『カレンダーストーリーズ』オモテ3月「三月の神隠し」 【掌編小説】作:丘本さちを
三月になると私は神隠しに遇う。季節の変わり目は空気が入り交じるから、冬のシベリア気団と春の揚子江気団の間に挟まれて、私の体は世界の裏側へと滑り込んでしまうのだ。
季節の間の世界はとても静かだ。あまり風も吹かないし、音も響かない。空には小動物のようにうずくまった雲がぽつりぽつりと浮かんでいるだけ。口笛を鳴らせばどこまでも響いていく。半日もすれば地球を一周して頭の後ろから聞こえてくるくらいだ。
私はこの世界が好きだ。空に投げたボールが落ちてくる直前の、宙に静止した無重力のようなこの世界が好きだ。芽吹いたばかりの草の上に寝転がって、昼食のサンドイッチを頬張りながら本を読んでいる。マスタードをたっぷりと塗ったパンに新鮮なレタスとハムを挟んである。私は少し早起きしてそれを作ったのだ。自分の楽しみのためだけに。
神隠しにあっている間、私は私自身のことだけを考えればいい。私と季節の間のこの世界、向かい合うその関係だけを感じていればいい。レストランで相席になった見知らぬ客同士のように。ビールがあってもいい。アルコールは少しばかり人生の意味をごまかしてくれるから。
神隠しの日々は誰にでも訪れる。しかし、訪れたことに気がつくかどうかは別問題だ。五感をニュートラルに保ち、かつて信じていた良きものを信じること。そうすれば誰もが神隠しに遇える。
こっちへ来てみないか。足下の砂が全て海流に掬われてしまう前に。
オモテ3月「三月の神隠し」/文・丘本さちを
cover design・仲井希代子(ケシュ ハモニウム × ケシュ#203)
*『カレンダーストーリーズ』とは…"丘本さちを"と"毎月のゲスト"が文章やイラスト、音楽などで月々のストーリーを綴っていく連載企画です。第一月曜日は「オモテ○月」として丘本の短編小説が、第三月曜日は「ウラ○月」としてゲストの物語が更新されます。
※2016年 10月の更新をもって『カレンダーストーリーズ』の連載は終了しました。お読みいただいた皆様ありがとうございました。
丘本さちを(おかもと さちを)…映像プロデューサー、週末小説家(2016年3月現在)。大手CMプロダクション、出版社勤務を経て現在フリーランス。映像制作業に勤しみつつ、精力的に小説や歌詞などの執筆活動を行う。第5回新脈文芸賞受賞。既刊本に『往復書簡 傑作選』『続・往復書簡 傑作選』(共に仲井陽との共著、ケー出版)がある。謎の集団ケシュ ハモニウム創設メンバー。愛称は”さちを”。物静かだがフレンドリーな対応に定評あり。
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