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この3年間私に起こっていたこと

この記事を書こうと思った経緯

私は幼稚園くらいの時から休みがちでした。不登校まではいかないまでも、ひどいときは1週間に1回くらい休んでました。これを読んでいる友人や先生で心当たりがない人はいないと思います。皆勤賞とったことねえ。

それはさておき、この三年間、私は人生でありがちな暗黒期を過ごしていました。ま~じでしんどかった。大学をやめ、バイトをやめ、専門学校をやめ、外に出るのをやめ、人とかかわることをできるだけ避けました。

この3年間、生きるのめんどくせ~なってずーっと思ってました。

でも3年間のカウンセリングを経て、私の物臭性分、逃げ腰の原因がわかりました!カウンセリングってすげえ!

原因が分かると途端に快方に向かっています。それに伴って、大事な友人や恩師にも相談できずにいたことも話せるような気分になったので、これを機にこのクッソ重いであろう記事をぶつけてやろうと思いました。くらえ!

かといって重い気持ちになってほしい訳ではないので、適当に読んでくださいね。

また、私と同じような正体不明のしんどさを抱える人が、この記事を読んで救われたらいいなと思います。

3年間の経歴

・2018年度

4~5月 大学へ行く

6~9月 週3のみ出席

9~3月 全く大学に行かない日々

・2019年度

4~9月 休学

9月  中途退学

9~3月 ニート(バイトも辞めた)

・2020年度

4~5月 専門学校に入学、通学

9月~ 中途退学RTA&ニート

3年間の心理状態と原因

端的に言うと、私はうつ状態でした。うつと聞くとすごく重くとらえてしまう人がいると思うので、誤解なく伝えるために細かく説明します。

うつには、3つの段階があります。軽い順に、①ストレス負荷がかかっている状態、②うつ状態、③うつ病です。

①のストレス負荷がかかっているというのは、通常の人の状態のことです。筋肉で言うと運動です。運動と同じで、適度なストレスは必要なんですね。②のうつ状態は、筋肉で言う筋肉痛です。無理をしすぎて翌日腹筋が痛ぇ!いつもみたいに動けない!でも、少し休んで静かにしていれば、また動けるようになります。③のうつ病が、筋肉で言う肉離れです。病院で治療が必要です。無理をすればするほど悪化していきます。

このうち、私は筋肉痛だったんですね。今まで楽しんでいたことに手が付けられない。そして過度なストレスは自律神経失調症として現れてました。学校を休んでいる時期は吐くほどのめまいや胃もたれがしたり、たまに脈拍が飛んだり不自然な発汗があったりしました。

これがあら不思議!学校やバイトをやめると途端になくなるのでした!草

それは私が人とかかわることにストレスを感じていたからです。人前で失敗することを恐れ、そのために一挙手一投足に気を配り緊張していました。失敗しないために前日からの準備やイメージトレーニングを欠かさず行いました。結果それが私の神経をすり減らしてしまう。学校やバイトを休みがちな私に、先生や同僚はきっと「将来やっていけない」とか「迷惑な人だ」とか思っているのではないか。そんなこと言わない人たちだと分かっているのに、どうしてもそれが頭から離れずに勝手に傷ついてしまう。それでも、休んでいない時くらい人にとって役に立つ存在であろうと極度に失敗を恐れる。そんな負のスパイラルに陥り、「やめる」ことで関係を断つ。これの繰り返しでした。

その原因は私が回避性パーソナリティ障害(機能不全)だからでした。

回避性パーソナリティ障害(機能不全)とは何か?

APDを持つ人は、自分は社会的に不適格で魅力に欠けていると考え、笑われること、恥をかくこと、排除されること、嫌われることを極端に怖がり、そのために、社会的な交流を避けようとする傾向をもつ。

これはwikipediaからの部分的な抜粋です。APDとは回避性パーソナリティ障害のことです。

以下、回避性パーソナリティについて書かれている、「生きるのが面倒くさい人」という岡田尊司さんが書いた本の中の引用です。

他人はどうせ自分のことなんか助けたくないと思っている。
自分の気持ちや考えなど、どうせとるに足りないもので、相手に聞いてもらうほどの価値はないと思って、口に出さないまま飲み込んでしまうことも多い。

失敗することを極端に嫌がるくせに人に話せない。頼れない。相談できない。そうして切羽詰まった末に、私はうつ状態になったのでした。

回避性パーソナリティ障害について、マジで語りきれんので、もうちょっと知りたいとか自分もそうかもと思う人はぜひ「生きるのが面倒くさい人」読んでみて。上にリンク張ってあります。

なお、回避性パーソナリティ障害になった原因については説明しないでおきたい(めんどくさいので)

回避性パーソナリティ障害が顕著に発症した時期

今思えば、先に示した大学入学よりも前に回避性パーソナリティ障害の症状が顕著に出ていたのが、大学受験の時でした。話せば長いんですけど、よければ付き合ってくださいな。

高校3年生の夏、初めてやったセンター入試試験の数学ⅠAの過去問で87点を取り、なかなか幸先のいいスタートだった受験勉強。センター本番が近づくにつれてその面影はなくなっていきました。センターの数学ⅠAの結果はなんと45点!!!なんと約半分です!!!すごい!!!

なんとなくジリ貧になる予感はしていました。夏から何度もやった進研模試。夏には8割とれていた点が回数を重ねるにつれて7割、6割と減っていきました。だから「絶対に落ちたくない!」と考えていた私は、センターの点に頼らない受験にこだわってたんだと思います。

岡大で新しく始まった推薦入試。センターの結果がいらないと分かり、あとからそれっぽい理由をつけて、出願しようと思っていたAOではなく推薦入試に出願しました。結果は面接がダメダメすぎて不合格。(この面接はのちに悪夢として見るほどトラウマになります)

公立大学の候補は2つありました。一つは岡大の教育学部美術領域。これにはデッサンと面接が受験項目に入っていました。二つ目は新しくできた香大の創造工学部の造形・メディアデザインコース。これには絵に関する試験はあれど、面接がありませんでした。そう、私は岡大の入試で面接がトラウマになっていました。香大の方が偏差値も低かったし、デッサンの練習を全くしていなかったのも手伝って、香大の受験を決意します。しかし香大の受験対策を進める中でも私は自信を順調に無くしていって、結局、やっぱり先生になりたいけど香大の工学部では教員免許が取れないからという理由で出願を取り下げました。そして、私は滑り止めで受けた私立大学に通うことになりました。

その後大学に行っても、受験から逃げ続けた結果ここに流れ着いた自分と、この大学に来たくて頑張った皆。私はクソだという思いから厚さ10mくらいの大きな壁を感じてしまい友達とうまく付き合えない。そうして次第に大学から距離を取るようになったのでした。

今ならどう考えるか?

もちろん、でっっっっっっっっかい後悔をしています。同じ大学を目指していた友達と、大学入ったら何しよう、どんなサークルに入ろうと夢見ていました。一緒に行きたかったんです。今でも、あの時あきらめず岡大を目指していたら、と考えることがあります。

中学生の時家庭教師だった恩師に相談した時も「辛い方を選ばないときっと後悔する」と言われていました。言われていたのに、その決断ができなかった。当時の心理状態だと、時を遡ってもきっと同じ判断をすると思います。

だから、後悔はしていますが、これでよかったんだと思っています。

ただ一つだけ、岡大の推薦入試に変えると担任の先生に報告した時、先生に「もしかして、センター受けたくない?」と聞かれました。それに私は「そういうのは別に思ってないですね」的なことをしれっとした顔で悟られぬよう答えました。

なんで私にそう聞いたんですか?私のこと、私より知ってたんですか先生。もしあの時、はいと答えていたら。自信がないですと頼れていたら。何か変わったんだろうか。受験の決断は難しくても、はいと答えるだけならあの時の私でもきっとできたはず。それだけが、心残りです。

さいごに

この3年間、私が皆と違って学校に毎日行けないのはどうしてなのか、過去を思い出しては泣いたり怒ったりして考えていました。それがわからないと、問題の原因が分からないのでは、解決方法の立案もできん!という面倒な性分だったからです。

そして3年間のカウンセリングを経て、その答えを見つけてもらいました。そうしてやっと、私は立ち直るための一つ上の段階に歩を進めることができたのです。

本当に、あのころとは劇的に違います。自分のために何をしたらいいのか、何もわからないのは地獄です。解決策を実行することで、ミリではあるが確実に前に進めているという感覚。今この3年間を振り返ってみると、本当にゴミみたいな生活だったけど、すべてが必要な過程だったと思えます。

これを読んでくれた友人に言いたい。私はそれなりに頑張ってるから、変に気を使ったりしないでくれ!ニートは楽しいので。

そんな私の話を辛抱強く聞いてくれ、答えをくれたカウンセラーさんにはとても感謝しています。めちゃくちゃ盛大な宣伝みたいになっちゃうけど、リンクを張っておきます。きっと力になってくれます。→NPO法人 ステップ

おわり!


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