「わかりやすい」。
一方、この詩が何を表現しているのかを理解するのは極めて難しい。なぜなら、恐らくこれは何も表現していないからである。それは「春郎」という固有名詞の使われ方に象徴的である((第67笛のジャガーの詠んだ俳句「春池や 吉川ひさしと 前田ジュン」でも固有名詞は鍵となっている。))。固有名詞ではただ一人の人物を指す。単語a'は固有名詞として、(「婉曲的」とは反対に)直接的に対象aを示す。つまり、「春郎」は固有名詞として、直接的に対象・春郎を示す。しかし、春郎とは一体だれであろうか? 少なくとも漫画の登場人物ではないし、現実に実在する人物を指しているわけでもないことは明らかである(ベートーヴェンの曲に、『エリーゼのために』という曲名がつけられたものがあるが、これは実在するエリーゼのために書いた曲であることが歴史的にも明らかであり、愛する女性のために書かれた作品であることは推測可能である)。そしてこのことを(独立した詩作品ではなく)ギャグ漫画という視点から説明すれば、春郎が誰だかわからないということが、ギャグなのである。なお、「耳くそ」といった一般名詞は一般名詞であることによって、対象の欠如の問題は生じ得ない。
この詩では、固有名詞の単語a'とその直接的な指示機能だけがあり、対象a(春郎)は実質的に存在していないという事態が起きている。日常的な言語運用の場面と異なるのは、対象の欠如であって、単語やその機能の仕方ではない。ここには何の修辞的操作も働いていない。このような存在しなさという点で、この詩は「わけわからん」ものである。
つまり、ジャガーの詩は、ジャガーの言うことに反して、「わかりやすいようで実はわけわからん」詩である。それは言い換えると、「指示関係は単純で文の意味は容易に理解できるが、単語によって指示されている対象の存在が実質欠如している」ということである。
しかしポギーはこの詩に対して、以下のように逡巡する。
あいつの詩ダメだったよな!? わけわかんねーし…でも妙に印象に残る詩ではあったな… ……アレ て事は「わかりにくいようで実はよくわかる」詩だったのか!? いや…そんなバカな わかってはいない! 全然わかってはいないぞ!
ポギーはここで、「妙に印象に残る」ことを「よくわかる」と言い換えている。これは、一般的な意味理解という、先ほどの「わかる」の意味とはずれている。意味理解においては、ポギーや読者は確かにジャガーの詩を「わかってはいない」が、印象には残るということを、「わかりにくいようで実はよくわかる」と言っているのである。
うすた京介のギャグ
ジャガージュン市がギャグ漫画の主人公であり、役割としては「ボケ」である((このことは、第182笛「「ツ」のつくアレを込め!」でも自己言及されている。))ことを考えれば、ジャガーの詩はうすた京介のギャグと同一視することが可能である。すなわち、うすた京介のギャグは「わかりやすいようで実はわけわからん」ものであるといえる。
対象の欠如は『春郎』に象徴的だが、作品全体を特徴づけているものでもある。『ピューと吹く!ジャガー』の最終話「めくるめけ、日々」では、ジャガージュン市が実は全身皮のようなもので覆い隠されていたことが発覚する。つまり読者が「ジャガージュン市」によって指示していたものは、実は全く別の姿をしていたのであり、その正体は描かれないまま終わる。『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』のキャラクター「めそ」も、正体不明の生物が毛皮の中に入っていようだがその中身は描かれない。ジャガーの場合はある種、歴史修正的な仕方だが、『フードファイタータベル』の最終話は作品世界そのものがキャラクターによって"喰われる"というオチであり、こちらは事後的に対象を指示できないようにしている。『武士沢レシーブ』では最終話にして18年後の武士沢とトリ男がコンビニで再開するオチ(この急な時間経過と再会で割かれるのは2ページのみ)となっており、こちらは前者に比べると対象は維持されている(生存している)ものの、キャラとしては読者の知っていたものとは異なる姿になってしまっている。
基本的に、言語によってなされるギャグというのは修辞的操作に依っているものであり、うすた京介による、修辞的操作がなく、対象が欠如することのみによって成立するギャグは、一般的な技法としては恐らく成立していない。
同じく欠如によって成立するギャグに、いわゆる「ナンセンスギャグ」がある。non-senseは直訳すると「無意味」(意味の欠如)だが、ナンセンスギャグはそれが「ギャグ」として効果を発揮する以上、全くの無意味をただ描写しているのではなく、何らかの方法論があると考えるのが自然である。しかし日本の「ナンセンスギャグ」は散発的で全体像が見えにくいため、ここでは歴史のある英語圏のナンセンス文学のナンセンスユーモアについて書く。
ナンセンスギャグの内容
以下は、英語圏におけるナンセンス文学の作家として知られているEdward LearのA Book of Nonsense (1846)にあるリメリックである。
There was an old man who said, “Hush!; I perceive a young bird in this bush!"; When they said, “Is it small?"; He replied, “Not at all!"; It is four times as big as the bush!”
(拙訳)ある老人が言った「静かに!この茂みの中に幼鳥がいるのだ!」彼らは言った「小さいのか?」彼は答えた「とんでもない!茂みの四倍の大きさだ!」
この作品で欠如しているのは、老人の話す内容の一貫性である(茂みの中にいる幼鳥が、茂みの四倍の大きさであることは普通あり得ない)。つまり、それぞれの文の意味は明瞭で理解可能だが、複数の文の間にある一貫性が欠けている。ジャガーの詩=うすた京介のギャグが「指示関係は単純で文の意味は容易に理解できるが、単語によって指示されている対象の存在が実質欠如している」であるとすれば、このナンセンスギャグは「指示関係は単純で文の意味は容易に理解できるが、複数の文の間にある論理的な一貫性が破綻している」といえる。
「茂みの中にいる幼鳥」と「茂みの四倍の大きさの幼鳥」は、一つの像を結ばないため、対象の存在の不明瞭さではうすた京介のギャグと同様である。しかし、幼鳥の詩の場合、一つであるはずの対象が複数存在してしまっているために対象の姿が不明瞭になっているのであり、確かに一つの対象しか指示し得ない固有名詞が、上手く指示関係を結べていないというジャガーの詩とは異なる。また、欠如の不明瞭さの原因は、前者では論理関係だが、後者はそうではなく(しいて言えば)指示関係という点でも異なる。
ナンセンスギャグの方法
Edward Learのナンセンス詩で注目すべきは、会話体であることによって作られている間(ま)と、老人の台詞に見られる妙な必死さ(感嘆符の多さ)、そして老人の台詞で終わるという詩の終わり方(老人の台詞がオチであることがわかる)である。これらの方法によって、非一貫性について作品内で明言しなくとも、この非一貫性がユーモアであることが鑑賞者にはわかるようになっている。
一方、うすた京介のギャグ漫画、とりわけ『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』『ピューと吹く!ジャガー』『フードファイタータベル』といった連載作品に特徴的なのが「ツッコミ」である。これらの作品のツッコミ役であるフーミン、ピヨ彦、ウマミチは外見や口調に明らかな類似が見て取れ((『ピューと吹く!ジャガー 公式ファンブック ふえ科自由研究』のコーナー「ジャガーの原点!? うすた作品大集合!!」で、「主人公に振り回されるフーミンがピヨ彦にどことなくソックリ!!…とも言われているらしいぞ」と書かれている。また、この本の巻末に掲載された「ピューと吹く!すごいよ武士沢」では、ジャガー&マサル&武士沢が同時に同じボケをし、それに対しピヨ彦&フーミンが同時に同じツッコミをして、互いに親指を立てる描写がある。))、似たツッコミの型が複数の作品で反復されていることがわかる。
彼らのツッコミは、非常にベタな種類のツッコミである。それは、ボケによって為されるまたは話される異常な事柄が異常であることのリアクション(指摘)と記述、そしてなぜそれが異常であるかの解説である(例えば『ピューと吹く!ジャガー』第262話ピヨ彦の長いツッコミ「「つってね」じゃないだろ―――!! ドアバキバキに壊れちゃったよ!!」「ドアはあるのにドアノブが無い店ないし ウエストポーチにハミちゃん入んないし ドアに思いっきり刺してるし 実際ウチのドア壊しといて「イッケネヘエ~~イ」じゃ済まねえから――――――!!」)。
こうしたツッコミによるボケの伝達方法は、Edward Learのナンセンス詩の明言せずにユーモアをそうと伝える方法とは大きく異なる。
以上のことから、うすた京介のギャグはナンセンス文学のナンセンスユーモアとは異なるものだといえる。
おわりに
冒頭で、この記事が「うすた京介のギャグがどういうことを指向しているのか」と、「既存の笑いの文法と何が異なるのか」について論じることを目指している、と書いた。その答えを極めて簡潔にまとめると、それは「修辞と対象の欠如」である。また、ナンセンスユーモアとは異なり、そのギャグはツッコミによって伝達される。
今後の課題として残るのは、「修辞と対象の欠如がなぜ笑いにつながるのか」である。これを、うすた京介の漫画に度々登場する「布・皮・服」のモチーフにつなげて説明するということをいずれ試みようと思う。