世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?【bookノートB】

企業のトップに立つようなグローバル企業の幹部候補、いわゆる「エリート」が美術館へ足を運び、アート鑑賞プログラムに参加することが近年増えている。

「エリート」とは、世界でもっとも難易度の高い問題解決を担っている人々のことだ。

彼らはいま、論理的・理性的スキルに加えて、直感的・感性的スキルの獲得を期待されている。

「分析」「論理」「理性」に軸足を置いた「サイエンス重視の意思決定」では、現在の複雑な社会で経営を行なうことは難しい。

クオリティの高い意思決定を継続して行なうためには、

明文化されたルールや法律だけを拠り所にするのではなく、

「美意識」という判断基準をもつ必要がある。

ここでいう「美意識」とは、デザインや広告宣伝などのいわゆる「クリエイティブ」の領域にとどまらない。

経営戦略や行動規範、ビジョンなど、企業が行なう活動の「よい」「悪い」を判断するための認識基準も含んでいる。

かならずしも数字や論理で説明できないものを判断する力が「美意識」なのである。

「論理」と「理性」に対応するものとして、「直感」と「感性」がある。

「論理」と「理性」は文字通り論理性や合理性を、「直感」と「感性」は論理の飛躍、美しさを主軸にしている。

日本企業における大きな意思決定のほとんどは、「論理」「理性」にもとづいて行なわれてきた。

実際に日本人の多くは「論理」「理性」を、「直感」「感性」よりも高く評価する傾向がある。

しかしこれは危険な考え方だ。

もちろん「論理」「理性」をないがしろにしていいというわけではない。

問題は現在の企業運営が、「論理」「理性」に偏りすぎているということにある。

意思決定を「論理」「理性」だけで行なうことは、いつも同じ答えが出るということを意味する。

つまり「論理」「理性」に軸を置いて経営すれば、かならず他者と同じ結論に至ることになり、差別化ができなくなってしまう。

かつて日本の強みは、「論理」や「理性」から導き出されたスピードとコスト削減だった。

しかしいまでは中国などの海外企業に押され、こうした強みは失われつつある。

経営は「アート」「サイエンス」「クラフト」が混ざり合ったものだ。

「アート」は組織の創造性を後押しし、ワクワクするようなビジョンを生み出す。

「サイエンス」は体系的な分析や評価を通じて、「アート」が生み出したビジョンに裏づけを与える。

「クラフト」は経験や知識をもとに、ビジョンを現実化するための実行力となる。

ポイントは、どれかひとつが突出していてもだめだということだ。

現在のビジネスでは過度に「サイエンス」と「クラフト」が重視されている。

なぜなら「アート」が言語化できないのに対して、「サイエンス」と「クラフト」は言語化して説明できるからである。

しかし「サイエンス」と「クラフト」だけに偏ると、「合理的な説明さえできれば何をしてもよい」という企業風土を生みかねない。

昨今問題になっている大手企業のコンプライアンス違反や労働問題の根本には、「過度なサイエンスの重視」がある。

新しいビジョンや戦略もないまま、真面目な人達に高い数値目標を課して達成を強く求めれば、行き着く先は不正である。

「サイエンス」だけを重視していては、事業構造を転換したり新しい経営ビジョンを打ち出したりすることはできない。

「そもそも何をしたいのか」、「世界をどのように変えたいのか」といった、ミッションやパッションにもとづいた意思決定をするためには、経営者の「直感」や「感性」、つまり「美意識」がどうしても必要になってくる。

現在の日本企業には

「日本をどのように変えたいのか」

「世の中のどんな問題を解決したいのか」

といったビジョンが絶対的に足りていない。

ビジョンは多くの人を共感させるようなもの、

耳にした人をワクワクさせるようなものでなければならない。

こうしたビジョンを設定するには、「理性」ではなく「感性」の力が必要なのだ。

過度に「論理」「理性」「サイエンス」を偏重してきた日本企業はいま、正しいバランスを取り戻す必要に迫られている。

現代におけるモノの消費は、役に立つためというよりは、自己実現のためという側面が強い。

消費は最終的に、自己実現的消費へと行き着くだろう。

つまりすべてのモノやサービスは、

ファッション的側面で競争せざるをえなくなるということだ。

たとえばアップル社が提供している価値は、「アップル製品を使っている私」という自己実現欲求の充足だといえる。

この時代の流れは日本にとって好機である。

「日本の美意識」は世界最高基準の競争力をもっている。

明治の開国以来、外国人による「日本の美意識」に関する記録は多い。

世界的に形成された「日本=美意識の国」というイメージは、大きなアドバンテージとなるはずだ。

なおマーケティングにおいては「そう思われている」ということが重要なので、その認識が本当に正しいか否かは問題ではない。

「サイエンス」でつくられるデザインやテクノロジーはコピーされうるが、「アート」でつくられるストーリーや世界観はコピーできない。

これは大きな競争力となる。

日本人は「ストーリー」や「世界観」を天然資源のように豊富に持ち、潜在的に高い「美意識」をもっている民族だからだ。

しかし一方で、美意識は容易に失われうるということも覚えておかなければならない。

ここ最近、新興ネットベンチャー企業の不祥事が相次いでいる。

ネットゲームでランダムに入手できるアイテムをコンプリート(コンプガチャ)させるため、多額の費用をつぎ込ませたことが社会問題となり、すべての企業がサービスを停止させるといった事態にまで発展した。

このようなネットベンチャー企業は、グレーゾーンで荒稼ぎするビジネスを考案し、それがエスカレートして社会から指摘されると、「叱られたのでやめます」と謝罪して事業を修正する、というビジネスモデルをとっている。

つまり「内部的な規範」がまったく機能していないのだ。

「法律で禁止されていないので問題ない」というのが判断基準になってしまっているのである。

社会が変化するスピードは年々増しており、その急激な変化に対して法の整備が追いついていない。

このような状況において、明文化された法律のみに従うのは危険だ。

違法ではないが倫理を大きく踏み外した場合、後から違法となる可能性もある。

システムの変化が早く、ルール整備が追いつかない社会こそ、「美意識」が重要になるのだ。

いつ改定されるかわからない法律よりも、自分の中に確固としてある「美意識」のほうが判断基準として信頼できる。

実際、好業績を継続的に上げている企業には、「美意識」を社是として掲げているものが少なくない。

たとえばグーグル社は「邪悪にならない(Don’t be Evil)」という一文を掲げている。

グーグル社が事業を展開している分野は新しく、変化が激しい。

大きな権力を持ち、他者の人生を左右する「エリート」だからこそ、「美意識に基づいた自己規範」を掲げているのである。

またその会社のルールがおかしいと判断するのも「美意識」の仕事だ。

「ある会社の常識は他の会社の非常識」ということはよくある。

目の前でまかり通っているルールや評価基準を「相対化できる知性」が求められている。

「アート」と「サイエンス」は対立する営みではない。

あるデータによれば、ノーベル賞受賞者と一般人を比較した場合、2.8倍も芸術的趣味を保有している確率が高いという。

「アート」と「サイエンス」が両立すると、むしろ知的パフォーマンスは向上するのである。

アートを鑑賞すること、つまり「観察眼」を高めることは、「美意識」を鍛えるうえでも非常に有効だ。

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ビジネスパーソンはどうしてもステレオタイプ的なものの見方に支配されやすい。

だが問題に直面した際に必要なのは、何が起きているのかを純粋に「見る」ことなのである。

欧州の名門校では、理系・文系を問わずに哲学が必修科目となっている。

哲学を学ぶことで、

①哲学者が主張した内容そのもの、

②それを生み出すに至った気づきと思考の過程、

③その哲学者の世界や社会への向き合い方という、

3つの学びが得られるからだ。

なかでも大事なのは②と③である。

現在では誤りだとわかっている主張であっても、「なぜそのように考えたのか」というプロセスを知ること、そしてその時代に支配的だった考え方に対し、どのように疑いの目を向けたのかを知ることは、非常に意義深い。

哲学的態度を身に着けた人は、無批判にシステムを受け入れない。

企業というシステムの内部にいながら、あくまでシステムそのものを疑いつづける。

そしてシステムに対する発言力を獲得するため、したたかに動き回りながら、理想の社会の実現に向けてシステムの改変を試みる。

これがいまのエリートに求められている役割なのである。

世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?
山口周 著
光文社

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