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【第壱話】 藤井 健吾

鳥肌が立たないくらいの涼しい夜風が、レースカーテンを舐めて、薄暗いキッチンに向かって吹き抜けた。空気の塊が、換気扇の下でタバコを吸っている健吾のすねにぶつかる。

健吾がぽりぽりと足を掛く。

「寒い?窓閉めよっか?」

ベッドの上にいる陽菜(ひな)が、窓に手をかけて健吾に聞いた。

「ううん、大丈夫。ありがとう。」

健吾はおもむろに、タバコの灰をトントンと落としてから、キッチンの壁に耳をあてた。

健吾は音を立てないように陽菜を手招きした。

「ちょっと来て。聞いてみ。」

陽菜はおそるおそる壁に耳を当てると、目を見開いて驚いた。

『こぉる……ひぃ……….てぅぅ……ぇ……….』

壁の向こうから呻き声が聞こえる。

「え、大丈夫??」
「たぶん、大丈夫。なんかいつも聞こえるんだよね。」

「そうなんだ、、、」

陽菜は少し間を置いて慎重に聞いた。
「いつから?」

「実はずっとなんだよね、たぶん陽菜と付き合う前からだから3ヶ月前くらいからかな。」

健吾と陽菜は看護学校に通う同級生で、3ヶ月前に付き合い始めた。陽菜も近くに住んでいるが、週2日は健吾の家で寝泊まりしている。

「なんで言ってくれなかったの?」

「だって、言う必要ないかなって」

健吾は喉の奥で短く笑った。しかしその目は少しも笑っていなかった。

「病気の人で助けを求めてるかもしれないじゃん!」

「大丈夫だよ。」

健吾はゆっくりと煙を吐き出した。
「今朝も、、、外で見たし、、、」

陽菜は健吾が何か言いたげなことを察知したが、深追いはしなかった。
「そう。」

二人は特に気にせず、日常に戻った。

暗闇が深くなり、健吾は部屋の電気をつけた。窓の外に見える街の風景にもぽつぽつと光が灯っているのが見える。夕暮れの時間よりも部屋の中は明るいはずなのに、健吾はなぜか暗いどんよりした気持ちになった。

いつも通りの夜が過ぎていく。二人でごはんの準備をして、テレビで映画を見る。陽菜が今日は怖い映画を見ようと言ったので、「怪談百物語」という名前の映画を観た。登場人物が1人ずつ怖い話をしていき、怪異が起きて結末を迎えるという、よくある三幕構成の映画だ。陽菜は楽しそうにしていた。怖い話が苦手な健吾は、恐怖をこらえながら、何がそんなに面白いのか、全く理解できなかった。

映画が終わって一息つき、健吾が食卓のグラスなどを片づけていると陽菜が思い出したように話し出す。

「そうだ!、さっきの観て私も怖い話を思い出したんだけど、聞く?」

健吾は、陽菜が自分が怖い話を苦手だと知って意地悪をしていると思い、わかりやすくうんざりした顔で言った。

「いーやーだーー」

しかし、陽奈は食い下がった。

「じゃあ、これはフィクションだから安心して聞けるよ!お願い!」

「何その『この物語はフィクションです。』みたいなやつ。」

「お願いお願い!感想だけ聞きたくて!」

折れた。
「わかりました。どうぞ。」

陽奈は食卓に頬杖をついてニンマリ笑った。

「これは現代の現実世界の話なんだけど、、、」

陽奈は食卓から、グラスを洗っている健吾を見つめながら話しはじめた。

「とあるどこにでもあるアパートで、一人暮らしの男子大学生のAくんは、毎晩深夜に大音量でゲームをしていました。

隣人から壁を叩かれることもしばしばありました。

ある朝、いつも通りに学校に出かけようと家を出ると、ちょうど隣の部屋からも人が出てきました。杖をついた、いかにも見窄らしい毛玉だらけの茶色い毛糸のベストを着たお爺さんが、目をぎゅっと閉じたまま、手探りしながら自宅の鍵を閉めていました。

Aくんは隣にこんな老人が住んでいるんだと、少し不気味がって、挨拶もせずそそくさと廊下を通りすぎていきました。

Aくんは毎日同じ時間に家を出ることもあるためか、次の日からその老人と鉢合わせすることが多くなりました。

以前、壁を叩かれたこともあったので、居心地の悪くなったAくんは、自分が少し時間を遅くして、お爺さんが家を出た後に出ることにしました。


Aくんは、いつも通りの時間に玄関で靴を履いた後、耳を澄まして座ったまま待機した。




ガチャ、、、


キィ、、、



ガチャン

カシャ、、、、

カッ
カッ

カッ
カッ


おそらく、目の見えないお爺さんが杖で障害物を確認する音が聞こえる。


カッ
カッ

、、、



カッ
カッ


カッ、、、、、



おかしい、お爺さんが近づいてきている気がする。アパートの階段は反対方向にしかないのに、、、



カッ
カッ



カッ、、、、、、、



驚くことにAくんの部屋の扉の前で音が止まりました。

Aくんは自分の心臓の鼓動が早くなるのを感じました。

そして、恐る恐る立ち上がり、のぞき窓を見ると、、、、


おじいさんが何もせずにAくんの部屋の扉に対面して立っていました。


Aくんはお爺さんがボケているのかもしれない、、、と思い切って扉を開けてみました。


『あの、、、何か、、、、』


お爺さんはぴくりと眉を動かしたが、それ以外は植物のように動きませんでした。


A君は続けました。

『たぶん、お爺さん、部屋間違えてますよ。お爺さんの部屋は、、、、、、』



すると、突然お爺さんが目を見開いて、真っ白に白濁した黒目でAくんを見つめながら叫んだ



『ころしてくれぇええ!!!!!!!!!!!!』




A君は玄関に後退りして、ガチャンと扉を閉めて施錠しました。

腰を抜かしてしまい、座り込んで、おじいさんが
立ち去るのを待ちました。

しばらくするとお爺さんはいなくなり、自分の部屋に帰っていきました。

Aくんは、その日以来、友人の家に泊まったり、友人を家に泊めたりしながら、できるだけ家で一人にならないようにして過ごしていました。

友人と話すうちに、殺してくれと懇願するほど、苦しい思いをしている、その身寄りの無いお爺さんの隣人が哀れに思えてきました。

そんなある日、Aくんが朝まで飲んで帰ってきたときに、アパートの階段を登ると、お爺さんがちょうど部屋から出てきてしまい、数ヶ月ぶりに鉢合わせしてしまいました。

一瞬、Aくんはたじろぎましたが、哀れみの気持ちがあったので、前に対面した時のような不気味さは感じませんでした。

また叫ばれまいと、恐る恐る通り過ぎようとすると、、、


すれ違う時に



ころしてぐれぇええ!!!!!!!!!!!!!



また叫ばれてしまいました。


さすがにイラっとしたAくんは強く言い返しました!


『うるさい!』


すると、背後からドスッという後とともに衝撃と身体を冷たい何かが貫通するのを感じました。

ドス、ドス、ドス、、、、

何度も衝撃を感じ、自分の身体がどんどん冷たくなるのを感じました。



Aくんは真っ赤になった廊下に倒れ込み、薄れゆく意識の中で背後を見ると、お爺さんよりも一回り大きい黒い服を着た男が、手に血まみれのナイフを持っていました。


ころしてくれ


お爺さんは自らを殺してくれと懇願していたのではなく、Aくんを殺してくれと懇願していたのでした。



、、、、、




、、、、どう?」



健吾は洗い物を終えて、陽菜の対面に座り、こわばった顔で聞いた。



「その話、本当にフィクション?」

「最初に言ったじゃん!作り話だよ〜」

「そう、、、めちゃくちゃ怖いじゃん、、、」

健吾は平静を装ったが、内心は動揺していた。
なぜなら、今朝、健吾は部屋を出る前にドアの外に気配を感じてドアの覗き穴を覗き込むと、隣人のお爺さんが立っていたのだった。Aのように話しかけるような事はしなかったが、恐怖を感じた健吾はお爺さんが立ち去るのを待ってから家を出たのだった。

あまりにAと状況が似ていたので、陽菜に聞いた。

「その話って、さっき隣の人の呻き声を聞いて、陽菜が思いついた話?」

「うーん、どこで聞いたかは覚えてないけど……映画見てたら、ふっと思い出したの。不思議だよねぇ……。」

「最後に出てくる、黒い服の男って誰なの?」

「それも忘れちゃったんだけど、たしかお爺さんが高いお金で雇った人だったかな〜。」

「そうなんだ。」

健吾は陽菜に心配させまいと、今朝のことは黙っていることにした。

「先にお風呂どうぞ。」
陽菜に一番風呂を譲った。

「何から何まですまないね〜」
陽菜は健吾を茶化すように言った。



陽菜が風呂に入っている間に、健吾はまた壁に耳をあてて耳を澄ました。


、、、、



、、、、


、、、、


こ ろ し て くれ、、         


1枚の壁を隔てたすぐ傍で、お爺さんが呻いている。


健吾はゾッとして、後ずさりした。
1ミリ以上の鳥肌が全身を包み、急いで戸締りがきちんとされているかを確認した。


健吾は陽菜がお風呂から出るのを、いまかいまかと待っていたが、我慢できず陽菜に声をかける。
「陽菜~、ちょっとヤバい。早めに出てきて!」


お風呂から心配した声で陽菜が応えた。
「なに?どうしたの??」

「出てきたら話す!」


陽菜はバタバタと急いで、パジャマ姿で髪をタオルで乾かしながら出てきた。

健吾は震える声でひそひそと言った。
「隣の爺さん、殺してって言ってる。。。」

健吾の声量に合わせて陽菜が聞く。
「え、あの話と同じってこと?」

「実は、今朝さ、隣の爺さんを見たって言ったけど、あの話と同じように、うちの玄関の前に立ってたんだよ、、、」

「え、そうなんだ、、、怖いね、、、」

健吾は唇を震わせていた。
「警察に電話した方がいいかな??」

「いや、実害は無いから難しいかもね。変に刺激しない方が良い気がする。私もしばらく健吾んちで過ごすね。……ねぇ、健吾、一緒にいたら安心するでしょ?」

陽菜は優しく健吾の手を握り、背中をさすった。

陽菜は健吾を椅子に座らせると、水を持ってきた。

「一先ずこれ飲んで、落ちつこ」
陽菜はコップを差し出しながら、微笑んだ。
その笑顔が、少しだけ違和感を覚えるほど、優しすぎた。

健吾は少し迷ったが、喉の渇きを感じて一気に飲み干した。

「ありがとう、、、」

ごくごく……
健吾はあっという間に飲み干した。



ぐらぁ……


目の前がぐにゃりと歪む。
足元がふらつく。


おかしい。こんなに急に……?

頭がズシンと重くなり、気づけば床が近づいていた。


ドンッ!


健吾は床に倒れ込んだ。
視界が揺れる中、陽菜が見えた。


陽菜はじっと健吾を見つめていた。


……ニタァ。


ゆっくりと、不気味な笑顔を浮かべながら。


その口が、何かをつぶやいた。
健吾の意識が暗転する直前、かすかに聞こえた。


「ころしてくれ……」






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