一種の「冒険」としてのフラットアース論
ラインホルト・メスナーというイタリアの有名な登山家がいる。そのメスナーの著作に『極限への挑戦者』(東京新聞・2013年)という本があって、そこになかなかinspiringな箇所があったので、ここで引きたいと思う。
彼にとって冒険とは何か?についてメスナーはインタビューで答えているのだが、曰く、「誰もやったことのない、死に至るかもしれない困難な旅。戻ってこられるかどうかさえわからない。生き残れたならば、すっかり別人になって帰ってくるようなそんな旅」であると言っている。メスナーはそんな旅を選ぶのだと。これは古代ギリシャで言うところの「冒険」の概念なのだそうだが、特に"すっかり別人になって帰ってくる"というところが良い。なにかというと、フラットアース論はややもすればこのようなことが起こり得ると僕は思う。あるいは"知的な"探求とは、要はそういう一種の「冒険」の行為なのではないかと。
「知的な探求」とまで言わなくとも、調べ物であれ、新しい分野への踏み込みであれ、そのような"すっかり別人になって帰ってくる"ような、そんな冒険でなければ、あるいはそのような腹づもりで臨まなければ、いざとなればそれを辞さないという気概がなければ、ほんとうには何も見つけることはできないのではあるまいか。僕自身の話をする。フラットアース論そしてコロナ騒動を通じて、おそらく僕は"別人になって帰ってきた"のではないかと思っている。それ以前と以後では、明らかに分断がある。以前の僕は今ごろどこで何をしているのであろうとふと思うことが(特にここ最近は)なくもない。これは以前からの周囲の人たちが気づいているかどうかは知らない。よくわからない。とりあえず今のところ僕だけがその分断の断面をありありと触り当てることができる。あれは古代ギリシャで言うところの「冒険」であったのではないか。
さて翻って、2025年になってもなんにもわかっていないミンナ教徒たちや、あいもかわらずド派手にスベり続けている我らが球体派たち。彼らは「冒険」になど出ないということなのだ。そんなことできるわけがない。だから彼らはあんな感じで年中おバカなのである。フラットアーサーは「冒険」に出る人たちだ。それはメスナーの言うように「死に至るかもしれない困難な旅」なのである。もちろん彼が向き合ってきたであろう"本物の死"では無い、メタファーとしての死でしか無いのは重々承知だが、しかしそれはある種の観念的な死であり、自己同一性の死であり、認識の死であり、ある場合には社会的な死であるかもしれない。それはやはり困難な旅である。冒険である。そして僕とあなたはこうしてここに今のところ生き残っている。それを寿ぎたい。新年ですしね。あけましておめでとうございます!
では最後にもう一度、古代ギリシャから引いてきたというメスナーの「冒険」の定義をコピペして置いといて、本稿を終えたい。