優しさ
友人から、家族から、上司から、後輩から、
「優しい」と、言われることがある。
病欠する友人に代わって出勤したとき、大量の仕事を上司から受けたとき、両親に意見せず従順に過ごすとき、後輩に何かを奢ったとき。
他人からの評価における「優しい」は、当人の自己犠牲の上で成り立っている側面が強い。
「優しい」と評価された人は、優しく在ろうとする。
自分の本当の望みや、意見を押し殺してまでも。
もはや一種の呪い。枷である。
一般的に優しいと評される人々は、自己犠牲を厭わない。
そこには承認欲求や、忘却に対する恐怖、孤独への嫌悪など様々な要因を以って優しく在る。
優しい人はそれ以外の人にとって、都合のいい存在でしかない。
いじめられても笑いながら現状を受け入れる者を昔見たことがある。
「なぜ」と私は問うたが、彼は少し考える素振りを見せた後こう答えた。
「他人に期待していないから。人生は思い通りにならないのが常で、辛く悲しいことばっかりだ。僕が嫌がらせを受けたり、いじめを受けているこの現状は最早僕の制御できる範疇にないんだよ。それにいつかは、この耐える日々が報われる時が来るかもしれない。なんて期待をしているけれど、そうはならないことを知っている。だからどうしようもないし、どうするつもりもない。彼らに仕返しをしたところで、人間は結局弱い生き物なんだから、いたちごっこになるだけだよ。」
私は驚愕した。彼は救いようがない程優しい人間だった。
達観した思想で、俯瞰で現状を視ている。
自分の感情を完璧に切り離して自分を客観的に捉えている。
「優しい」という在り方が私には歪に感じた。
優しいのは決して悪ではないし、むしろ褒められるべきことだと思う。
だが、優しい人間は幸福になりづらいのか。
優しいままでは、
幸せになれないこの世界が間違っている。