思考の整理学【bookノートA】

日本人はよく「表現することが苦手」と言われるが、それは実のところ、「考えることが苦手」ということに他ならない。

学校教育は、自力で飛び立てない「グライダー人間」ばかり生みだしてきた。

だがこれからの時代で必要とされるのは、自力で飛び回れる「飛行機人間」である。

思考を整理するうえで、寝かせることほど大事なことはない。

本当にやるべきことは、1つのことだけに注力しているとなかなか見えてこない。

知識をいたずらに所蔵してはいけない。

必要なもの以外は忘れてしまうべきだ。

学校信仰というものがある。

新しいことを始めたいのであれば、学校へ行くのが一番だとする考え方のことだ。

学校信仰をもっている人たちは、学ぶにはまず教えてくれる人が必要だと考えている。

だからこそ、教える人と本を用意して待ってくれている学校へ行くのが当然だというわけである。

学校での学びは、あくまで先生と教科書にひっぱられたものでしかない。

それはまるでグライダーのような学び方だ。

学校では、どこまでもついていく従順さが尊重され、逆に自力で動く飛行機のような学び方は敬遠されてしまう。

グライダー能力自体がダメなわけではない。

そもそも人間には、グライダー能力と飛行機能力の両方が備わっている。

グライダー能力がまったくなければ、基本的な知識の習得すらおぼつかないだろう。

何も知らないまま一人で飛ぼうとすれば、待っているのは悲惨な結末である。

だが、現実にはグライダー能力ばかり成長していて、飛行機能力に欠けている人があまりに多い。

さらに悪いことに、そういう人も「翔べる」という評価を社会で受けてしまっている。

そのような環境が、新しい文化の創造を阻んでいるのだ。

学校がグライダー訓練所のようになってしまうのも、考えてみれば当然である。

とにかく言われるまま勉強するよう教えこむからだ。

そのような環境では、各人の自発的な学習意欲は期待できない。

ここで参考になるのが、昔の塾や道場のしきたりである。

かつての教育機関では、入門してもすぐに教えるようなことはしなかった。

むしろ、教えるのを拒んでいたほどである。

すると当然、弟子は不満をいだき、なんとしてでも師匠の知識や技術を盗みとろうとする。

すると次第に、新しい知識や情報を自ら取得する力が養われていくというわけだ。

いまの学校は、教える側が積極的すぎるし親切すぎる。

それでは学ぶ側の依存心を助長するだけで、好奇心をないがしろにしてしまうだけである。

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通常、問題から答えが導かれるまでには時間がかかるものだ。

その間、ずっと考え続けているのはかえって悪影響を及ぼしかねない。

一晩寝てから考えるぐらいがちょうどよい。

むしろ、一晩では短すぎる場合もある。

大きな問題は特にそうだ。

すぐに答えが出るような問題は、そもそも大したことがない。

本当の大問題は、長い間、心のなかであたためておかないと形をなさない。

思考の整理法として、寝かせることほど大切なことはない。

意志の力には限界がある。

もっと無意識の時間を大事にするべきである。

着想を生みだすうえで、無意識の時間を使うことほど有用な手段は他にない。

自分なりの着想をもつと、どうしても独善的になりがちだ。

もちろん自信をもつことはすばらしい。

だが、いきすぎてしまってはいけない。

ひとつのことに注力することは、傍目には美しい生き方のように思えるかもしれないが、かならずしも成果に結びつくわけではない。

ひとつだけに絞ってしまうと、うまくいかないときに後がなくなってしまう危険性もある。

いくつかのことに関わりをもって生きてこそ、自分のやるべきことが見えてくる。

また、変なこだわりも生まれないし、力むこともなくなる。

自分のテーマ同士を競争させていれば、テーマの方から自然と近づいてきてくれるものである。

「ひとつだけでは、多すぎる」のである。

全体は部分の総和にあらず、という言葉がある。

上手に編集すれば、部分の総和よりはるかにおもしろい全体像を描き出せるし、それぞれの構成要素も単独のときより数段見栄えがよくなる。

もとになるものを生みだすことが第一次的創造 (クリエイション) であれば、それらをまとめあげるのが第二次的創造 (メタ・クリエイション) である。

思考においても、第一次的創造と第二次的創造がある。

思いつきや着想のような第一次的創造は、それ単独で意味をもつこともあるが、単独ではさほど力をもっていないことも少なくない。

そこで「知のエディターシップ」、すなわち第二次的創造の出番である。

ここで求められるのは、もっている着想や知識をいかに組み合わせるかだ。

このとき、材料は自分の着想でなくてもかまわない。

自分自身がどのぐらい独創的であるかは、知のエディターシップにおいてはさほど重要ではない。

むしろ、あまり主観や個性を出しすぎるのは考えものだ。

知を紡ぐ際は、あくまで触媒としての役割に徹するべきである。

知識をあつめるときに大切なのは、系統的に収集することだ。

おもしろそうなことをかたっぱしから集めてしまっても、雑然と知識が積み上がるだけで、調べる前よりもかえって頭が混乱してしまう。

調べるときは、まず何を調べるのか明確にするべきだ。

ものを調べるときは一般的に、カードあるいはノートを用いることが多い。

だが、どちらも時間がかかるし、アフターケアも大変だ。

よほどうまく管理しなければ、山のような「資料」をかかえることになってしまう。

そこでおすすめしたいのが「つんどく法」だ。

すなわち、当たって砕けろの精神で、積み上げた参考文献を、一気に読み進めるのである。

メモ程度のことを書くのはかまわないが、ノートやカードは極力とらないようにし、記憶するように心がけるのがポイントだ。

もちろん、内容を忘れてしまうことも多いのだが、ノートやカードをつくるときのように、きれいさっぱり忘れることはない。

記録してしまうと、忘却が促進される。内容を頭のなかに残したいのであれば、メモやノートはとらないほうがいい。

読み始めるときは、まず標準的なものから取りかかるようにする。

はじめの一冊は大変だが、その後はどんどん楽になるはずだ。

読み終えたら、なるべく早くまとめの文章を書こう。

ほとぼりが冷めてしまうと、一気に忘却が進んでしまう。

つんどく法のカギは、集中読書と集中記憶だ。

そうすることによって、短期間、ある問題に関して博覧強記の人間になる。

そしてそれをアウトプットしたら、安心して忘れる。

それでも、いくつかのことは頭に残るだろう。

いつまでも忘れないようにと思っていると、後々の知識の習得の邪魔になるので注意が必要だ。

思考の整理で重要なのは、いかにうまく忘れるか、である。

私たちは、人間の頭脳を「倉庫」に見立てた教育を受けてきた。

倉庫としての頭にとって、忘却は敵だ。

この考えにしたがえば、なかにたくさんのものが詰まっていればいるほどよいということになる。

コンピューターが普及したことによって、人間の頭を倉庫として用いるやり方に疑問が生じてきた。

これからは、新しいことを考え出す「工場」でなくてはならない。

倉庫を工場にするには、よけいなものは処分してしまい、広大なスペースが必要だ。

かといって、すべてのものを捨ててしまっては仕事にならない。

そこで整理が大事になる。

この工場の整理に当たるのが、忘却である。

特に大事なのが、睡眠のもつ忘却機能だ。

朝の時間が、思考にとって黄金の時間なのも、頭のなかの工場がきちんと整理されて、動きやすくなっているからに他ならない。

場所を変えてリフレッシュしたり、他のことをしてみたりするのも効果的である。

朝から晩まで同じ問題に取り組んでいるようでは効率が悪い。

考えをまとめるのはたいへんな作業だ。

だが、まとめることなしに本を読み続けても、材料がいたずらに増えるだけである。

大変な勉強家でありながら、ほとんどまとまった仕事を残すことができない人間になりかねない。

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大事なのは「気軽に」書き始めることだ。

最初から大長編を書こうとしてはいけない。

力が入ると文章が上滑りしてしまう。

いいものを書こうと気負わずに書くべきだ。

おもしろいことに、とにかく書き出してみると、頭のなかで少しずつ筋道が立ってくる。

どういう順序で書こうかと迷ってはならない。道筋は書き進めていくうちに自然と見えてくるものだ。

また、こまかい表現にこだわるのもよくない。

ノロノロ走っていると、石ころひとつで横転しかねない。

全速力で走り続けよう。

そうすれば、すこしくらいの障害など気にならなくなる。

推敲は最後にすればいい。

声に出してみると、頭が違ったはたらきをするようだ。

原稿は黙って書いたほうがいいが、読みかえすときは音読したほうがいい。

すくなくとも、声に出すつもりで読むべきだ。

そちらのほうがはるかに文章の穴を見つけられる。

とはいえ、なんでも声に出せばいいというわけではない。

たとえば、ちょっとしたアイディアを思いついたとする。

ついつい友人に話したくなるところだが、話すのは厳禁だ。

大抵の場合、がっかりするような反応しか得られず、意気消沈することになる。

また、話すと途端に溜飲が下がり、考え続けようという意欲を失ってしまう危険性が生まれる。

しゃべるというのは、それだけで立派な表現活動だ。

創作へのエネルギーはとにかく代償行動で肩代わりされやすい。

大切なアイディアであれば、あえて黙っておいたほうがいい。

同じ方面のことを専攻にしている人たちが話し合うと、どうしても話が小さくなりがちである。

便利な知識を得るためにはいいかもしれないが、そこから本当におもしろいことはほとんど飛び出してこない。

新しい発見は、気心が知れていて、

なおかつなるべく縁の薄いことをしている人たちが集まって、

現実離れをした話をしているときに生まれるものである。

そういうときは思考も躍動的になり、時を忘れて語り合ってしまう。

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「思考の整理学」
外山滋比古 著
筑摩書房

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