Think Crearly【bookノートA】
誰かから「ちょっとした頼みごと」をされたとき、深く考えずに引き受けてしまうことはないだろうか。
頼みごとのほとんどは事前の予想よりも時間がかかり、引き受けたことによって生じる恩恵や利益は、関係者にもたらされるものも、頼まれた人にもたらされるものも少ないようだ。
人の頼みを断れない、この「好かれたい病」はどこからきているのか。
これは、動物の世界でも起こる「互恵的利他主義」と呼ばれる行動で説明することができる。
チンパンジーは自分が獲物をとらえた際に、血縁関係がない仲間とでもそれを分け合う。
別の機会に獲物を分けてもらえることを期待し、自分が獲物を取れなかったときの保険をかけているのだ。
これは、以前どの仲間が分けてくれたかを記憶しておける動物ならではの行動パターンだ。
この行動パターンは人類にも受け継がれている。
このおかげで私たちは、血の繋がりのない大勢の人と協力しあい、生活を豊かにするために経済活動ができているといえよう。
しかし、ここには落とし穴もある。
それは、誰かから「好意」を受けるとお返しを義務のように感じて頼みを断れなくなってしまうこと、
そして「お返し」を期待して相手の利益になるように進んで頼みを引き受けてしまうことだ。
しかも、頼みごとの実現に必要な時間のことを考慮して引き受けていることは存外少ない。
「互恵的利他主義」に対抗するために、ウォーレン・バフェットのビジネスパートナーであるチャーリー・マンガーの「5秒決断ルール」を真似てみてはいかがだろうか。
頼みごとをされたとき、その要求を受けるかどうかを5秒で検討するのだ。
5秒で決めると、ほとんどの場合、「ノー」という答えが導き出されるはずだ。
「ノー」と言うことで、チャンスを逃しているような気持ちになるかもしれない。
だがたいていの場合、断ったところでチャンスを逃したことにはならないはずだし、頼みごとを断られたからといって、すぐにあなたを「人でなし」などと決めつける人はめったにいないだろう。
私たちは、テクノロジーによって自分たちの生活がより効率化されていると信じている。
たとえば自動車は、私たちの移動効率を上げてくれた。
だが、私たちの自動車の現実的な平均速度はどのくらいだろうか。
車の購入費を稼ぐための労働時間、保険料や維持費やガソリン代、
交通違反の罰金を支払うために必要な労働時間などを考慮して計算すると、
アメリカ車の平均時速はたった6キロだったそうだ。
これでは歩く速度と変わらない。
アメリカ車の本当の平均時速を導き出した社会評論家のイヴァン・イリイチは、この現象を「反生産性」と名付けた。
要するに、テクノロジーの多くは、一見それによって時間とお金を節約できているように見えても、
実際にかかったコストを計算してみると、その節約分は消えてしまうということだ。
車は速くて便利だが、購入費も維持費もかかる。
そのコストを厳密に計算してみると、買わないほうがいいという結論になることもあるだろう。
Eメールを例に考えてみよう。
Eメールはほぼ無料で利用できているように思えるが、メールアドレスを持てば、送られてくる情報に目を通すという作業が生まれる。
メールをするための機器の購入費の一部はメールのコストだといえるし、
ソフトウェアのアップデートにも時間がかかる。
こうしたコストを概算すると、メール1通あたりのコストは1ユーロと、従来の手紙の郵送料とほぼ同じ料金だ。
スマートフォンのアプリ、テレビ、ゲーム、デジタルカメラなど、便利だと信じ込んでいるものについて、
「反生産性」の観点から再検討してみよう。
すると、別の結論が導き出されるかもしれない。
あなたは今、ドイツに住んでいるとする。
季節は冬。
排気ガスで黒く汚れた雪が路上に残っている。
そんななか、車のフロントガラスの氷をそぎ落とし、凍結した車のドアを開けて、冷えた車内に乗り込んでハンドルを握る。
次に、太陽がさんさんと降り注ぎ、穏やかな海風の吹く、マイアミビーチに住んでいたとしよう。
ドイツに住んでいるときと比べて、幸福度はどれくらいアップするだろうか。
ほとんどの人はマイアミビーチのほうを高く評価するだろう。
しかし、ドイツでもマイアミでも、一日を通してみれば、同じようなことをしているのではないだろうか。
どちらの国にいても、渋滞に巻きこまれながら職場に向かう。
到着するとメール対応と上司とのごたごたに追われる。
仕事が終わると、1週間分の食材をまとめ買いし、夕食をとる。
食後はソファでのんびりし、映画を見て、眠りにつく。
さて、同じような毎日を送るとすると、
マイアミビーチにいることはあなたの幸福度にどれだけ影響を与えるだろうか。
今度は、さほど変わらないと考える人が多いだろう。
この評価の差は、「フォーカシング・イリュージョン」と呼ばれる。
特定のことについて集中して考えているあいだはそれが人生の重要な要素のように思えても、
実際はそうでもないという錯覚を表す言葉だ。
先ほどの例でいうと、最初は気候に焦点を合わせて考えていたので、マイアミのほうが生活満足度が高そうに思えた。
だが、一日の流れを考え、天気はその日全体の一部でしかないとわかると、ほとんど取るに足らない要素に感じられる。
私たちは、フォーカス・イリュージョンの罠にはまりがちだ。
暑い夏の夜、
冷蔵庫にビールが入っていなかったから、
今夜は台無し。
エッフェル塔が見える部屋が予約できなかったから、
パリ旅行全体が最悪。
そんな気分になってしまうのは、まさにフォーカス・イリュージョンにとらえられている状態である。
特定の要素を過大評価しないよう、その要素から十分な距離を置いてみることが重要だ。
著者は書く仕事を始めて間もない頃、読者の感想を気にするあまり、世間の人々の褒め言葉を本の出来の目安にしていたという。
しかしあるとき、世間の評価が必ずしも本の出来に直結するわけではないということに気がついた。
それ以来、著者は「他人の評価」という監獄から自由になったのだ。
よりよい人生を手にするためには、バフェットのいうところの「内なるスコアカード」と「外のスコアカード」の違いに目を向ける必要がある。
これは「自分の内側にある自分自身の基準が大事か、それとも周りの人の基準が大事か」ということだ。
人からよく思われたいという気持ちは、私たちのなかに深く根ざしている。
だが、それでも周りの人の基準よりも自分自身の基準のほうが大事だ。
周りがあなたを褒めようが中傷しようが、
そのことがあなたの人生に与える影響は意外と小さい。
だからこそ、他人の評価からは自由になるべきだ。
ソーシャルメディアの発展により、私たちは承認欲求の塊になってしまいがちだ。
政治家や有名人であったり、自分のイメージを使って仕事をしたりするのでもなければ、自分の評判を気にする必要はないし、
誰かの承認も必要ない。
それよりも、自分自身が納得のいくような生き方をすることのほうに注力したほうがいい。
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あなたのなかには、「体験している私」と「思い出している私」の2人がいる。
「体験している私」は、いまこの瞬間に起きていることを体験している意識の部分だ。
いま、この文章を読んでいるあなたの意識である。
「体験している私」は、ある一瞬を体験するだけでなく、考えたり感じたりしている。
これらをすべて混ぜ合わせて、ひとつの出来事として認識する。
その「瞬間」とは約3秒間だ。
ある一瞬に脳内を流れていった膨大な量のイメージは、
私たちの記憶にはほとんど残らず、忘れ去られていく。
一方の「思い出している私」は、「体験している私」が捨てなかったほんのわずかな記憶を集め、評価し、整理している。
私たちは、ある体験のなかからほんのわずかな記憶を集め、思い出すこともできる。
しかし、実際の体験と思い起こした記憶はほとんど一致しない。
休暇中の学生たちの幸福度を調べた研究では、
夏休みに対する学生たちの幸福度は、
「夏休みを終えた後」のほうが「夏休みを過ごしている最中」よりも高かったという。
「体験している私」の幸福度は「思い出している私」の幸福度よりも低かったのだ。
体験と思い出、どちらも大事だ。
だが、よりよい思い出をつくりたいと思うあまり、
「思い出している自分」ばかりを重視していないだろうか。
思い出づくりにばかり気を取られて、現在に目を向けることを忘れてしまえば、人生を本当に充実したものにすることはできない。
「Think Cleary」
ロルフ・ドベリ 著
サンマーク出版
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