『カレンダーストーリーズ』オモテ12月「ニコライ」(5) 【短編小説】作:丘本さちを
「ついたよ」
スネグーラチカは振り返って言いました。近くまで来てみると山小屋は本当に大きいことが分かりました。じっと見ているとまるで自分が小人になってしまったような心持ちさえしました。その理由は階や部屋の数が多いということではなく、ドアや窓、屋根の高さなど、山小屋のパーツというパーツが一様に大きかったからでした。
「ニコライを呼んでくる。そこで待っていて。ダッシャーと遊んでていいから」
スネグーラチカは入り口の前で声をあげました。彼女がドアと並んで立っていると、その比率の狂い方がよく分かります。ドアノブの位置はスネグーラチカの頭の上にあり、その直径も普通のノブの三倍程はありそうでした。少女は両手でぶら下がるようにしてノブを回し、小屋の中へと入っていきました。
「ねえ、ニコライって誰?」
またしても私の問いかけへの答えは返ってはきませんでした。スネグーラチカがいなくなった後、手持ち無沙汰になった私は、言われたとおりにダッシャーの相手をして時間を潰そうと考えました。しかし私に無愛想なトナカイはもう近くにはいませんでした。ダッシャーの姿はすでに林の奥へ消えようとしているところでした。私は仕方なくこの巨大な山小屋の周りを散策してみようと考えました。一回りするだけなら大した時間は掛からないはずです。
歩きながら私は考えました。ニコライというのが誰なのか分かりませんが、この山小屋の持ち主ならば大人のはずです。お願いすれば私を町へ連れて行ってくれるに違いありません。あるいは電話が引いてあれば、家に電話をして迎えをよこしてもらえれば済む話です。私は気持ちがすっと軽くなるのを感じました。突然消えた父の行動には謎が残りますが、きっといつもの気紛れなのでしょう。私はもうあまり深く考えないようにしました。
小屋の裏手に回った私の目に飛び込んできたのは、並べられた丸太の上に渡された大きな木造ボートでした。ボートというより帆の無いヨットと言ったほうが正確かもしれません。大人が十人は乗れそうなくらいの大きさがあります。湖など無いこの山の中で一体何に使うのか見当もつきません。この山小屋の持ち主も父と同じように一風変わった人間なのではないかと思い始めました。
「ああ、いたいた。あそこで待っていてと言ったじゃない」
後ろからスネグーラチカの不満そうな声が聞こえました。
「ねえ、この船は何に使うの?」
私が素直な疑問をぶつけると、途端に彼女はクスクスと笑い出しました。
「あなたって馬鹿ね。これは船なんかじゃない。これはニコライの橇よ」
スネグーラチカと一緒に私が庭に戻ったのと、山小屋の扉が開いたのはほぼ同時でした。大きな入り口から、頭をかがめて、さらに大きな人影がにじり出てきました。
「ニコライよ」スネグーラチカがまたも簡潔に述べました。
山小屋から出てきたニコライが直立すると、見上げるような高さに頭がありました。こんなに巨大な人間がいるとは、にわかには信じられませんでした。熊の毛皮を繋いだコートに身を包み、伸びきった髪の毛や髭に覆われた顔は、どんな表情をしているのか、まったく窺うことができません。ただその繁みの中心から大きな鼻が見え隠れしているだけです。どこかの穴の奥から風が吹き抜ける低い音がしました。それがニコライの声だと分かるまで、少しの時間が必要でした。
「こんにちは。はじめまして」
「あ、はじめまして」
恐ろしい見た目とは裏腹の礼儀正しい挨拶を受けて、私はかえって戸惑いを感じてしまいました。スネグーラチカが愉快そうに目を丸くしました。ニコライは見えていないのか、気にしていないのか、風のような言葉を続けました。
「君はどうして自分がここにいるか分かっているかな?」
私は投げかけられた質問の意味が理解できず、答えようがなくて口をつぐんでしまいました。
「ダメ。さっき言ったでしょ。この子忘れているから」とスネグーラチカが口を挟みます。ニコライは長く長く息を吐き出しました。それは彼の溜息のようでした。ニコライは巨体をかがみ込ませ、体毛に覆われたその顔を私の顔の前に持ってきました。翳りの奥に見えた彼の目は小さく、誠実そうな澄んだ光を放っていました。ニコライは言いました。
「落ち着いて、ちゃんと思い出すんだ。自分自身でしっかりと思い出さないといけない。そうしないと戻してあげられない。ゆっくり息を吸いなさい。ゆっくり息を吐きなさい。君の身に何が起こったのか思い出しなさい」
ニコライの言葉は風のように私の体を震わせました。目の前からニコライの大きな顔が消えて行きます。代わりにオレンジ色の電灯に染められた、別荘の部屋が立ち現れました。私は絨毯の上にノートを広げ、父の真似事をしてお絵かきをしていました。ノートには子供の私と父と母が仲良く三人で並んだ絵を書きました。母のお腹は大きく膨らんでいます。もうすぐ弟が生まれるのです。自分の描いた絵を眺めているうちに、母から言われた言葉を思い出しました。母はとても真剣に語りかけていましたが、難しいことを言われ過ぎて全部は覚えきれませんでした。ただそれでも、私と弟は血の繋がった兄弟だということ、私と弟は母の子供だということ、しかし弟と父は血が繋がっていないこと、ユウスケおじさんが私の新しい父親になること、それだけは理解することができました。
ユウスケおじさんが新しい父親になるのなら、と私は家族三人の並ぶ隣にユウスケおじさんの姿を描きました。その時です、父が私の部屋に入ってきたのは。
私の絵を見た父は烈火のごとく怒りました。私に馬乗りになり、何度も何度も殴りつけました。そして両手で私の首を締め始めたのです。逆上した父の目は正気を失っていました。
「やっぱり、お前も俺の子供じゃない。お前も俺の子供じゃない。お前も俺の子供じゃない。お前も俺の子供じゃない。お前も俺の子供じゃない……」
私は父の子供でした。私は確かに父を恐れていましたが、同時にかけがえのない肉親としての思慕の念を抱いていました。父の生活能力が破綻し、精神が不安定になっていったのと、母とユウスケおじさんが関係していったのは、どちらが先とも言えぬ同じ車の両輪のようなものだったのかもしれません。
父は真っ赤になって私の首を絞め続けていました。見開いた目からは止め処なく涙が流れていました。父の目からも、私の目からもです。
私は一言、彼に伝えたかった。
「僕はお父さんの子供だよ」
どうして分かってくれなかったのでしょう。私の喉を圧迫する父の大きな手が邪魔をして、その言葉はついに父には伝わりませんでした。オレンジ色の電灯が照らす部屋の中で、私の意識は滑り落ちるように無くなっていきました。
すべてを思い出した私に、スネグーラチカが父の居場所を教えてくれました。父は別荘の庭に駐めた車の中で死んでいました。車のマフラーに大量の雪を詰め、排気ガスによる自殺を図ったのです。あの雪に埋もれた車の中で、息子を手に掛けた父は孤独に死んでいたのでした。
ニコライの大きな手が私を抱き寄せました。
「君が亡くなったのはクリスマスの夜だった。だから私の力で君をもう一度向こうに戻すことができる。……さあ行こう」
小屋の裏手にあったあの大きな橇に八頭のトナカイが繋がれました。ダッシャーの姿もそこにありました。ニコライは白い大きな袋を手にしています。
「この袋の中に入りなさい。後はただじっと待っていればいいんだよ。恐れずにね」
私は思い切って飛び込みました。中は暖かで心地よく、不安など一切ありませんでした。スネグーラチカの声がします。
「さようなら。私は春になったら溶けてしまうから、もう会えないけど。あなたは元気でね」
彼女はそう言って袋の向こうから手の平を押しつけてきました。私も袋の内側から自分の手の平を彼女の手の平に合わせ、強く押し返しました。
「では、出発だ」
ニコライの号令でトナカイの引く橇が動き出したのが分かりました。私は袋の中でゆっくりと待ちました。本当にただじっと待つだけで良かったのです。それは至福とも言える時でした。
一週間ほど経った頃でしょうか。私はもう一度母の子供として生まれることができました。かつて起こった悲劇のことを、母も、ユウスケ父さんも、黙っています。しかし私はずっと覚えていました。もう、あの別荘に家族で向かうことはありませんでした。
ですが、成長した私は年に一度、こうしてクリスマスの夜にひっそりと、花を手向けにやってくるのです。
オモテ12月「ニコライ」(5)/文・丘本さちを
cover design・仲井希代子(ケシュ ハモニウム × ケシュ#203)
*『カレンダーストーリーズ』とは…"丘本さちを"と"毎月のゲスト"が文章やイラスト、音楽などで月々のストーリーを綴っていく連載企画です。第一月曜日は「オモテ○月」として丘本の短編小説が、第三月曜日は「ウラ○月」としてゲストの物語が更新されます。
※2016年 10月の更新をもって『カレンダーストーリーズ』の連載は終了しました。お読みいただいた皆様ありがとうございました。
丘本さちを(おかもと さちを)…映像プロデューサー、週末小説家(2015年12月現在)。大手CMプロダクション、出版社勤務を経て現在フリーランス。映像制作業に勤しみつつ、精力的に小説や歌詞などの執筆活動を行う。第5回新脈文芸賞受賞。既刊本に『往復書簡 傑作選』『続・往復書簡 傑作選』(共に仲井陽との共著、ケー出版)がある。謎の集団ケシュ ハモニウム創設メンバー。愛称は”さちを”。物静かだがフレンドリーな対応に定評あり。
●ケシュ ハモニウム(問い合わせ)
Web → http://www.kesyu.com
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