ハーバードの人生が変わる東洋哲学【bookノートA】
今日、自分の本当の姿を見つけ、内なる真にしたがって自己の人生を「忠実に」生きることが目標とされている。
しかし、ありのままの自分にこだわりすぎて、特定の場面で生じる感情を自分の特徴だと思い込むと、自分の可能性を限定してしまうおそれがある。
中国の思想家たちは、どの人も絶えず変化する存在だと説く。
例えば、自分のことを怒りっぽいと思っている人間を見たら、それは行動がパターン化したにすぎず、本来なら温和になる可能性を大いに秘めている、と考えるのだ。
人の感情は、内ではなく外に目を向けることで引き出され、日常生活での他者との交流の中で形成される。
もちろん自分の意識を改革するには努力を要するが、自分の置かれた人間関係や就いている仕事などの様々な要因を把握し、それらとの関わりを変えていくことが自己成長につながるのだ。
「道」とは、調和のとれた「理想」ではなく、自分の選択や行動、関係性によって絶え間なく生み出していく行路なのである。
このように、孔子をはじめ、変遷期の古代中国を生き抜いた思想家たちは、社会を問い直すにあたり、抽象的で壮大なテーマではなく、現実的かつ具体的な問いを探究し続けてきた。
彼らの思想は、貧富の差が拡大し、社会的流動性が低下しつつある現代社会に対しても、確かな処方箋となってくれる。
儀礼といえば、作法に則って行うものという印象を抱く人は多い。しかし、孔子は礼の持つ力について新しい解釈をもたらした。
人間には、「他者に対し感情的に反応する」という性向がある。
もし受け身の反応しかできないのなら、人は絶えず、断片的な出来事や感情の揺さぶりに翻弄されるだろう。
しかし、感情の修養に努め、反応の仕方を磨くことで、よりふさわしい反応ができ、人間性を高められると孔子は考えた。
よりふさわしい反応の仕方を身につけるには、食事のときの所作のような、「日常的な振る舞い」が重要だという。
人は無意識のうちに、話す相手によって態度や言葉選び、声のトーンを調整する。
この行為やしきたりを、孔子は「礼」だととらえ、私たちが社会生活に適応するための哲学の出発点だとした。
例えば、落ち込んだときに、誰かに「やぁ」と声をかけることで、負の感情を断ち切ることができるというように、些細な行動でも、私たちを根底から変えうる力を持ち、何らかの良い影響を及ぼすのだ。
ここでは礼の代表として「儀礼行為」を取り上げてみる。
古代の人々は人間世界に渦巻く負のエネルギーに対抗するために、儀礼行為を発展させた。
中でも、危険な霊を慈悲深い祖霊に変えるための祖先祭祀が重視された。
祖先祭祀では、死者の霊が存在するかどうかは問われない。
あくまで、残された家族が祭祀に本格的に参加することが大事なのだ。
立派に儀礼を行っている最中には、彼らは祖先のまっとうな子孫であるかのように振る舞う。
そのため、死者が生きている間に家族と結んでいた未解決なままの緊張関係や、生き残った者同士の不和が解消され、理想的な関係へと移行できる。
もちろん、ひとたび儀礼空間を後にすると、家族は実社会の関係に戻り、日頃の不和が再燃するかもしれない。
しかし、儀礼をくり返し、その最中に家族が普段担っている役割とは異なる役割を演じ、現実から「離脱」することで、日常生活でもじわじわと家族関係が修繕されていくのだ。
このようにして、礼は束の間の代替現実をつくり出し、わずかに改善した日常生活に私たちをいざなってくれる。
こうした礼は、「お願い」や「ありがとう」のやりとりや、カップルが互いに「愛してる」と口にする習慣、そして夕食どきの作法など、私たちの生活の至るところに浸透している。
とはいえ、私たちは礼の価値を理解せず、機械的にこれまでの習慣をくり返しがちだ。
しかし、この状態から抜け出そうという動きも生まれている。
例えば、アメリカの一部の大学では、学生たちが物議を醸しそうなテーマを建設的に討論できるような雰囲気のつくり方や意見の述べ方を学ぶ取り組みが行われている。
これまでと違う態度を身につけることで、私たちは変容を果たし、他人とのより良い関わり方を学べるようになる。
礼による変容を果たすには、「本当の自分」という考え方を手放さなければならない。
「自分に正直であれ」というメッセージは、有害な感情の習癖を固定化することにつながってしまう。
かわりに、自己を「様々な感情や性向、願望、特徴がいりまじり、いつも違う方向へと引っ張られる存在」ととらえれば、鍛錬によって、より良い人間へと成長する可能性が開かれるのだ。
同時に、礼をくり返す中で、まわりの人を思いやる能力も磨かれていく。
この能力こそが「仁」、つまり人間の善性なのだ。
孔子はあえて仁を定義しなかった。
なぜなら、仁の実践を理解するには、次々に変化する状況の複雑さと格闘し、仁を感じなければならないからである。
例えば、困っている友人を目の前にしたとき、一様に対処するのではなく、大局をつかみ、友人を取り巻く複雑な要素を理解しなければならない。
つまり、友人が明確な助言を必要としているのか、気持ちをわかってくれる相談相手を求めているのかなどを察するのだ。
これらが、仁を修養し実践するための助けとなってくれる。
孔子は、礼によってのみ仁を修養できると説いた。
礼のレパートリーを増やしていくことで、身近な人とも新たな関係を築き、新しい現実を生み出すことができるのだ。
老子は「弱いものがかえって強いものに勝ち、柔らかいものがかえって剛 (かた) いものに勝つ」と説いた。
森の中に育っている小さな若木は一見、もろく頼りなく見える。
しかし、その柔らかくしなやかな性質ゆえに、暴風に見舞われても元通りまっすぐ伸びていくことができる。
老子は、人間もこの若木のように、弱そうに見えるという強みを活かすことで、影響力を発揮できると説いた。
そして、状況や人の間のつながりを理解することで「道」に近い存在になれるのだ。
老子にとっての「道」とは、混沌としてすべてを内包し、あらゆるものに先立つ原始の状態だという。
「道」は宇宙のあらゆるものを生み出す源であり、それらは誕生当初は柔らかくしなやかだったのである。
人生のあらゆる状況で道をつくりかえるには、経験に基づく区別が間違っていることに気づく必要がある。
私たちは往々にして、願望や目標を実現するには、他者との競争に勝たなくてはいけないと思い込み、自分をまわりの人から切り離してしまう。
同様に、宗教や尊厳死などについて道徳上の強い信念を抱いていると、他の人の意見を受け入れられなくなり、自他の間に高い壁を築きかねない。
こうした区別はすべて、「道」に背くことになる。
また、自分の野心を示すために、怒鳴り散らしたり、意志を人に押し付けたりするのも逆効果である。
『老子』によると、最も影響力のある人は、無行為 (無為) を実践する人だという。
その端的な例は、アメリカで公民権運動の母と呼ばれているローザ・パークスだ。
彼女は、白人にバスの座席を譲れと運転手に言われたものの、席を立つのを拒否した。
攻撃的に反抗するのではなく、静かにすわっているというパークスの戦略が、同志の市民活動家を鼓舞し、公民権運動を一気に広めることにつながった。
まさに、弱気を持って強気を制したのである。
例えば、共感的な口調や言葉選びによって、出席者からの反応を引き出して、会議を自然と自ら望む方向へと誘導する空気をつくり出す議長も、「無為」の実践者だ。
動作や行為をしていないように見せながらも、議題をめぐって全員を一つにつなげ、さりげなく合意形成へと導いていった。
まるで出席者が「 (今回の会議は) ひとりでにするすると進んだみたいだった」と思うくらいに、自然と他者の考え方や感じ方を変えたのだ。
このように、主導権を握りながらも、柔らかさとしなやかさによって、周囲に「世界」を生み出せる人物こそが、真の影響力を発揮できる。
私たちはしばしば、ありのままの自分を受容することで成長できると思いがちだ。
しかし、儒家の荀子は、自分にとって自然だと思えるものをむやみに受け入れるべきではないと論じた。
なぜなら、人の本性は悪であり、感情の赴くままに行動すると争いが生まれ、社会の秩序が乱れると考えていたためだ。
これは個々の人間だけでなく、世界全体に対しても当てはまる。
人間は農業を発明したことで、自然を構成する要素を取り出し、再構成し、手をくわえ、飼いならし、栽培できるようにして、調和のとれた世界を構築した。
つまり、人間は世界に「ことわり (=パターン) 」をもたらす存在なのだ。
同時に、荀子は、やみくもに自然を崇拝することを有害なものと見なした。
人の手を加えない自然な状態の世界は苦労に満ちている。
一つ例を挙げよう。
私たちは遺伝子組み換え作物の普及を恐れ、自然律を操作することに懸念を抱きがちだ。
しかし、人間の食物のほとんどは、すでに過去数千年の間に手を加えられてきている。
真に問うべきは、食べ物がどれくらい「自然」な状態であるかではなく、私たちが「人為」を賢明かつ適切に用いているかどうかなのだ。
人間は、あらゆる生物の中で唯一、世界を構築し、変革し、そして自然を超越できる存在だ。
これほどの文明を発展させられたのも、自然を改良する努力を続けてきたからである。
もちろん、人間の介入が問題を引き起こすこともある。
しかし、どこで失敗を犯したのかに気づき、さらに改良を重ねることで問題解決につなげることができる。
荀子は、人の本性をねじ曲がった木にたとえ、外部からの力により、まっすぐにする必要があるととらえていた。
その外部からの力が、孔子が述べている「礼」を生じさせる「人為」だ。
自制心を働かせるという「人為」をくり返し、あるがままの状態である「本性」に意識的に働きかけ、感情や衝動をおさえることで、私たちは自律したより良い人間となることができる。
人間の文化や社会的な儀礼は、時間をかけて人為を積み重ねることで生じたものなのだ。
「ハーバードの人生が変わる東洋哲学」
マイケル・ピュエット 著
早川書房
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