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修学旅行のリアル

東京の公立中学校で実施されている修学旅行の実態をベースに考える

 現在東京都内の公立中学校の9割以上が京都・奈良を目的地として修学旅行を実施しています。(港区などの財政リッチな自治体は公費でシンガポールに連れて行くようですが・・)
 そこで今回は、修学旅行が抱える様々な課題と、私が教員として企画してきた修学旅行について整理することで、特に若手の教員の皆さんの修学旅行に関する意識を高めたいと思い、この記事を書くことにしました。

 修学旅行が一般の観光旅行と大きく違うのは、100人以上の生徒の宿泊先を「貸し切り」で確保する必要があるということです。なぜならば他校と同宿させると、学校間の様々なトラブルが発生するからです。

 実は京都・奈良にはそんな修学旅行生専用ともいえる旅館やホテルがたくさんあります。これらの宿舎は5月から10月の修学旅行シーズンは、ほとんど関東圏の中学校の修学旅行で予約が埋まっているのです。しかもそんな宿舎の多くはJ〇Bと近〇日〇ツ〇リ〇トの2大旅行業者と契約していて、業者を通さないとほとんど予約が取れません。

 旅行を企画する学校としてはまず「宿舎ありき」なので「交通の便が良い」とか「風呂が広い」「食事が良い」などの宿舎情報を知っているベテラン教員が中心となって、2社の営業担当者に声をかけ、両社にプレゼンさせて最終的に校長が判断して取扱業者を決めることになります。

 自治体によっては、この2社を隔年で利用すること、と校長会の内規で定めているところもあり、ほぼ両社の寡占状態なのです。業者にしてみれば、別に営業しなくても2年に1度は大口の契約が取れるわけで、こんなにおいしい話はありません。結果として競争原理が全く働いていないので、料金も高止まりとなっています。(基本6万円以上)

 しかも上記2社は「旅行取扱手数料」として、総額の10%を請求してきます。100人規模の学校で6万円の企画であれば、業者は一校と契約すれば、ほぼ営業努力無しで60万円の売り上げになるのです。こんなに美味しい仕事は無いのではないでしょうか。

 次に東京・京都(または大阪)間の新幹線ですが、JR東海は5月から10月までの修学旅行シーズン中には、毎日2本程度の修学旅行専用列車を運行しています。専用列車を使うと特急料金が半額になるので、ほぼすべての学校が専用列車を利用します。列車の割り当ては、東京都の校長会が窓口となり、各自治体の利用希望を集約し、JR東海側がその希望に沿って、列車が満席になるように学校を列車に割り当てていくのです。

 このように現在の修学旅行とは、旅行業者と団体専用列車の組み合わせで成立する「パック旅行」なのです。それでも私が初めて引率した昭和の時代は、現地での生徒の行動はすべて班行動で、教員も全員チェックポイントで待機しながら生徒の行動を見守る体制でしたが、20年ほど前から「タクシー行動」が導入され、特に3日目の最終日は班ごとに観光タクシーに分乗し、運転手さんがガイド役となって京都市内を観光するのがスタンダードになったのです。教員もチェックの必要がないので、好き勝手に観光していて、中には今流行りの御朱印帳を持参して、寺社巡りをしている強者がいたりします。

 結果として、高い宿泊料金の宿を使い、借り上げタクシー代も加わったことで、旅行代金は20年ほど前にすでに6万円を超えていました。考えてみてください。大人の旅行でも二泊三日で6万円越えだとちょっと躊躇しませんか? しかも近年は物価上昇とインバウンドの外国人旅行者が増えた結果、京都・奈良の旅館が強気になり宿泊料金が高騰していて、すでに7万円越えが増えてきているのです。

 しかし大変残念なことに、それだけ費用をかけた旅行で、生徒たちが何を学んだのか検証されることはほとんどありません。旅行後に生徒たちに感想文を書かせてきましたが、そこには昼間の文化財見学のことはほとんど書かれていません。9割以上の生徒が宿舎での友人たちとの生活が楽しかった、と書いているのです。

 7万円もの費用をかけて得られた成果が「宿舎での思い出」ではあまりにも残念過ぎませんか・・しかも私たち引率の教員は、生徒たちが不祥事やトラブルを起こさないよう24時間体制で見守る必要があるのです。私が直接経験した事案だけでも
① 男子が女子の部屋に入り込んで朝まで過ごしていた。
② 女子の浴室を覗こうとして、男子が宿舎の塀を乗り越えようとして転落した。
③ 部屋を巡回していてドアを開けたら、男子の部屋で女子生徒がウイスキーの瓶をラッパ飲みしている瞬間を見てしまった。
④ 入浴中に浴槽で大暴れして友人にけがをさせた。
⑤ 部屋で暴れて宿舎の備品を壊した。
等様々な想定外の事案が起こるのです。(すべて実話です)

 そんな事案を引き起こした生徒は、決して日常の学校生活で問題行動を起こすような生徒ではなく「えっこの生徒がなぜ?」というような生徒たちです。私が彼らから学んだのは「中学生は非日常の状況では抑制が効かなくなる」という事実です。

 ですからそんな残念な事案を未然に防止するために、職員も消灯時刻から午前3時まで、と午前3時から起床時刻まで、の2班に分かれて24時間体制で生徒たちを「監視」しなければならないのです。(事件が起こってから後始末する苦労より、寝ないで監視した方がまだ楽だからです)

 コロナが終息し、インバウンドが激増している昨今、混雑して見学ができない、電車やバスに乗れない、生徒たちが増えてきているのです。今の京都市内の旅行者は、修学旅行生と外国人しかいないような状況なのです。そろそろ京都・奈良を目的地とした修学旅行を見直す時期が来ているのではないでしょうか。

私が取り組んできた修学旅行

 初めて修学旅行を担当したのは、まだ昭和の時代、新卒で初めて配属された学年で、当時の学年主任から「俺がいろいろ教えてやるから、お前が2年後の修学旅行の担当になれ」と指示された年です。実は修学旅行の取り組みは中1の学年から始まります。団体列車の希望は2年前に出さなきゃいけないし、条件が良い宿舎を確保するためには、他校より早く予約する必要があるためです。そして1年前の5月の連休中に「実地踏査(下見)に行くぞ」と言われ、教員として初めて京都に行くこととなりました。

 驚いたのは当時の校長が「俺も行く」と言い、学年主任と私と3人で実地踏査に行くことになったことです。その時は「何で校長も行くの?」と不思議でしたが、初任の私は学年主任の指示に従い、資料を用意して新幹線に乗り込んだのです。

 京都につくと、旅行業者(K社)が手配したハイヤーが私たちを待っていました。そして校長から衝撃の一言が・・・「京都競馬場」と行き先を指示したのです。その時初めて校長が同行するといった理由がわかりました。結局校長、学年主任、そして運転手の3人は半日競馬を楽しんで、公営ギャンブルに興味がない私だけがハイヤーの車内に取り残されたのです。

 結局初日はどこも下見をせず、やれやれとの思いで夕方宿舎に到着し、一応館内設備を確認して夕食となりました。夕食会場に着くと、そこにはK社から刺身の船盛が届いていて、さらに模擬試験の業者であるS社からビールが1ケース届いていたのです。私は軽いめまいを感じましたが、学年主任と校長は「当然」との態度で、初めてこの実地踏査が業者による接待旅行であることを知ったのでした。

 しかも旅行費用は交通費宿泊費等すべて業者丸抱えだったのです。新卒の私は世の中の裏側を見せつけられた思いでした。やれやれ道理で校長が行きたがるわけだ。校長にとってはタダで行ける観光旅行だったのです。

 初任校でそんな衝撃体験をした私は、2校目で初の7クラスの学年主任となり、学年の教員たちと2年後の修学旅行を企画することとなりました。私は率直に「形骸化し、料金も高止まりの京都・奈良をやめて、真に生徒の思い出に残る旅行を考えよう」と職員に訴えました。

 そこで当時2大旅行業者に支配されて修学旅行に入り込めず2年次の移動教室を担当してくれていた、京〇観〇の同世代の営業担当に「何か面白い体験学習ができるところはないかな」と持ち掛けたところ「農業体験はどうでしょう」と提案を受けました。「なるほど、これは東京の子ども達にはヒットする非日常体験になるかも」と直感した私は、ぜひ一緒に企画させてほしい、と即答したのです。

 夏休みに入り、その営業マンと二人で秋田県の田沢湖村を訪ねました。ちょうど秋田新幹線が開業しアクセスが改善したタイミングでした。営業マンが村の民宿組合の組合長を紹介してくれました。組合長から「東京の子どもが田沢湖で何をやりたいんだ?」と聞かれたので私は「普段皆さんがやっている農作業のお手伝いをさせてほしい。ただし生徒数は250人です」と頼んだところ、「わかった。一週間で協力できる民宿を集めてやる」と力強いお答えをいただいたのです。

 今思えば、民宿組合としても何とか利用者を増やしたいとの思いがあり、WINWINの交渉だったのです。そして一週間後、組合長はなんと40軒以上の民宿を確保してくれたのです。これで宿舎は確保できました。しかもすべて農家民宿なので一泊三食付きで料金はなんと7千円台!!!しかも京〇観〇は企業努力で取扱手数料を5%にしてくれたので、新幹線の通常料金を入れても旅行代金は4万円台でおさまったのです。

 いよいよ生徒たちが3年生となり、「君たちの修学旅行は東北に行く」と伝えた時、最初生徒や保護者たちからは「何でこの学年だけ東北なの」と非難の声が起きました。それに対し私は「絶対に生徒たちを満足させて一生残る思い出を残してみせます」と言い切ったのでした。

 そして迎えた旅行当日、秋田新幹線に乗って田沢湖駅に到着しました。駅前には田園風景が広がっていて、生徒たちは不安の表情を浮かべています。  そこで組合長さんからご挨拶をいただき、いよいよ各農家に移動するのですが、農家の皆さんはすべて軽トラで生徒を迎えに来ていて、「乗れ!」と次々に生徒を荷台に乗せて走り去っていきます。今では絶対にできないことですが、当時はそんなことも普通にできました。この瞬間から生徒たちは歓声を上げて各農家に散っていったのです。

 教員たちも軽トラを借りて、すべての農家を巡回して生徒たちの活動を映像の記録に残していきました。帰校後に他学年と保護者に報告するためです。生徒の活動はそれぞれの農家で異なっていて、田植え、牛の世話、森林の枝打ち、椎茸の菌打ち、野菜の収穫等様々です。しかし生徒たちは皆一生懸命に作業に取り組んでいて、作業を楽しんでいる様子がわかりました。

 だいたいどの農家も親子三世代同居は当たり前で、生徒たちも家族の一員として、大きな食卓で手作りの料理を大勢で囲んでの食事です。山の幸、湖の幸が食卓に並んでいて、これだけでも非日常感満載です。中には五右衛門風呂がある農家もあり、子どもたちは大はしゃぎでした。そんな東京では絶対に味わうことができない体験を重ね、最終日の昼食後にいよいよ農家の皆さんとはお別れの時が来ました。そこで私たち職員は、また信じられない光景を目の当たりにしたのです。

 生徒の中には農家のおじさんおばさんと抱き合って「帰りたくない」と泣き出す生徒もいれば、「ここの家の子どもになりたい」と叫ぶ生徒もいます。涙ぐしょぐしょで「また絶対に来るからね」と話す生徒もいます。この瞬間私たちはこの旅行を企画して本当に良かった!と確信したのです。

 帰校後、生徒たちに作文を書かせたのですが、今回は夜の宿舎での生活を描いたものはほとんどありません。農作業のこと、食事のこと、家族とのふれあいのことなど、そこには非日常体験がたくさん綴られていました。

 その後転勤した学校でも、私は仲間を増やして秋田修学旅行を企画し続けました。農業体験以外に民舞実習体験を取り入れたり、様々な工夫を重ねながら続けたのです。しかし東日本大震災以降、残念ながら東北への旅行はできなくなってしまったのです。

 その後校長として赴任した学校でも当たり前のようにパック旅行としての京都・奈良の計画が進んでいました、職員も思考停止していて「修学旅行って京都・奈良に行くものだよね」という雰囲気でした。

 そこで私は何か新しい体験学習はできないものかと、色々と情報を集めました。そこで目を付けたのが北陸新幹線です。調べていくと金沢市が積極的に修学旅行の受け入れのプロモーションをしていることがわかりました。

 そのため5月の連休を利用して、妻と二人で実地踏査を兼ねて金沢を訪れました。特に予備知識も持たずに金沢に到着したのですが、まず駅前の鼓門に度肝を抜かれました。地図を見ると金沢城を中心とした整った街並みであり、江戸時代の武家屋敷の名残とか茶屋街が残っています。兼六園という有名な庭園もあり、金沢21世紀美術館や石川県立美術館もあり、見所が豊富だということもわかりました。

 さらに加賀友禅染の体験や、金箔張り体験、和菓子作り体験など体験学習も充実しています。しかもそれらの施設が半径5キロ以内にコンパクトにまとまっていて、移動もバスを使えば簡単で、そして何より日本海が近く食事が美味しい!

 これは修学旅行の目的地としてのポテンシャルが高い!と感じ、帰校後に早速職員向けのプレゼン資料の作成に取り掛かりました。私的にはかなり気合を入れて観光協会の資料などもふんだんに取り入れて、夏休み中にスライドを作成し、9月の最初の職員連絡会で職員に新しい修学旅行の候補地としてプレゼンを行ったのです。

 しかし残念ながら職員の雰囲気は「校長がなんか余計なことやってるよ」っていう感じで若手の職員もほとんど興味を示さなかったのです。私的には「おいおい君たちが新しい行事にチャレンジしなきゃダメだろう」との思いも強かったのですが、今時は校長が指示すると、「パワハラだ」と受け取る職員も多く、職員の支持が無ければ実現は難しいと判断して、それ以上企画を進めることはしませんでした。

 この記事を読んだ若手の教員の皆さん。ぜひ子どもたちの記憶に残る修学旅行をプロデュースしてみませんか。大切なのは「どこへ行くか」ではなく「行った先で何に取り組ませるか」です。

 最近初めて東北修学旅行を行った学年の同窓会に参加したのですが、もう40代になった卒業生達から「農業体験の修学旅行がメッチャ楽しかった」と聞かされました。改めて体験学習の魅力を再確認したところです。やはりキーワードは「非日常体験」なのではないでしょうか。


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