【衝撃の真実】古代日本最大の戦争!白村江の戦い大敗北の原因は〇〇だった!?
お元気様です!歴史沼チャンネルのきーです。
白村江の戦いの大敗北の原因がヤバかった…
常識を覆す白村江の戦いの敗因を作った人物とは...
日本古代史最大の決戦…白村江の戦いについてお話していきます!
このチャンネルは知識の量や深さに関係なく、歴史を楽しむコンテンツを聞き流しスタイルで紹介しているのでよかったらチャンネル登録よろしくお願いします。
YouTube動画はこちら
白村江の戦いとは
まず白村江の戦いの概要からお話していきましょう。
白村江の戦いとは、660年に滅亡した百済を復興させるため、663年に倭国と百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍が朝鮮半島の白村江で戦った戦いです。
結果は…倭国・百済連合軍の圧倒的敗北に終わり、百済は完全に滅亡し、倭国も九州に防人や防衛砦を築いたりなど戦後処理に追われた。というのが一般的な理解でしょう。
当時の朝鮮半島情勢
白村江の戦いは、倭国にとって滅亡した百済を復興させるための対外戦争です。
なので白村江の戦いがわかるためには、当時の朝鮮半島の情勢を理解しなければなりません。
この時期の朝鮮半島は、百済・新羅・高句麗の三国が共存している三国時代でした。
倭国は半島南部の任那を通じて、朝鮮半島に影響力を持っていましたが、その任那も562年に新羅によって滅ぼされてしまいます。
任那滅亡後も、旧任那領をめぐり百済と新羅は対立しあい倭国も旧任那領を抑える側と手を組むという外交戦略をとっていました。
そんな朝鮮半島情勢に介入してきたのは、中華帝国の唐です。
唐は高句麗内で起こったクーデターを口実に、高句麗攻めを開始します。
高句麗攻めをしたい唐が目を付けたのは、新羅でした。
新羅も百済を抑え込むために、唐に援助を求めたことにより唐は新羅を冊封国として支援する情勢となります。
唐の属国となることで国力を回復した新羅に対して、百済は高句麗と手を結びます。
白村江の戦いがはじまる前夜である7世紀中旬は、百済が伽耶地域を領有していました。
伽耶を領有している百済に対して倭国は、伽耶の調(みつき)と呼ばれる貢物を百済に要求します。
『旧伽耶地域の領有を倭国に認めてほしい』ことや、国力を増強している新羅に対抗するため『倭国の具体的な援助が欲しい』百済王である義慈王[ぎじおう]は倭国からの要求を飲むことにしました。
この百済と倭国の契約の保証として、百済から倭国に人質としたやってきた人物が余豊璋です。
複雑化する朝鮮半島情勢に変化が訪れたのは、657年。
唐の太宗は長年、目の上のタンコブであった突厥を滅ぼすことに成功し、朝鮮半島へ兵力を集中してきました。
新羅は唐へ百済攻めの要請をかけ、660年百済を滅ぼすための兵を挙げ、唐軍は水上から、新羅は陸上から攻撃する水陸二方面作戦によって進軍。
唐1万・新羅5万の合計6万の大軍が百済に攻めいりました。
百済の将軍たちは奮闘するも唐軍は王都を包囲。
7月18日に義慈王が降伏し、百済は滅亡しました。
白村江の戦いの敗因は豊璋
伽耶地域の利権を保持したい倭国が、人質として倭国にやってきていた豊璋を擁立し、660年滅亡した百済の将軍である鬼室福信らと共に百済復興のため兵を起こしたのが、白村江の戦いです。
しかしこの戦争の結果は、教科書で習った通り倭国・百済連合軍の大敗です。
大敗した理由としては、超大国である唐に無謀な戦を仕掛けてしまった…という国力の差が敗因として挙げられるのではないでしょうか?
しかし戦地となった白村江に集まった戦力は、唐水軍は170艘、約7000人に対し、倭国水軍は1400艘約3万人です。
その場に集まった単純な戦力からいえば、倭国の兵力の方が唐・新羅連合軍を圧倒しています。
それなのに、なぜ倭国・百済連合軍は大敗してしまったのでしょうか?
戦力では圧倒していた倭国・百済連合軍の敗因...それは…倭国によって擁立された百済王:余豊璋が原因なのではないでしょうか?
豊璋とは?
まず余豊璋とはどんな人物なのかに迫っていきましょう。
余豊璋とは、百済王である義慈王の王子にあたります。
百済が倭国に対して任那の利権をちゃんと貢ぐ約束の保証としていわば人質として倭国にやってきました。
倭国に渡来した時期には諸説ありますが、百済の中で王として即位する可能性が低かったといわれています。
人質として倭国にやってきた余豊璋のことを義慈王の後継者である太子という地位にしているのは『日本書紀』だけであり、中国や朝鮮サイドの資料で余豊璋が義慈王の後継者であったとするものはありません。
義慈王の太子は、余豊璋の異母兄弟であった人物だと思われます。
義慈王は、任那の調を貢納する代わりに、倭国から伽耶地域の領有を認めさせ、具体的な援助を受ける保証として、王位継承者として可能性が低い余豊璋を倭国に送ったのです。
豊余璋からしたら、百済にずっといたままだと王位に就くことはなかったでしょう。
しかし百済滅亡後、百済にいた王族たちが消えてしまった中で、逆に余豊璋は人質として倭国に生き残っていたからこそ余豊璋は百済の王位につくチャンスが巡ってきたのです。
そうして余豊璋は、倭国に擁立される形で百済復興軍の象徴として百済へ帰国。
百済復興軍の拠点である周留城に入城するのです。
周留城を守り切ることがカギだった
朝鮮半島で百済遺民をまとめ上げ、周留城拠点に奮戦していた人物がいます。
それが鬼室福信です。
鬼室福信とは、百済の将軍であり、義慈王の父である第30代武王の甥にあたるというれっきとした百済王族の人物でした。
この鬼室福信が滅亡した百済を再建しようと倭国に逃れていた余豊璋を擁立するように倭国に働きかけ、周留城を拠点として唐と新羅に対抗していた軍事指揮官です。
白村江の戦いにつながる百済復興の戦いは、この周留城をいかに守り切るか?の戦いであり、いわば籠城戦です。
古今東西、籠城戦を勝ち抜くには2つの条件が必要です。
1つ目は、かならず味方の援軍が来る確証があること。
周留城の場合は、倭国軍がこれにあたります。
2つ目は、場内の兵士に戦闘意志を持続させ得るような精神的支柱、あるいはすぐれた戦闘指揮官が存在すること。
この場合は、亡き百済王の王子である余豊璋が精神的支柱であり、これまで百済復興軍を率いてきた鬼室福信が後者の戦闘指揮官に該当します。
なので周留城において、余豊璋と鬼室福信の協調関係が維持されている限りは軍事的に安泰であり、百済復興運動も盛り上がり、白村江の戦いの結果も変わっていた可能性がありました。
余豊璋と鬼室福信
しかしこの2人の関係が破綻し始めます。
キッカケは、余豊璋が強硬に推し進めた周留城から南の城への拠点を移すことが失敗に終わったことです。
この周留城から南へ拠点を移すという作戦は、余豊璋が言い出し追随していた倭国の将軍らの猛反対を押さえ、最終的に鬼室福信が同意を与えたものでした。
その作戦が無残な失敗に終わってしまったので、今まで百済復興軍の戦闘指揮官としてのプライドがあった鬼室福信からしたらプライドが丸つぶれです。
この2人がどれだけ協調して戦えるかが、白村江の戦いのカギでしたが不幸な関係性であったことは否めません。
余豊璋にしてみれば、自分が百済王であるという自負があったでしょう。
しかしその自負心の中には、本来は即位できる可能性が低かったのにもかかわらず、鬼室福信や倭国の力で王に成れたという劣等感を感じていたでしょう。
一方、鬼室福信からしてみれば百済復興運動をここまでけん引してきたのは自分である!というプライドがあったでしょう。
それなのに、棚ぼた的に王の座についた余豊璋に懐疑的な念や不快な念を持っていたことでしょう。
この作戦失敗により、元は心の奥底にあったお互いに対しての負の感情が露見したのかもしれません。
そのような状況で最悪の事件が起こってしまいます…
余豊璋は鬼室福信を殺害してしまったのです。
こうして周留城は、勝利条件の一つすぐれた戦闘指揮官を失ったのです。
倭国は明確な戦略的目標を喪失した
百済復興軍の拠点である周留城の軍事指揮官である鬼室福信が斬殺された報は、瞬く間に敵味方に知れ渡ります。
この機会を、唐・新羅軍が逃すはずはありません。
新羅王である文武王率いる陸軍は周留城を包囲。
周留城は錦江の下流北岸に位置していたため、救援に赴くには錦江河口から行くしかありません。
そのため唐水軍は、錦江河口である白村江を封鎖し倭国水軍を一兵たりとも通過させないという様相を呈していました。
この唐・新羅連合軍の様子を見て百済復興軍の精神的支柱であり旗頭である余豊璋はなにをしたか...。
それは周留城を出て、救援のためにやってくる倭国軍を自ら迎えに行ったのです。
やがて周留城に押し寄せ、その周囲を埋め尽くすであろう唐・新羅連合軍の撃退は周留城にのこった将軍たちに一任するというのです。
これは信じがたい行動であり、いわば敵前逃亡です。
周留城は籠城戦を勝ち抜くための条件の一つである、優れた軍事指揮官である鬼室福信を失い、精神的支柱である余豊璋は敵前逃亡をしたのです。
余豊璋が敵前逃亡した理由については、自身の劣等感から来たのかもしれません。
余豊璋は約20年間倭国で暮らしていました。
そして余豊璋の百済宮廷における地位が高くなかったことを知っていた百済人は、棚ぼた的に百済王として擁立されただけにもかかわらず、百済復興軍をまとめあげていた鬼室福信を亡き者にした豊璋に対して、良い感情は抱いておらず、豊璋もその雰囲気を感じ居心地の悪さを感じていたのかもしれません。
精神的支柱である余豊璋を失った周留城は、たてこもっている将軍や兵士らの士気は間違いなく低下し、唐・新羅連合軍にとって攻略しやすい状況になってしまいました。
白村江の戦いというのは、籠城する百済復興軍の拠点である周留城を錦江河口から倭国水軍が助けるというものです。
倭国水軍が救援する価値があるのは、周留城が士気高く籠城し戦ってくれるからです。
余豊璋は今まで百済復興軍をまとめあげていた優秀な軍事指揮官を自ら亡き者にし、自ら敵前逃亡をすることで籠城戦の成功を限りなく不可能状況にしてしまいました。
倭国水軍は明確な戦略的目的を喪失するという状況になってしまったのです。
倭国水軍の傲り
周留城に以前のような救援する価値がないのに、倭国水軍は錦江河口で行く手を遮っている唐水軍と立ち向かわなければならなくなりました。
この時に倭国水軍が取るべき策は二つに一つです。
一つ目は、一丸となって突撃し唐水軍と戦い活路を見出す策。
二つ目は、唐水軍との決戦を回避する慎重策です。
しかし倭国水軍は、開戦前夜に全軍の意思の統一をしないまま無謀な突撃策を選択してしまいました。
無謀に突撃してしまった理由としては、白村江に集結した戦力が倭国水軍1400艘、唐170艘と倭国が圧倒していたからでしょう。
目の前に広がる圧倒的な戦力差を目の当たりにして、数の力で打開できるという傲りが倭国水軍にあったことは否めません。
いくら数が多くても倭国水軍は意思の統一がされておらず、統制されていないちぐはぐな軍です。
陣形を強固にした唐水軍にかなうはずはありませんでした。
唐水軍は左右より倭国水軍の船を挟み撃ちにして戦う戦法をとり、個別に唐船を突破して先に進もうとする倭国水軍の船を誘い込んでは、それをなぶるように海に沈めていきました。
これによって錦江河口は、「海水みな赤し」と記録されるほど倭国水軍の血で赤く染まったのです。
白村江の戦いの敗因は、倭国や鬼室福信によって擁立された百済王:余豊璋自ら周留城籠城戦の勝機を喪失させ、明確な戦略的目標を喪失したのにも関わらず、全軍の意思を十分に統一しないまま戦闘を遂行してしまったからなのです。
白村江の戦い後の倭国
白村江の戦いの敗戦後の倭国は、従来イメージでは、唐の侵略に怯え、列島の要地に防衛施設を建設して、律令制を本格導入し倭国から日本へ再生を図った。という感じでしょうか。
白村江の戦いのときに権力を持っていた中大兄皇子の即位が遅れたのも、この時期の倭国の列島強化に忙殺されていたからであるといわれています。
しかし白村江の戦いが終わった後も、東アジアでの戦いは続いていました。
白村江の戦いの2年後である665年、高句麗では権力を掌握していた泉蓋蘇文が死去すると、その後継を争いの隙を狙って唐・新羅が侵攻をはじめ、白村江の戦いの5年後に高句麗が滅亡。
高句麗が滅亡後、朝鮮半島の領有と支配をめぐって今度は唐と新羅が争い始めます。
このような東アジア情勢の中で、唐も新羅も倭国に使者を送っています。
高句麗が滅亡後、唐と新羅が交戦状態に入ったこともあり、唐・新羅両国にとって倭国の軍事力は無視しがたいものになっていたのです。
それは白村江に結集した大規模な水軍を見せつけられたからであり、両国ともにその倭国の援助を必要としていたのです。
この時期の倭国の列島防衛というのは、追いつめられた敗戦国の受け身の姿勢というわけではなかったのではないでしょうか?
その証拠に、新羅が朝鮮統一を果たすのは676年であり、その間に668年天智天皇が即位し、672年に壬申の乱まで起こっています。
白村江の戦いのあと、唐の侵略に怯えていた倭国というのは虚構であり、実像は敗戦を受け入れ、軍事援助を求められるような着実に古代国家を作り上げた大国日本だったのではないでしょうか?
まとめ
いかがでしょうか?
今回は、日本古代史最大の対外戦争であった白村江の戦いについて迫っていきました。
日本古代史最大の戦争である白村江の敗因は、擁立された百済王である余豊璋であること、そして倭国水軍の傲りがあったことを紹介しました。
敵前逃亡をしたリーダーといえば、時代は下りますが江戸時代末期の15代将軍の徳川慶喜が思い出されます。
しかし徳川慶喜の場合、戦によって多くの被害が出ることを防ぐための戦略的撤退だったのに対し、余豊璋の場合は自己中心的な敵前逃亡だったことを考える豊璋の方が罪深いものがあるのではないでしょうか?
今回の参考文献は、遠山美都男氏の著作『白村江』です。
興味のある方は概要欄にリンクからチェックしてみてください。
今日はここらへんでお別れです。
ご視聴いただきありがとうございました。
また歴史を楽しめるコンテンツを配信していきますので、高評価やコメント、チャンネル登録、あとスーパーサンクス機能も使えるようになりましたので、よろしくお願いいたします!
ではまた、違う動画でお会いしましょう!
ばいばい!
この記事は私が運営しているYouTubeチャンネル【きーの歴史本プレゼンチャンネル】の動画を、テキストにしたものです。
【きーの歴史本プレゼンチャンネル】はこちら💁♀️