『カレンダーストーリーズ』最終月 13月「パズルの獣」【掌編小説】
その獣はジグソーパズルが大好きだった。小さな手でピースを掴んでつなぎ合わせていくんだ。もちろん獣だからね。わかってなんかいないよ。ぐちゃぐちゃだよ。ひとつひとつ根気よくくっつけて、ピースとピースを探し当てる。エサの時間も忘れて没頭するんだからね、大したものだよ。
そうだなあ、普段は百ピースとか、多くても三百ピースくらいのやつを与えてやるんだけどね。その日のわたしは少し意地悪な気分だった。仕事もうまくいっていなかったし、妻とも喧嘩していた。いま思い返せばささいなことだけどね。その時はなんだか腹に据えかねていてね。堪らなかったんだ。
わたしは物置代わりにしている客間から一万ピースのジグソーを持ち出してきて獣に与えてやった。むかし気紛れで購入したんだ。ダ・ヴィンチの最後の晩餐が描かれているものでね。もちろん、わたし自身だって完成させられなかった。もし完成したら両手を広げてもまた足りないほどの大きさになるよ。飾る場所にも困る。一度箱だけは開けてみたけどね。そのまま仕舞い込んでいたんだ。
床にピースを撒くと、獣は飛びついた。一心不乱にピースの山をかき分けて、ああでもないこうでもないと試していくんだ。その姿が滑稽でね。百ピースのパズルだってあいつが完成させられることはほとんどないよ。獣は何日も何日もいちピースずつ不器用に試していくんだ。その間に痩せ細ってふらふらになる。目玉なんて真っ赤になって飛び出してくるんだ。もう死ぬ一歩手前って感じだよ。ふふ。
一万ピースのパズルの複雑さは百ピースに比べて天文学的に高くなる。頭の鈍い獣がひとつひとつ当てはまるピースを探していくのに、一体どれくらいかかることか。たとえ十年かかっても無理だろうね。しかしあれだね。寝食を忘れてパズルに没頭する獣の姿を眺めるというのは、時に哲学的な気分させられるね。わたしたちには自明のことでも、獣はまったく気がつかないんだ。たまたまキリストが描かれている部分が集まっていたから、まとめて獣のそばに放ってやったんだけどね。あいつときたらまったく気がつかずにバラバラにしてしまったよ。もう笑うしかないね。愚かなことは罪であり罰でもある。生きる上での苦役だね。そう思うよ。
二、三日たった頃かな。書斎に入ると、獣は床の上でぐったりと動かなくなっていた。正直なところ、書斎にはまったく足を踏み入れてなかったんだよ。獣のことなんてすっかり忘れていた。わたしだって仕事も忙しいし、妻のご機嫌を取るために高価なディナーにいかなくちゃいけなかったりするからね。パズルはこれっぽっちも出来ていなかったよ。飲まず食わずやって、成果はゼロ。獣自身は死にかけている。まったくもって、何なんだろうね、これは。不毛なことこの上ないよ。
仕方がないから、使用人を呼んでミルクを飲ませてやった。はたして獣にミルクを与えていいかどうかなんて知らないけどね。他にやりようがないだろう。流し込めるものがそれしかないんだから。
しばらくして獣は目を覚ました。そしてふらふらとまたピースの山に向かっていった。それを見たわたしの気持ちはどう言ったら伝わるんだろうね。もはや憐れを通り越して勘弁してくれという感じだったな。獣の世界には分相応という概念はないんだろうね。もちろん挑戦するのは獣の勝手だけれども。
わたしは書き物の用事があったので、書斎の机に向かうことにした。すぐに終わると思ったんだが、これが意外と時間が掛かってしまってね。筆のすべりをよくしようとバーボンをちびちび嘗めていたんだが、これがいけなかった。わたしはいつの間にかマホガニーの天板に突っ伏して眠り込んでしまったんだ。起きたときには日付が変わるくらいの夜更けになっていた。いけないと思って、慌ててペンを走らせて終わらせた。やれやれ、一息ついて寝室に向かおうというときにも、まだ獣はピースの山を漁っていた。もう取り上げてしまおうかと思ったが、山の脇にいくつかのピースがくっついて並んでいるんだ。わたしは興味をそそられて覗き込んだ。でも違ったんだ。獣は絵柄をまったく無視して、形の合うものを無理矢理に接いでいた。偶然、うまく嵌まってしまったんだな。わたしはそれを鼻で笑い、書斎の扉を開けた。
許されるなら、あの夜に戻りたいと願う。嵐は一夜にして多くのものを奪っていった。
翌日のわたしは多忙を極めた。朝から晩まで人に会い、あちこちに移動していた。秘書の組んでくれたスケジュールは効率的で正確だったが、同時に殺人的でもあった。五分の遅れも許されなかった。食事をするときもコーヒーを飲むときも、誰かと向き合って商談をしていた。運転手は決して道をまちがえないようピリピリと神経質にハンドルを切っていた。家に帰ってやっとネクタイを解いたとき、腹にパンパンに溜め込んでいた空気がいっぺんに抜けていく気がしたよ。もうへとへとだった。そこに妻が小言を言いに来た。やれわたしの選んだソファの具合がどうも良くないとか、週末の予定が決まっていないとか、そんなどうでもいいことだ。わたしは適当な理由をつけて書斎に逃げ込んだ。残っている仕事を片付けるまで開けないでくれよ、と。
書斎に入って明かりをつけると、床一面に幾何学模様の絨毯が広がっていた。頭にきてしまったよ。一体どこの誰が、断わりもなしにわたしの書斎を模様替えしようとしているのか。妻の気紛れだろうか。片付けねばならない。使用人を呼びつけようとして思いとどまった。視界の端にうごめく、あの獣の姿を見つけたからだ。その瞬間に気がついた。わたしが絨毯だと思っていたものは、あのジグソーパズルだったんだ。
獣の手にはひとつのピースが握られていた。そして獣はそのピースをゆっくりとモザイクのように乱雑に組み合わされた模様の隅に加えていった。信じられないことだが、それは最後のピースだった。一万個のジグソーパズルの、最後の一個だ。
パズルは完成していた。整った長方形が書斎の床の上に現れていた。しかし、ルネサンスの巨匠の名作の姿はどこにも見当たらなかった。ただテレビの砂嵐ようにぐちゃぐちゃと掻き乱された模様がそこにはあった。
わたしは落ち着く必要があった。早鐘のような鼓動を鎮め、どこかへ行ってしまいそうな理性をつなぎ止めておく必要があった。昨夜のバーボンの壜がまだ机の上にあった。わたしはその壜を手に取り、蓋を開け、あおった。流れ込んだ液体がわたしの喉と胃を焼いた。アルコールの熱を痛いほど感じた。それで夢ではないとわかった。
さて、わたしの足下にはぐちゃぐちゃになって完成されたジグソーパズルがある。果たしてこんなことが可能なのか。──結論から言えば、あり得ないことはない。本来は組みにならないはずのピースとピースを接いでしまうのは、よくあることだ。形が偶然合致してしまうのだ。ただし、パズルを進めていく内に破綻をきたすのがオチだ。どうやっても残ったピースが嵌まらなくなる。極めて、極めて低い可能性によってそのまま完成できてしまうということもあるかもしれないが──。一万個のピースがこうも破滅的に組み合わされることなど、あり得ない。
書斎に不気味な音が響いた。わたしはそれが生き物の声だと理解するのに時間がかかった。ヒキガエルを車で潰したときのような──グェ──という声だった。あの獣から漏れてきたのだ。わたしはそのとき初めてあいつの鳴き声を聞いた。
──グェ──
獣は真っ赤に飛び出した目でわたしを見つめていた。
──グェ、グェ、グェ──
獣の足下にはもう一つの小さな幾何学模様が広がっていた。以前わたしが与えた百ピースの小さなパズルだった。それもぐちゃぐちゃになって完成されていた。
──グェ、グェ、グェ、グェ、グェ──
獣は苦しそうにわたしを見つめて鳴いていた。その呻きはいやに耳に残り、胸の奥に不快な感情の塊を発生させた。わたしはこの異様な状況に混乱をきたしていた。いや、正直に言うとしよう。わたしは怯えていた。
獣はいまにも息絶えそうなほど衰弱していた。血走った眼球は飛び出し、あばら骨が浮き出るほど痩せ細り、どこか神経がおかしくなったのか歯車の壊れた機械のようにずっと震えていた。だらしなく舌が垂れ下がり、口元から据えた臭いのする体液が滴り落ちていた。獣はわたしに向かって一歩、また一歩と近づいてきた。ぐちゃぐちゃに完成させたパズルを踏みしめながら。
それ以上近づくことは許さないぞ。わたしは獣に向かって鋭く怒鳴りつけていた。
来るなというのがわからないのか。低脳で愚かな畜生め。止まれ。止まって自分の足下をよおく見ろ。そこに敷き詰められた無意味な欠片たちを。お前は自分が何かを成し遂げたとでも思ったのか。その空虚な精神に幾ばくの誇りが生まれたとでもいうのか。わたしがそれを認めるとでも期待したのか。お前のしでかしたことはまったく無価値の行いだ。お前がつくりあげたのはまったく愚昧なタブローだ。自らの生命を削り、時間を浪費し、ただ自らの浅ましい欲望を満足させるために、自慰行為に耽った結果なのだ。お前にはそれを恥じる知性もないのか。呪われろ、愚かな獣め!
わたしが声を荒げても獣は歩みを止めなかった。もうとっくに耳など聞こえていなかったのかもしれないが。
気がつくとわたしは再びバーボンの壜を鷲掴みにし、獣の頭めがけて思い切り振り下ろしていた。
その夜。わたしは不吉な予感に胸ぐらを掴まれて起こされた。寝室の暗闇が濃く、天井からどろりと溶け出している気がした。まるでゴムのりか何かのように。隣で寝ている妻の寝息が聞こえた。彼女はおだやかな夢の世界にいるようだった。わたしの頭は割れるように痛かった。喉も渇いていた。寝間着は汗でぐっしょりと湿り、興奮した神経が心臓を意地悪く小突き続けていた。
わたしはシーツの中から右手を伸ばし、手探りでベッドライトのスイッチを求めた。灯りを点け、サイドテーブルに置いてある水差しから水が飲みたかった。だが、どれだけ手を伸ばしても指先には何も触れてこなかった。
しばらくわたしは暗闇をまさぐり、やがて諦めた。妻を起こさないようにベッドから這い出し、壁にある天井灯のスイッチを目指して歩んでいった。妻が寝返りを打ったのだろう、背後からシーツの擦れる乾いた音が聞こえた。静寂の中で、その音は張り付いたように耳に残った。部屋の中はやけに蒸し暑い。空調はきちんと入っているのだろうか。
不意に、わたしは爪先をしたたかに打ちつけた。まったく油断をしていたので、かなりの勢いがついていた。呻き声を上げ、襲ってくる痛みをやりすごした後、そこに何があるのか確かめるために手を伸ばした。ざらざらとした木の感触。ドアだった。わたしの頭の中で、小さな疑問が印刷機から排出されるカードのように飛び出してきた。
──どうしてここにドアがある?
距離感も方向もまったく考えられない場所にドアがあった。わたしはベッドから起き上がって、まっすぐに歩いてきたはずだ。なのに何故?
いや、落ち着こう。わたしが寝ぼけているだけなのだ。疲れているし、気分も悪い。ドアを開ければ廊下の常夜灯の光が差し込んでくるだろう。わたしは再び暗闇を手探りしてドアノブを探した。パントマイムを披露するピエロのように、わたしはしきりにドアの表面に手のひらを這わせた。しかしドアノブは見つからなかった。そんなもの元から付いていないかのように存在が失われていた。そこには無言の分厚い板がただ立っているだけだった。しばらくの間、わたしは言葉を失った。
「おい」わたしはベッドの上の妻に向かって叫んだ。「おい、電気を点けてくれないか。水が飲みたいんだ」。わたしの声は上ずっていた。口の中が渇ききっていたのと、この奇妙な状況がわたしに不安をもたらしているのだ。返事がなかったので、何度も繰り返した。おい。おい。おい。しかし妻は何も答えなかった。寝返りを打つ音すら聞こえてこない。妻はまるで溶けたバターように忽然と気配を消してしまった。わたしは回れ右をして、ベッドに戻ることにした。もういい、眠ろう。眠って一刻も早く朝を迎えよう。わたしは両手を前に突きだし、恐る恐る暗闇をもと来た方向へ歩んでいった。今度は重量と弾力のある物体にぶつかった。果たしてこれは何だろうか。手探りで確認するとそれはソファだった。わたしの選んだ革張りのソファだ。間違いない。間違いないが、どうしてリビングに置いてあるソファがここにあるのだろうか。わたしはソファを迂回し、先へと進んだ。しかし、どれだけ進んでも一向にベッドには辿り着かなかった。部屋の中が何メートルも引き延ばされてしまったように感じた。味のなくなるまで噛んだチューインガムのように、だらしなく空間が伸びきっている、そういう感じがした。歩いても歩いてもどこにも辿り着かない。踏みしめていたカーペットの長い毛足の感触が途切れた。代わりに冷たく硬い床の存在が足の裏に伝わってきた。一体わたしはどこを歩いているのか。
熟知しているはずの家の中が得体のしれない空間に変貌していた。喉の渇きが耐えがたいほどひどくなっていた。舌の先まで涸れてしまったようだった。
──グェ──
遠く遠く、あるはずのない遠くの闇の向こうから獣の鳴き声がした。わたしは声の聞こえた方向から遠ざかろうと後ずさりをした。腰に何かがぶつかり、ガラスの砕ける音と液体のこぼれる音が響いた。きっとサイドテーブルと水差しだ。さっきまでは何もなかった。わたしはいまそこを通り抜けてきたではないか。夢か、酔っているのか。それともわたしは狂ってしまったのか。
割れたガラスを踏まないように慎重に足を運んだ。どこに行こうとしているのか、わたし自身にも分からなくなっていた。ベッドか、この寝室からの出口なのか、それともあの鳴き声の元へなのか。わたしは暗闇の中で、何度もあるはずのない壁にぶつかり、本棚に突き当たり、木の板と化したドアをいくつもいくつも発見した。混沌の竜巻に部屋中が掻き乱されていた。どこに行けばこの状況が終わるのか、答えが分からなかった。
そしてわたしは奇妙なものを踏みつけた。柔らかいクッションのようなものだった。かがみ込んで両手で触れてみるとそれは温かかった。人間の肌にそっくりの感触がした。わたしは息を飲んだ。その皮膚のような表面から、妻のものと同じ、ウェーブがかった長い髪の毛が生えていたからだ。いつもねだられて撫でている、あの妻の髪の毛の感触に間違いなかった。凍り付いた背骨の中を通って、絶望的な心情がこみ上げてきた。わたしの精神は恐怖し、半ば麻痺しようとしていたが、わたしの指先は返って好奇心に飢えた猫のように暗闇のその物体を手探りしていった。その物体は人の体をぐちゃぐちゃに組み替えたような形をしていた。あるはずのない場所から手足が突きだし、指はまた別々の場所から、胞子をまき散らして増殖したキノコのように一本ずつバラバラに生えていた。体毛はまだらに茂り、骨格は影も形もなく、ただ肉の内側にかすかに細かく砕かれた砂利のような感触があった。そしておぞましいことに、その肉の塊は脈を打っていた。生きているのだ。
小さな足音が近づいてきていた。足音はわたしを中心にしてぐるぐると回っているようだった。
──グェ、グェ、グェ──
真っ黒な虚空にあの鳴き声が反響し、鋭い爪か牙がわたしのふくらはぎに突き立てられた。電気を通されたような痺れと痛みが体の隅々まで広がった。
その後のことは覚えていない。わたしは書斎で目を覚ました。翌日の新聞に出ていた見出しのことは君も覚えているだろう。〈資産家宅、強盗に襲わる〉。家の中は荒らしに荒らされ、妻は見るも無残な姿になって発見された。はたして意識が回復するかどうか、まったく分からない。犯人はいまだに見つかっていない。あの獣の死骸もだ。
あの夜からわたしは変わってしまった気がする。自分とはまた別の存在が体のなかに棲み着いている気がする。わたしの喉の奥から時折、あの鳴き声が漏れてくることがあるんだ。トラウマによる幻聴だと自分には言い聞かせているんだがね。そうもしないと耐えられないんだよ。
──グェ──
最終月 13月「パズルの獣」/文・丘本さちを
cover design・仲井希代子(ケシュ ハモニウム × ケシュ#203)
*『カレンダーストーリーズ』とは…"丘本さちを"と"毎月のゲスト"が文章やイラスト、音楽などで月々のストーリーを綴っていく連載企画です。第一月曜日は「オモテ○月」として丘本の短編小説が、第三月曜日は「ウラ○月」としてゲストの物語が更新されます。
※2016年 10月の更新をもって『カレンダーストーリーズ』の連載は終了しました。お読みいただいた皆様ありがとうございました。
丘本さちを(おかもと さちを)…映像プロデューサー、週末小説家(2016年10月現在)。CMプロダクション、出版社勤務を経て現在フリーランス。映像制作業に勤しみつつ、精力的に小説や歌詞などの執筆活動を行う。第5回新脈文芸賞受賞。既刊本に『往復書簡 傑作選』『続・往復書簡 傑作選』(共に仲井陽との共著、ケー出版)がある。謎の集団ケシュ ハモニウム創設メンバー。愛称は”さちを”。物静かだがフレンドリーな対応に定評あり。
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