フラットアースに興味、無いですね?
Twitterでフラットアースに対するコメントを見ていると、この人はそもそもフラットアースの論そのものには興味が無いんだなという印象を受けることも多い。たとえば「宇宙が無い」という主張に対して「GPSが使えるのは宇宙があるからだ」という反論コメントがあったりする。これはつまり「GPSが使えるのは人工衛星が飛んでいるからで、人工衛星が飛んでいるのは宇宙空間である」という意味だ。うんうん、言っていることはもちろんわかる。しかしこの人はフラットアースに興味が無い。興味があればおそらく「GPSが使えることはそれと矛盾するのではないか?」という疑問形を取ったり、あるいはそれより先に「フラットアース GPS」みたいな検索ワードで下調べしたりするのではないか。そんな面倒くさいことしないよと言うなら、やはりそれは興味が無いのである。
興味が無いことを悪く言うつもりはない。僕にだって興味が無い物事はいくらでもある。しかし興味が無いくせに反論のコメントをすることはだいぶショボいと思うし、なんならこの人は自分がフラットアースに興味が無いことに気づいていないかもしれないと思うと相当ダサい。だいたいおよそ物事というものはその全容において多かれ少なかれ複雑なのである。簡単であるということはまず無い。たとえフラットアースが妄想論だったとしても、その妄想としての在り方それ自体についてはおそらく複雑なはずである。なんでもいい、髪の毛一本であれ、ピスタチオの殻であれ、コンドームのパッケージデザインであれ、僕の性癖であれ、その全容は必ず複雑である。簡単であるということはまず無い。その複雑たる物事に対して、まず興味(あるいは好奇心)が無ければ、その姿を捉えることはどんどん難しくなってゆく。そのことをおそらく彼は知らない。
いったん興味や好奇心が駆動すれば、自らの存在が対象に鋭くフォーカスしてゆくような自律的な運動が起こる。脳は激しく回転し、知性体にドライヴがかかり、解像度がぐんと上がる。このような運動があって初めてものがよく見えてくるというところがあるだろう。逆に言えば、このような運動が起こってこなければ「自分はそれに興味が無い」ということがいわば"事後的に"、わかる。彼はそれに気づいていない。そしておそらくそのような運動が存在することをそもそも知らない。あるいは頭ではそれを知識として知っていたとしても、体内にそれを経験したことが無い。だからそのような運動を行う人間は一種の「異能の者」として映るはずだ。踊りを踊る人間の体内で何が起こっているかは踊らない人間にはわからない。それを行う人間を異能の者として、区別し、ある場合には聖別し、ある場合には虐げるかもしれない。彼は自らが異能の者となることを恐れている。社会がそれを要請する。普通たれと。
あるいは彼はそれを育むことが出来なかったかもしれない。たとえばこの世に生まれてきて気がついたら一家まるごとお受験産業にぱっくり呑み込まれてしまっていて、とても自らの興味や好奇心のために割ける知的リソースが無かったかもしれない。その柔らかな体内に知の新芽を、その胎動を、その激しい流れの源泉を、ついに枯らすしかなかったかもしれない。生き残るために仕方がなかった。もう二度とそれは戻ってこないかもしれない。戻ってくるかもしれない。誰にもわからない。しかしそれでも興味がなければやはりどうにもならない。好奇心がなければ何を見ることもできない。関心の無い事物は視野には入ってきていないことに気づかないか。興味の無いことは考えることができないことに気づかないか。フラットアースに興味を持ってくれと僕は言わない。好奇心が、ほんとうの好奇心が湧くまで待て。それが君を捉え、打ち抜き、賦活するまで待て。遅くない。君よ異能たれ、異能たれ。