【歴史が覆る!?】織田信長もユダヤ!?忌部氏はどこから来たのか?
お元気様です!歴史沼チャンネルのきーです。
古代史最大の祭祀族である忌部氏のルーツがヤバかった…。
戦国時代の覇者である織田信長と忌部氏の知られざる関係とは?
古代日本列島にやってきていた失われた10支族とはなんなのか?
今回は、忌部氏と古代イスラエルとの深い関係についてお話していきます。
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忌部氏とは?
まず忌部氏とは、どんな一族なのか?ざっくりと解説していきましょう。
忌部氏とは、古代よりヤマト王権の宮廷祭祀、制作、宮殿造営を担った名門の一族です。
穢れを忌む集団、神事で穢れを取り去り身を清めることから『忌む』という字を氏に使用されています。
本来朝廷の祭祀は、忌部氏と中臣氏が司っていました。
中臣氏とは、のちに朝廷の中で1番の有力貴族となる藤原氏です。
乙巳の変の中臣鎌足の活躍で中臣氏(のちの藤原氏)が勢力を拡大させると、忌部氏は衰退し歴史の表舞台からは消えてしまいました。
阿波忌部氏が中央忌部氏になった
そんな忌部氏の出発地は、阿波(現在の徳島県)だったと思われます。
阿波忌部氏が畿内に進出していき、中央忌部氏になったと考えられます。
その根拠は古墳に残されています。
阿波忌部氏の本拠地である徳島県鳴門市に阿波国の一宮である大麻比古神社があります。
この大麻比古神社に祀られている阿波忌部氏の祖神である天日鷲命の子とされている大麻比古神を主祭神として祀っている神社で、この神社の麓に萩原墳墓群があります。
この萩原墳墓群は、1号墳~4号墳からなり、1号墳は大麻比古神の陵墓ともいわれています。
そして2号墳の築造は2c末であり、奈良のホケノ山古墳のルーツの可能性があります。
ホケノ山古墳とは、奈良の纏向遺跡古墳群の中にある古墳で、後円部に対して未発達な前方部を有している前方後円墳です。
萩原墳墓群にみられる「石囲い木槨」という特徴的な埋葬構造や石を積み上げて墳丘を造っている積石塚はホケノ山古墳でもみられ、築造時期は萩原2号墳は2c末、ホケノ山古墳は3世紀なので阿波の墳墓が畿内の墳墓に影響を与えていることが示唆されています。
同じく阿波忌部氏の本拠地である鳴門市の宇志比古神社の背後にある、3c中旬に築造されたとされる西山谷2号墳には、日本最古級の竪穴式石室が発見されており、畿内型石室のルーツともいわれています。
畿内前期の古墳の石室には、阿波産の結晶片石(青石)が使われていたり、纏向遺跡で大量に東阿波式土器が出土することからも阿波忌部氏が畿内に渡り中央忌部氏となっていったことがわかります。
阿波忌部氏は古代イスラエル人だった
阿波を拠点としていた忌部氏は、もしかしたら古代イスラエル人だったかもしれません。
その根拠となる遺跡は、徳島県美馬市にある白人神社とその奥の院である磐境神明神社です。
磐境神明神社とは、すべて石を積み上げた東西約二十二メートル、南北約七メートルの長方形をした磐境です。
磐境とは、神が降臨する岩石もしくは石を築みめぐらした一定の場所のことを指します。
日本の神社の作りとしては異様なつくりをしている磐境神明神社ですが、これは古代イスラエル人が各地に作った
「高き所」と呼ばれる礼拝所にとてもよく 似ているそうです。
磐境神明神社を見た元駐日大使エリ・コーヘン氏は「これは正に古代イスラエルの礼拝所であると感じた」と言葉を残しています。
白人神社の宮人
そのように古代イスラエルの信仰を強く残している磐境神明神社の本宮は、白人神社です。
この白人神社は75人の宮人と呼ばれる氏子によって守られてきました。
白人神社と磐境神明神社のある穴吹町の歴史には、『古代に忌部氏一族がこの村に住みつき、麻や穀物を作るようになった。豊作を願い神明山に集って祀りを行った。やがて聖域を区別するために石を積んで磐境が築かれた。この一族が宮人の先祖である。』とあるので、75人の宮人は忌部氏でしょう。
75という神聖な数字
実は紀元前から古代イスラエル人が住み着いていた事で有名な中国の開封の シナゴーグと呼ばれるユダヤ大教会堂も75人の宮人によって守られてきました。
75というのは古代イスラエルの聖なる数字だとされています。
それはなぜかというと、75はサマリア五書つまり「北イスラエル王国の10氏族が使っていたモーセ五書」において イスラエル民族の父祖 ヤコブが家族と共にエジプトに移住した時
の人数として記されている数字だとされているからです。
75は中国や朝鮮半島で重んじられた数字 ではなく、ただイスラエルの失われた10部族のみが 重んじてきた数字なのです。
長野県の諏訪大社と徳島県の多祁御奈刀弥神社
長野県の諏訪大社は75という数字がポイントとなっています。
長野県の諏訪大社では、イサク奉献神事ともいわれる「御頭祭」という祭りがあります。
この祭りは、旧約聖書に登場するアブラハムが息子のイサクを神の啓示に従い生贄にささげようとし、その姿を見た神がアブラハムの神への信仰を認めた。というエピソードを模したと考えらています。
アブラハムが神の啓示に従って息子イサクを屠ろうとした場所がモリヤ山であり、諏訪大社の御神体となっている山が守屋山であることも諏訪大社と古代イスラエルの関りがあったとする根拠ともなっています。
そんな「御頭祭」では、75頭のシカの頭を奉納するといった祭事も行われますし、諏訪大社は年間75の神事が行われていたりと75という数字が重要視されていることがわかります。
そして忌部氏の根拠地である阿波…現在の徳島県には、長野県の諏訪大社の元宮とも呼ばれる多祁御奈刀弥神社があります。
多祁御奈刀弥神社の御祭神は諏訪大社と同じで、タケミナカタであり、この多祁御奈刀弥神社ではシカの頭ではなく75のお膳をお供えする祭りが行われています。
古代イスラエルの失われた10氏族とは?
古代イスラエル人であったことを思わせる忌部氏は、古代イスラエルのレビ族なのかもしれません。
レビ族を知るためには、古代イスラエルの失われた10氏族について知る必要があります。
古代イスラエルの失われた10氏族とは、旧約聖書に記されたイスラエルの12部族のうち、行方が知られていない10部族のことを指します。
紀元前1021年頃ダビデ王の時代にイスラエル王国として統一されてましたが、紀元前922年頃に北と南に分裂してしまいます。
その後、北イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアの侵攻を受け滅亡、やがて南にあったユダ王国も古代ローマ帝国によって滅亡してしまいます。
南北に分裂した際、北イスラエル王国にはルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族の10部族が、南イスラエル王国には、ユダ族とベニヤミン族の2部族にわかれました。
レビ族とは
今まで紹介した支族の中にレビ族の名前がないと思った方も多いかもしれません。
この古代イスラエルの12氏族は、天使と相撲をとったことで有名なヤコブの12人の息子を祖としています。
ヤコブの息子の一人であるレビ族は、祭司の家系であって継承する土地がないため12の部族には数えられないのです。
しかし祭司の一族として特別な役割を与えられていたレビ族はとても重要な一族で、出エジプトで活躍したモーセやユダヤ教の三種の神器のひとつであるアロンの杖で知られるアロンもレビ族出身者です。
そんなレビ族の最大の任務は、契約の箱(アーク)の運搬です。
契約の箱(アーク)とは、ユダヤの三種の神器とも呼ばれるアロンの杖、モーセの石板、マナの壺を入れていたといわれる箱で、日本のお神輿に形状がよくにているといわれる品物です。
この古代イスラエル人の信仰にとって大切な契約の箱は、レビ族の人しか触ることが許されなかったといわれています。
その決まりというのは厳しく、旧約聖書にはあるエピソードが残されています。
ある日、契約の箱(アーク)を担いでいたレビ族の傍にダビデ王の息子が付き添っていました。
何かのはずみで契約の箱(アーク)が傾いたので、とっさにダビデ王の息子はそれを支えようとして契約の箱(アーク)に手を触れてしまいました。
その瞬間、ダビデ王の息子は電撃に打たれて亡くなってしまいました。
ダビデ王はレビ族ではないので、そのレビ族でない息子が契約の箱(アーク)に触れると神によって殺されてしまう…というエピソードがあるくらい契約の箱(アーク)はレビ族しか触れることができなかったのです。
レビ族が忌部氏で剣山にアークを運んだ?
そんな古代イスラエル民族の中でも一種特別な存在であるレビ族は、北イスラエル王国滅亡後は南ユダ王国に移住し、南ユダ王国滅亡まで続いたとされます。
現在我々は古代イスラエル人とユダヤ人はごちゃまぜにして認識していますが、厳密にいえばユダヤ人とは南イスラエル王国のユダ族・ベニヤミン族・レビ族の人たちを指す言葉です。
北イスラエル王国が滅亡した際アッシリア帝国が契約の箱(アーク)を探したがなかったといわれており、ここから失われたアークと呼ばれ世界中がその行方を捜していますが、契約の箱(アーク)はレビ族しか触れてはいけない品物です。
ここからは考察になりますが、もしかすると、北イスラエル王国が滅亡する寸前にレビ族が契約の箱(アーク)を南ユダ王国避難させたのかもしれません。
そして南ユダ王国滅亡するとき、レビ族は契約の箱(アーク)を守るべくシルクロードを東へ東へ行き辿りついたのは、日本列島の徳島県なのかもしれません。
シルクロードを通らなくても、船で海流にのり台湾や沖縄を経由してたどり着く日本列島の場所は四国や紀伊半島だと思われます。
徳島県の剣山には今でも契約の箱(アーク)が持ち込まれたかもしれないというアーク伝説が残り、いまでも旧約聖書ののノア方舟伝承の日である7月17日に剣山山頂大祭として契約の箱(アーク)に似ているというお神輿を山頂の磐座に向かって運ぶというお祭りまで行われています。
先ほど古代イスラエルの礼拝所似ているといわれた磐境神明神社も剣山の麓にあり、阿波と呼ばれていた徳島を開拓したのが忌部氏だと考えると、忌部氏がもしかしたらレビ族で剣山に契約の箱(アーク)を運び込んでいたのかもしれません。
レビ族が特別な祭司一族であることと、忌部氏が祭祀族であったことや白人神社の神輿が忌部氏の宮人しか担げなかったことも、レビ族しか契約の箱(アーク)に触れれなかったことともかぶります。
そして剣山西側の祖谷には、興味深いみたからの歌と呼ばれる民謡が残されています。
その内容は、
祖谷から宝物を降ろした…や伊勢のお宝…となっているので、もしかしたらこのお宝は契約の箱(アーク)なのかもしれません。
織田信長と忌部氏
今まで古代史の話をしてきましたが、戦国時代にも忌部氏だといわれている有名な人物がいます。
その人物とは、織田信長です。
織田信長といえば、尾張の国いまの愛知県に生まれた戦国の三英傑の1人です。
そんな織田信長は忌部氏だったのではないか?と言われています。
実は信長の先祖は福井県の劔神社の神官でした。
実際織田家の家紋は(五つ木瓜紋)は劔神社の神紋と同じです。
劔神社は約1800年の歴史を持つ古い神社で福井県越前町織田の地にあり、信長と先祖は 劔神社で神官を務めていましたが、その神官とは忌部氏でした。
15世紀に織田信長の先祖として劔神社の神官の忌部常昌という人がおり、 彼は才能豊かな人でやがて家臣として取り立てられ 尾張国今の名古屋あたりに派遣され、忌部常昌は故郷の地名を取り、以後織田常昌と名乗るようになりました。
これが織田家の始まりです。
その後も織田信長は、劔神社を「氏神」として厚く崇敬し、武運を祈ると共に多くの神陵を寄進し 社殿を建立するなどしています。
信長の長篠の戦いを描いた絵に長篠合戦図屏という古い絵があります。
その中に馬に乗ったの信長とその近くにいる忌部氏の人々が描かれています。
その忌部氏の人々の着る白い羽織の背中には大きな六芒星カゴメ紋が描かれており、イスラエル国旗にも描かれたユダヤ人の ダビデの星と同じです。
ダビデの星は近代になってユダヤのマーク になったものであり 古代においてはユダヤの遺跡にしばしば装飾としてみられるものの、特にユダヤの紋というわけではなかったとはよく言われるところです。
しかし、古代イスラエルと古代日本のつながりに詳しい久保有政さんは、日本に渡来した古代イスラエル人はこの六芒星と呼ばれる紋を自分たちの種族的なマークとして代々使っていたのかもしれない…とも言っています。
まとめ:忌部氏はレビ族ではないか?
いかがだったでしょうか?
今回は日本古代史最大の祭祀族であった忌部氏は古代イスラエル人のレビ族だった可能性を考察してきました。
日本神道は多神教という認識が一般的ですが、古い神道である古神道はとても一神教的だったといわれています。
もし古神道が一神教的であり、その祭司を司っていたのが古代イスラエルのレビ族の忌部氏なら繋がる話でもあります。
日本の古神道については、こちらの動画で解説しているのでぜひ参考にされてください。
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