「体験の共有」に楽しみを見出す事は間違っているだろうか。

ラノベのタイトルみたいですね。
ニンジャスレイヤーを読んでいてよく思うことです。直接、作品のことについて、ではなく付き合い方の話です。

リアルタイム翻訳アンド実況タグ完備という好環境の中、私は感想を投稿したり感動の雄叫びを投稿したり共有したりできています。そのタグを覗く事や、そのタグで知り得た読者をフォローする事で、さらなる作品の魅力を発見する事もできています。

「楽しい」を共有できる事は嬉しいです。「悲しい」を共有できる事は幸せです。私にはない目線から萌えを語ってる人を発見出来たら、貴重な体験だなあと思います。

それは体験の共有です。「小説」であり「インターネット」が連載の場に選ばれているこその楽しみです。同じ体験(読書体験、疑似体験)をし、語り合う。

例えば学生時代。同じ授業を受けた友人と、つまらないだの気に入らないだのと話し合う。例えば映画鑑賞。恋人なり友人なりと2時間同じスクリーンに向き合って同じ映像を隣同士の席で鑑賞する。その後映画の感想を話し合い、共有する。例えばスポーツ観戦。同じものを観て、叫び声を上げたり喜んだりがっかりしたりする。これらと同じで小説のリアルタイム実況の楽しさの本質は「体験の共有」だと考えています。
更に突き詰めると、体験の共有とは誰かと同じものを観測した時、その誰かと同じ事を考え、感じる事への喜びだと思います。「この人(相手)と同じだ」という事を確認する事、相手との同一化をすることで安心感や、喜びが得られます。
それも相手に無理に合わせて同一化する事ではなく、あくまで自分が自分らしく思ったことを伝え合い、共有し、同じであることを確認する事が重要です。

時に、当然のことですが、同じものを観測し、全く別の感想を持つ人を発見する事が、私にはあります。「このお話が好きだ」に対する「このお話が嫌いだ」。「このキャラクターが好きだ」に対する「このキャラクターが嫌いだ」。一つの感想に対し、意図的ではなくとも(ほとんどの場合そうです)、それを否とする感想です。

あるキャラクターの「ルックスが好きだ」という言葉に対して同じキャラクターの「性格が好きだ」という言葉は、前者に対する否定にはなりません。あくまでそれらは「ルックス」「性格」と別軸で語っていることであり、更に両者ともあるキャラクターに対して好意的な意見であるためです。

一つの感想に対し、否とする感想が存在する事は当然であり、また、観測する事もほぼ避けられません。多くの感想に触れる限り、必ずどこかで目にする事でしょう。この駄文で言おうとしている事は、反対を向くことになっている意見がある事への批判ではありません。

必ず避けられないのなら、対応策として選ばれる方法は幾つかあります。最も私にとって現実的な方法は「自分の意見と反対を向いている意見を目にしても気にしない。」事です。そもそも、誰かに否定されたからといって自分の意見が消えるわけではなく、無意味になる事もあり得ません。「他人と自分が違う」言ってしまえばただそれだけの現象にダメージを受けたり悲しんだりする事は時間の無駄であり、意味がないと言うことも出来るでしょう。

しかし、私がその反対になっている意見に対し、心を動かされること。それは「体験の共有」をする事で楽しみを得ている。ひいては「同じ小説が好きだ」というだけの大多数と同一化していればこそ、避けられないダメージです。

「感想が同じなら嬉しい。違うならそれはそれ、でいいじゃないか」と、自分で思います。その方法が最も現実的で健康だからです。
しかし、それは同一化によって喜びを得ている私にとっては不可能です。同一化対象の相手と「違う」と言うことは避けようもなく悲しい事です。

心がけ

以上が現状の整理です。電車内の戦闘めっちゃシリアスじゃん。イクサ繰り広げてるところでのあの徹底した無関心描いちゃうの凄くない?シリアスじゃない?現実と異常な小説の中の光景に共通点感じちゃわない?ヘヴィレインの死ギャグじゃなくない?みたいな。アガメムノンがマウント取られて笑えないよ。みたいな。そんな体験をしたんです。何度も言ってますが私と違う見解だからって非難したいんじゃないんですよ。
心がけは下の方に太字で書いてある。

ではどうする?といった話です。上に書いたように大体の原因は「同じ小説が好きだ」と言うだけの大多数と同一化している事が悪いんです。同じ小説が好きだっていっても(自然と、無意識に)私の感じる好きと真っ向から反対になるようなところに「好き」を感じてる人も中にはいる訳じゃないですか。

でもここで問題なのは同一化する相手は大きければ大きいほど嬉しいし楽しいんです。「みんなが一つになってる感覚」って言うんですか。グルーヴするっていうアレですね。ライブで知らない人とワッショイワッショイしてるみたいな。
引き続きライブで例えるなら同じ会場にいるってだけであって、それこそ「同じ小説が好きとはいえ、真っ向から反対意見になる好きかもしれない」ような他人がいるかもしれないとしても「みんな一つだ!」って思い込む事でスッゴイ楽しくなれるんですよ。

※ライブとか行った事ないけど。

だから実況に参加してる間も同じだ同じだ!って思う事で楽しかったし嬉しかったんです。つまりその時同一化したんです。同じ小説が好きってだけの大多数と。それで(元々存在していた、見えなかった)他人との違いを改めて認識してうわー、同一じゃなかったー、ってなってるんです。

結論

より大きなグルーヴを感じようとしたりより多くの他人と同一化しようと私がする限り、感想が違う他人を見る事で私に悲しみが生まれることは避けようもない。
同一化しようとする大多数グループと私の違いを私自身が見出してしまった以上、既により大きなグルーヴの輪に私が参入することは難しい(悲しい)。それは他人と私が違うから、というごく当然の理由からであり、私が私でいる限り、仕方がない。最大公約数に私は含まれないということを認識し、私が、直接この人とは同じだなあ、と思える相手を探し、その中でグルーヴすることを心がける。

表題については「間違っていない」。

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