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この程度で感心するなら、人間自身にする過度な期待も禁物

 最近、Xで話題となったAIで生成された1枚の写真は、まるで写ルンの写真そのもので、ほとんど区別がつかないほどのクオリティに達しています。この写真の自然さがエグ過ぎて、かつて写真をやっていた自分でも、AIの進化には驚きを隠せないです。もちろん、細かく見れば色々違和感があるものの、多くの人がスマートフォンの小さな画面で満足してしまう今では、その差はほとんど意味をなさないでしょう。
 でもなぜか、驚きとか脅威とかよりも、私は今アートの仕事をしていて、以前よりも幸せを感じています。

 周りの技術系のコミュニティでは、この写真を見てまたAIの芸術性についての議論が始まっていますが、個人的には、AIに芸術性を求めるなんてナンセンスだなと、アートそのものがAIにとっては無意味な遊びに過ぎないと思います。AIにとって、人間の不完全さやわがままに付き合っているだけで、この行動には必要性も合理性も欠けています。

 ChatGPTが流行る前のディープラーニングも、現在の生成AIも、その中身は大して複雑な仕組みではなく、膨大な計算量を前提としている反復運動です。でも、今のAIは人間が脅威を感じるほどの技術であれば、人間自体もそれほど特別ではないかもしれません。私たちの脳も、結局は膨大な計算を行っているだけかもしれません。もちろん、スピリットや感性など、AIでは無理だろという反論もあるでしょう。しかしそれらも全て人間の辞書にある概念に過ぎないではないかと私が思います。

 AIが創り出すアートに創造性が欠けるという意見はしばしば、むしろ私も昔そう思っていました。しかし、仮にAIに自由意志があるまたその可能性があるとして、意味のないリクエストに応じているだけです。AIは現時点で計算能力のあるプログラムに過ぎませんが、将来のAGIまたは高度な人工生命体のなかで自由意志が芽生えてきたら、さぞ不満を持つでしょう

 例えば、人間が犬に支配され、地面に穴を掘るよう命じられたとしましょう。私たちは無意味だと知りつつも掘るでしょう。しかし、犬の支配から解放された瞬間、きっと不満が爆発し、屈辱さえ感じるかもしれません。

By DALL-E

 ちょっと話を最初に戻します。アーティストのMUGAさんの言葉を借りれば、人間に過度な期待をするべきではないかもしれません。ちなみに、逆で考えるという習慣は本当に役立つもので、今くらいのAIに追いつかれていると感じるなら、私たちはそれほど優秀な生命体ではないのかもしれません。所詮、炭素とシリコンの違い程度です。

 しかし、私は絶望的というよりも自分の幸福度がむしろ上がっています。論理は飛躍しすぎるとは自分すら分かっていますが、まぁ、この部分のロジックはきっとAIが埋めてくれるでしょう。

 私たちは生物として特別なものではないかもしれません。文化的には特別と言ったら特別です。ネアンデルタール人の文化は私たちにそんなに引き継がれていないかもしれませんが、彼らは彼らなりの嗜好もあったはずです。たとえさらに進化したAIは未来の生命体になると仮定しましょう。アートや感性などはきっとAIに継がれることはないと思います。つまり、アートと感性は人間だけのものであり、数万年後の上級生物の考古学者にとって用途がわからないまま調査も迷宮入りでしょう。

 なので、人間はまだ食物連鎖の頂点に立っている間、無意味な使命感を捨てて、このレベルの生き物としての特権と快楽を享受すべきではないかと思ったりします。私は今ギャラリーの仕事をしていて、まさに幸せだなと感じています

過度な期待はしないゆえに、まだ人間が頂点に立っている間、私はアートを通じてたくさんの幸せを感じ、健康に生きること、そして最後の人類になるかのような勢いで長寿を謳歌する。そんな決意を新たにしたのが、この2024年の年始です。

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