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「POEMLOID」考

こんにちは。ボカロが好きです。ボカロはいいぞ。

 全然アングラ曲の紹介も10選の紹介もかけてなくて申し訳ない!

 単純に仕事が忙しかったり、資格試験があったり、弟の引越しを手伝ったり、帯状疱疹になって大変だったり、それぞれが独立した忙しさが連続で襲ってきてテンテコヘンテコ舞舞はぁ〜! でした。

 ちゃんと更新するのでしばしお待ちを……この記事は「POEMLOID」というジャンルについての考察です。同時に私が「POEMLOID」の好きな所を言語化しようという試みでもあります。記事を書くリハビリも兼ねてます。

 いつもの如く結論のない自分でもよくわからん話です。全て個人的意見です。詳しい人ぜひ考えを教えてください。

まえがき:POEMLOIDとは

POEMLOID(ポエムロイド)とは、合成音声(VOCALOID, UTAU, VOICEROID, CeVIO, その他)による、詩や朗読を楽曲内に取り入れた曲を、総合して認識するためのタグである。
POEMLOID - ニコニコ大百科

 まぁそのまんまの意味でして、メジャーとは言えずとも着実にシーンを続けています。VOICEROID登場から特に近年は、VOICEBOXやVoicepeakなど読み上げソフトの高品質化も相まってむしろ勢いが増しているように思います。

 ボカロに限らない音楽シーンにおいてはポエトリーリーディングや単にポエトリーと呼ばれます。ラップのいちジャンルとして捉えられることもあります。「ポエトリー」は詩の朗読を含むアート一般に広く使われる語ですが、この記事では便宜的に、人間による音楽に合わせた詩の朗読に限定して「ポエトリー」と表現することにします。

 個人的に好きなPOEMLOIDを挙げます。どれも最高に好きな作品です。

 それぞれ異なる雰囲気の作品を挙げたつもりです。なんとなく「POEMLOID」を形成する作品の雰囲気が掴めるかなと思います。


 さて、それはそれとして現在無色透名祭というイベントが開催されています。

そしてこのイベント、他のイベントと比べてPOEMLOIDの割合が多いように思います。

(追記:2022/7/30)
タグが整備され、「POEMLOID」と「ポエトリーリーディング」のOR検索で38件になっていました。去年1年のPOEMLOIDの該当数は70件なので実に半年分です。

 「ボーカロイドの深淵を覗こう」のシリーズでもPOEMLOIDを挙げているように私は「POEMLOID」がもともと好きなジャンルです。せっかくなので、この機会におおよそ次のようなことを考えることを通して、POEMLOIDの特異性と、その好きな理由を考えてみます。

・なぜ「詩」ではなく「ポエトリー」なのか
・なぜ「ポエトリー」ではなく「POEMLOID」なのか
・なぜ「POEMLOID」が無色透名祭で活発なのか


それでは本編です。


なぜ「詩」ではなく「ポエトリー」なのか

 まず最初に、なぜ文章としての「詩」ではなく音楽としての「ポエトリー」なのかその意義を考えてみましょう。

 個人的な「詩」と比した時の「ポエトリー」の特徴として大きく以下三点を考えます。

・感情の直接的表現
・時間的拘束性
・音としての表現(韻律)

感情の直接的表現

 一つ目はわかりやすいですね。文章よりも声やサウンドが乗ることによって、より力強く、あるいは切なげに、あるいは怒りを乗せるなど感情を乗せることが出来るでしょう。

 あるいは、文章よりも受け手による解釈の余地を意図的に狭めさせるとも言えるかもしれません。これは感受の幅を狭めるものですので効果的にそれが活かされているかが大事だと思います。文章だと生じる感情の幅をサウンドや声の雰囲気から直接的に指定することができます。
 さらには敢えて矛盾した雰囲気を内容と表現の間で行うことで、そのギャップからさらに感情を印象付ける効果もあるでしょう(幼い声で淫靡なことを言う、明るい曲調に乗せて暗澹を吐き出す等)。

時間的拘束性

 二つ目の「時間的拘束性」とはつまり、その文章を感受する時の速度を作者が指定できるということです。

 一般に音楽は空間性を持たず、また、時間経過によって音が変化していくという「時間芸術」です。
 現代音楽や実験音楽の中には空間的な意味合いを持たせた音楽というのも見られます(例えばオーケストラを巨大な顔の形に配置して演奏する、シュトックハウゼン「オペラ『光』より「土曜日」から第3幕「ルツィファーの踊り」」)。
 しかし一般には音楽は空間的な延長性を持たず、場所を問わず音楽の時間的経過の中で完結するものです。これが絵画等「空間芸術」と音楽がいちばん異なるところでもあると思います。
 現代音楽の巨匠の一人、ヤニス・クセナキスはこうした音楽の特徴を著書の中で論じています。一方でクセナキスは「空間芸術」の極点とも言える建築家でもあります。空間芸術と時間芸術を知り尽くしているからこそ、新たな価値を創造し、その在り方を変容させていったのではないかと思います。

 以来15年経って現在〔1967年〕、この思想〈引用注:確率音楽〉やその実行は全世界にひろまり、探究はすでに終わったように見える。だが、平均律全音階という、あらゆる音楽を載せている「堅固な大地」は、思索的にも音楽上でも手付かずのままだ。次の段階はここから始まる。探究とそれによる変化は可能性にみちた新時代をひらくだろう。(中略)
 そのためには音楽構成のなかで、「時間外構造(「時間外カテゴリー)」・「時間内構造(「時間内カテゴリー)」・「時間構造(「時間カテゴリー)」〈引用注:原文ママ。原文は『「時間外~時間カテゴリー)」』まで傍点あり〉を区別することを提案する。任意のピッチの音階は時間外構造の例であり、要素の「水平」や「垂直」の組み合わせでも変わらない。事象自体、そのじっさいの出現は時間カテゴリーに属する。そして、任意の音階上のメロディや和音は時間外カテゴリーと時間内カテゴリーの関係から生まれる。それらは時間外構成の時間内実現となる。
ヤニス・クセナキス 著, 高橋悠治 訳『音楽と建築』, 河出書房新社, 2017, p.28

 そして「詩」は「空間芸術」と「時間芸術」のちょうど中間なのではないかと思います。
 詩を読む時、基本的には紙としての空間性を持ちます。たとえ前から順に読んで行ったとしても、全体の段落や改行による詩の「形」というのは目に入りますし、記号などがあることもあるでしょう。あるいは、文字組や版組、装丁に拘った詩集も沢山あります。
 同時に、詩は内容の理解としての時間性も持ちます。詩を理解するには前から順に読み進める必要があります。その理解の間には時間が必要です。これらから詩は、それ自身として絵画的な「空間性」と音楽的な「時間性」をどちらも有していると言えそうです。

 そんな詩の「時間芸術性」をより効果的に高めたのが「ポエトリー」であるように思います。
 ひとつの詩を読み進める速度は人によって異なります。しかし音楽と一体になったポエトリーでは、全体の時間やあるいはフレーズとフレーズの間の余白を作者が厳密に決めることができます。それによって強調したいところや余韻を作者の意図通りに伝えることができます。
 例えば以下の曲はそうした時間芸術性がとても効果的に発揮されています。

 ちなみに、逆に詩の「空間芸術性」に重点を置いた詩作品として、「図形詩」や「コンクリートポエトリー」が挙げられます。個人的には萩原恭次郎や新国誠一が好きです。

萩原恭次郎『死刑宣告』より(近代文学館・刊、1974)
画像はこちらのブログから引用。
新国誠一『雨』
画像は国立国際美術館の展覧会ページより引用。
(新国誠一『新国誠一 詩集』, 思潮社, 2019, p.63も参照)

(2022/8/1:追記)
 空間性を持った現代音楽の例にシュトックハウゼンの曲を挙げましたが、これはオペラの中の一曲でなので物語ありきで、それを表現する演出としての空間性ではないか、と思い直し他の例を考えてみました。
・各オブジェクトの配置と鳴らすタイミングのみ指定されておりその間を動き回ることを強いる、ジョン・ケージ「Water Walk」(1959)(ケージ本人による“演奏”
・少女が意味不明なことを携帯に向かって喋りながら駅から会場へ向かうまでの音を携帯から会場に中継する、山本裕之「無伴奏モノ・オペラ《想像風景》」(2000)(この曲題の「オペラ」は原義ではない……と思う)
・田んぼの真ん中にスピーカーを配置し、カエルの合唱とそれを模倣した弦楽四重奏が混ざり合う、大場陽子「カエル・シンフォニー」(2010)
 などを考えました。私は現代音楽に詳しいわけではない浅学の身ですが、とにかく物語の「演出アイディア」以上の空間性を持った音楽はかなり少ないと思います。(参考:『日本の作曲2000-2009』サントリー芸術財団, 2011)


音としての表現(韻律)

 三つ目も単純で、音としての気持ちよさを付随できるということです。これは特に「韻を踏む」という技法で強く効果が出ると思います。(逆に対句などは詩の方が効果的なのかな?これは分かりません。)

 音としての韻律の活用の例として古代ギリシャ悲劇における「χορός=コロス」があります。
 「コーラス」の語源である「コロス」は主に幕間に心情や状況を説明されるために行われる合唱です。歌詞としてメロディを含むこともありますが、詩を朗読することでなされることもあります。
 古代ギリシャの詩は厳格に詩の形が決まっています。例えば叙事詩は「ヘクサメトロス」と言って「長短短|長短短|長短短|長短短|長短短|長長」と決まっています。ですので、音として発音するだけで勝手に韻律としてリズムが生まれます。

 こうして生まれた「コロス」は感情を半ば即興的(デュオニュソス的)に伝えます。ニーチェは『悲劇の誕生』――原題『音楽の精髄からの悲劇の誕生』で悲劇に音楽によるデュオニュソス的情動と詩によるアポロン的叙情の融合を見出しています。

 つまり起源的には悲劇は「合唱コーラス」のみであって、「ドラマ」ではなかったのである。のちに、この神〈引用注:ディオニュソス〉を現実に存在するものとして示し、そのまぼろしの姿を聖化する額縁とともに、誰の目にも見えるようにあらわそうとする試みがなされるようになる。ここに狭い意味の「劇」がはじまるのである。今や酒神賛歌を歌う合唱団は、新しい任務を持つようになる。悲劇の主人公が舞台にあらわれた時に、観衆がぶかっこうな仮面をつけた人間などをそこに見ないで、いわば彼ら自身の恍惚から生まれたまぼろしの姿を見るように、観衆の気分をディオニュソス的興奮にかりたてるということである。
ニーチェ 著, 秋山英夫 訳『悲劇の誕生』, 岩波文庫, 1966=2019, p.103

 すなわち、「ポエトリー」は詩よりも「音楽」という手間がかかっているにもかかわらず、ある意味ではより情動的で即興的な側面が表れうるのかもしれません。

 これは逆説的に「歌」ではなく「ポエトリー」である理由も説明し得ます。「歌」になるとメロディやハーモニーが生まれるため詩としては作為的になりすぎるのではないでしょうか。より内容を真っ直ぐに伝えられるちょうど良いポイントが「ポエトリー」なのかもしれません。

 以上のような点が「詩」と比べた時の「ポエトリー」の特徴ではないでしょうか。もちろんこれは「詩」よりも「ポエトリー」の方が優れている、あるいは「歌」よりも「ポエトリー」の方が優れているという主張ではありません。「詩」も「ポエトリー」も大好きです。大事なのは形式より内容です。こうした特徴を踏まえて、それぞれで素晴らしい作品が生まれているのです。


なぜ「ポエトリー」ではなく「POEMLOID」なのか

 さて、以上を踏まえて次は(人間による)ポエトリーと比べた時のPOEMLOID(合成音声によるポエトリー)の特徴を考えましょう。

 その前に先に好きなPOEMLOIDを挙げたので、ポエトリーの好きなものもいくつかあげようと思います。



 挙げませんでしたが、他にポエトリーを専門的に発表しているアーティストにはMOROHAなどがいますね。

 最後の曲だけ明らかに異質ですね。そもそもこれを「人間による」ポエトリーに挙げていいのか分かりません。しかしまあめちゃくちゃ好きなので布教を兼ねて挙げます。聞いたことある人ならピンとくると思いますが、アニメ「惡の華」のED「花 -a last flower-」を制作したアーティストです。こちらももちろんのこと大好きです。

ポエトリーの内容的傾向

 さて、聞いてみて感じることは「ポエトリー」には一人称的な独白が多いということです。amazarashiも「独白」というポエトリーを発表しています。

 ここに挙げたものでなくても、「ポエトリー」には自分のマイナスな心情の吐露や、不遇な境遇をうたい、翻ってその教訓や感覚をオーディエンスと共にするもの(「皆も同じように……」が暗喩されるもの)が多いように思います。
 具体的には例えば「彼女とこれからも一緒だよ♡」よりは「彼女に振られ孤独を痛感する」の方がよく見られる主題ですし、「みんな頑張ろう!」よりは「社会に揉まれ消えてしまいそうだ(翻ってそれでも一緒に生きていこう)」の方が(歌と比べて)多いということです。
 率直かつ誤解を恐れぬ言い方をすると「陰気なのが多い」ということです。

 これはポエトリーがヒップホップと関連付けられることからも理解されます。自身のジャンルをポエトリーラップと名乗ったのは不可思議/wonderboyですが、そうでなくてもフロウの薄いラップはポエトリーと捉えられることもあります。そして、ヒップホップは黒人文化が発祥であり、己の境遇や社会の軋轢へのレジスタンスの側面も強いです。こうしたジャンルとの接近もまた、暗い内情の共有としてのポエトリーの側面を映しているようにも思います。

 これは、先にあげた「詩」と比べた中での「感情の直接的表現」の特徴の恩恵による影響が多いように思います。
 歌や詩よりもこうした「強い主張」はポエトリーの方が強力に効果を発揮する気がします。ある意味で文字通りの意味としての「演説歌」としての機能があるのかもしれません。
 また視覚情報は半ば無意識に見ないふりができますが、音楽は時間の一方向性があるので任意の地点を経ないと次の地点にたどり着くことができません。その意味で「時間芸術」であるポエトリーは「空間芸術」よりも主張を受け入れることを半ば強制させることができるとも言えるかもしれません。「耳が痛い」という慣用句はありますが「目が痛い」という慣用句はないように。

POEMLOIDの内容的傾向

 さて、ではPOEMLOIDはどうでしょうか。もちろん「歌」と比べると前述のポエトリーのような雰囲気の作品が多いように思います。しかしながら「ポエトリー」と比べたときにはまた違った側面が見えてくるように思います。

 「POEMLOID」は「ポエトリー」と比べて「個人的な社会への主張」が全面に押し出された作品が案外少ないように思います。「社会への主張」が主題の作品で有名どころとしては椎乃味醂さんなどでしょうか。

 多い作品の傾向は二種類に分かれているような気がします。それは「世界や物語」を詠った散文的幻想文学的な内容のものと、他者に還元されない極めて個人的な心情の吐露という私小説的な内容のものです。

 これらはポエトリーと比べたときの「主張」が無いようにも思われますが、そうではありません。しかしその主張のたち現れ方に差異が見られます。

 ポエトリーでは主張を表する主体は表現者にあります。主張のその責任を表現者が負っているということです。
 対してPOEMLOIDは「世界」や「個人的心情」といった枠組みを描くことに重点が置かれたものが多いです。そして、そこから何を汲み取るかは聴衆に開かれているように思います。つまり主張を表する主体が聴衆にあるということです。

 これはやはり合成音声が詠っているというところに依る影響が大きいように思います。POEMLOIDはポエトリーがもつ「感情の直接的表現」という特徴は劣りますが、代わりに、ポエトリーにも詩にも無い特徴――「匿名性による主体の転倒」が生まれているように考えます。

匿名性による主体の転倒

 POEMLOIDでは、製作者と聴衆の間に合成音声というフィルターを通すことになります。そして合成音声は(調声などにより個性が生まれるとはいえ)世界に開かれた=誰でも同一になりうるものです。
 つまり、合成音声を通すことで、主体が「個人」としての表明から「世界」としての表明へとすり替えられる――主体の転倒が起こります。聴衆は「世界」から受け取った時、それを個人による「意見」というより世界による「現象」として受け入れられるように感じます。古代ギリシャ人が大時化をポセイドンの怒りと解釈したように、聴衆はその「現象」からそれが表す内容を主体的に解釈します。その結果、各々が各々の中で内容を解決することによりある種、自己参照的な共感を得ることになります。

 こうした特徴にシナジーを大きく発揮するのが、先に挙げた世界や物語という幻想文学的内容や、極めて個人的な内省に回帰した私小説的な内容だと思います。こうした考える枠組みを提供するという在り方がPOEMLOIDが持つ特徴と合致し、その無機質な声から、大きな感情を想起することになります。

 その意味で先に好きなポエトリーに挙げた「影の無いヒト」はむしろPOEMLOID的と言えるでしょう。内容も散文的で主義主張という感じでは無いこともそうですし、その音楽形式からも伺えます。この曲ではボーカルは演奏者の間に置かれた機械(巡礼トロニクスといいます)が声を発しますし、その音声も男声と女声やさまざまな年齢の声が混ぜられ複数で個を成しています。演奏もU-zhaanさんのタブラに機械が合わせているのか、機械にU-zhaanさんが合わせているのかわからないような雰囲気です。こうした主体の秘匿化がポエトリーでありながらPOEMLOIDのような匿名性を成し遂げています。

まとめるとこういうことです。


・形式:様々(絵画よりは時間的より)
・内容:様々
・表現:様々(POEMLOIDよりは記名的そう)
・主張の解釈主体:様々(ポエトリーよりは受け手よりそう)

ポエトリー
・形式:時間的
・内容:主義主張、個人的状況の客観的描写
・表現:記名的
・主張の解釈主体:送り手

POEMLOID
・形式:時間的
・内容:<世界><物語>の表現、個人的状況の主観的描写
・表現:匿名的
・主張の解釈主体:受け手

以上のようなところが「詩」「ポエトリー」「POEMLOID」のそれぞれの特徴のように現状考えています。これが正しいという意味ではなく、要は「私はこういうところが好きなんです」ということです。どうでしょうか。もちろんこれらに当てはまらない作品もそれぞれの形式において多々あるでしょうし、当てはまらなくても素晴らしい作品は無数にあります。あくまで全体的な傾向の話です。

(2022/7/30追記)
 他に上記に該当しないポエトリーで思い当たるのが無いか考えていたのですが、大事な二曲を忘れていました。

 これらの二曲はどちらも物語性が強く、さらに大きな物語の中のピースとして朗読であることに意味が生まれているような作品です。どちらも例外的なものと思います。そもそもこうした曲は朗読ではあってもポエトリーと称されること自体少ないと思います。ボカロにおいてこうした曲は柊マグネタイト「或世界消失」などが該当するでしょう。

(2022/8/3追記)
 まとめ部分の「内容」の主観と客観がポエトリーとPOEMLOIDで逆になっていました。訂正しました。POEMLOIDが「極めて個人的な内省」なんだから主観的ですね。
 要するに「私(がいるこの社会)は〜〜である。〜〜せよ」という内容のものが「ポエトリー」より少なく、「私は〜〜だ」という内容のものが多い気がするということです。例えばこの曲などがその典型として念頭にあります。


なぜ無色透名祭で「POEMLOID」なのか

 さてそこで、無色透名祭です。無色透名祭では少なくとも期間中は「歌詞」「音楽」「ボーカル」以外が明かされません。これは、詩と比したポエトリーの特徴とも、ポエトリーと比したPOEMLOIDとも面白いシナジーを発揮するように思います。

 無色透名祭では、紹介から聞いた人でなければ、聞き始めるまでそもそもそれが「POEMLOID」なのかすらわかりません。そうすると、聴衆は否応なしに時間的芸術がもつ時間性に巻き込まれることになります。また、その匿名性によって主張の責任が希薄にもなるでしょう。これにより、主張の表明としても活発になったのかもしれません。

 また「POEMLOID」的特質としても、「主体の転倒」がより起こりやすいといえます。「曲そのものが主役」を謳う無色透名祭では、いつも以上に純粋に「曲と聴者の対話」になり得ます。そうした時にPOEMLOIDはより、音楽と聴者が主客未分の状態になるかもしれません。音楽と自己が渾然一体となった中から聴者自身が何かを得るというそれは、聴衆の音楽的体験として、あるいは自己の内省として独特な体験になり得ます。


 そういうわけで無色透名祭はことさらPOEMLOIDやポエトリーにとって面白いイベントになったなあと感じます。まだPOEMLOIDだけでも全部聞けたわけではないのでゆっくり対話を楽しみたいと思います。

 そんなわけで、ポエトリーやPOEMLOIDといった音楽ジャンルに対する個人的な考察でした。長々とすいません。
 繰り返しますが、これがポエトリー・POEMLOID論として絶対だ! というわけではありません。これは「私はこれらのジャンルのこういうところが好きなんです」というだけです。もしよければ聞く時に参考にしてみてくれたらありがたいですが。

 というわけでポエトリーやPOEMLOIDのこれからも楽しみです。それでは!

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