職業病
ある時、パントマイムをやっている者ならではの職業病の話になった。みなさん興味津々に聞いてくれたので、分類して研究するほどではないけど、いくつかあるからメモってみた。
身振り手振りが大きい。
これは言わずもがな。体を使って表現する癖がついているから、普通にしているつもりでも日常会話に伴う身振り手振りが大きくなってしまう。ついでに表情も大げさだ。ただし、2歳児が肩をすくめながらへの字口をするようなお国柄の国々では、一般の人とパントマイムをやっている人との差はあまりないかもしれない。
話とはあんまり関係のない無対象の物を作ってしまう。
無対象の物というのは、例えばパントマイムで綱引きをやる時の綱。落語家さんが扇子を箸に見立てて、かけそばを食べる時のどんぶり。エアギターで言うと、ギターのこと。エアギターが流行ってからは、エア何とかという言い方も市民権を得たように思う。
例えば、友人に、喫茶店でコーヒーを飲んでいる時に小耳に挟んだおもしろい話を伝えたい場面。「このあいださあ、喫茶店でコーヒー飲んでたらさ」と言いながら目の前にエアコーヒーカップを作り、香りを楽しんで、エア砂糖を入れ、エアミルクを入れ、エアスプーンでかき回し、、、と、なかなかそのおもしろい話にたどり着かない。
無対象の物を一旦作ってしまうとそれが氣になる。
例えば、上記の例のようにコーヒーカップの無対象を作って、手に持ってしまったら、それをテーブルの上の無対象のソーサーの上に戻さないと氣持ちが悪い。コーヒーが入っているカップを持っているんだから、素早く動いたり、ひっくり返したり、ぐしゃっと握りつぶしたり、フワッと手の力を抜いたりが、どうも氣持ち悪くてできない。
飲み込まないと氣持ち悪い。
また上記の例を持ち出すが、無対象のコーヒーカップを口につけたら、それはコーヒーの液体の無対象を口に入れていることなので、飲み込まないと氣持ち悪い。
ただし、落語家さんの無対象の扱いは氣にならない。
蕎麦をすすってるご隠居さんのところにはっつぁんがやってきて、落語家さんが、今、手に持っていたどんぶりをフッと消してしまっても氣にならない。なぜなら、落語家さんは場面を自分の中で編集(専門用語あるんだろうな、今度聞いてみよう)しているからだろう。どんぶりを持つ手の力をフッと抜いた時、落語家さんはもうはっつあんになっている。ただ、駆け出しの落語家さんはまだ編集が上手じゃないこともある。どんぶりがいつまでも宙に残っているように見えてしまうこともあった。
パントマイムの舞台をやっていると、そんな編集能力がうらやましいと思うことがある。何とか工夫すれば、言葉を使わずに同じような手法が使えるのではないかと思いつつ、まだ妙案は浮かばない。できなくはないが、ちょっと時間がかかる。キモはお客さんの「カット割りを想像する力」を壊さないようにすることなのかもしれない。
無対象をいい加減に扱うことは、お客さん(の想像力)をいい加減に扱うことだと思う。
例えば、舞台上で演者が無対象のドアを開けて部屋に入り、ドアに鍵を閉めるシーンがあったとしよう。しばらくして演者が外に出る時にさっきドアがあった位置で全くドアの演技をせずに出て行ったらどうだろう。お客さんは「ん?」と混乱するはず。せっかく頭の中にお客さんそれぞれが思い描くドアと室内をイメージして舞台を見てくれているのに、それを台無しにしてしまうことになる。だから、舞台上で自分が作った無対象はもう自分のものだけではなく、みんなのものだと考えるのがいいと思う。公共のものは人前で雑に扱わないでしょ?
むむむ?パントマイムやってる人間のあるある話をメモるつもりが、まじめな自戒、あるいは説教みたいになっちゃった。汗
ケッチ
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