カレンダーストーリーズ_表紙

『カレンダーストーリーズ』オモテ7月「雷を見にいく」【掌編小説】作:丘本さちを

 その日は地球の上に何回目かの夕闇が訪れた日だったと思う。

 偽物じゃ無い、本物の夏の夕闇のことだよ。大げさにいうとね。そうだなあ、まだ7月の内。学校がまだ夏休みに入るか入らないかってころだったと思うよ。温度計が少し背伸びをし始めた頃さ。

 雨が降りそうで、でも降らない。湿気がやけに纏わり付く。じんわりと灯った水銀灯の光が、まだ熱のこもったままのアスファルトをひんやりと照らしていく。硬質でよく冷えた光さ。地面から静かに立ち昇る水蒸気(もちろんそれは透明で目に見えない。目に見えないままゆらゆらと立ち上っている)、南からびゅうと吹く風には草いきれが混じっていてね、水田に並ぶ青い稲が儀式みたいに揃って揺れている。水分をいっぱいに蓄えた黒い雲が、昼間の爽やかだった青空にどんどん蓋をしていく。ハロー、グッドイブニング、Mr.Robert Reroy Jhonson。いい夕暮れですね? 十字路で悪魔にばったり出会いそうな。

 どうだい? 何だかどきどきしてこないか? それが本当の夏の夕闇の証拠だよ。夏っていうのは、他のどの季節よりも近くに来て、他のどの季節よりも遠くに行ってしまう不思議な奴さ。ハロー、グッドバイ、Mr.Summerdays。なんてね。

 前置きはこれくらいにして、そろそろ話を始めようか。あれはまだ俺が小さかった頃。夏の始まりに焦がれ、夏休みの終わりを恐れていた頃、善きものと悪しきものがあれば善きもの信じ、財布の中身なんてこれっぽっちも心配なんかしていなかった頃の話だ(今では信じられないな)。

 俺は雷を見にいこうとしていた。それは友達との約束だったんだ。



 俺が育ったのは小さな地方都市でね。まったくもって平凡で退屈な町だった。町の人々はみんな自動車に乗っていて、ぶうぶうとアクセルを踏んで走っていた。バイパスを猛スピードでみんながすれ違う。サーカスみたいな光景さ。

 自動車。人類が発明した偉大なる殺人兵器。ユウもそいつの手にかかってね。あっという間に死んでしまった。交差点で悪魔に出会ってしまったんだ。可哀相に、あいつはまだ10才にもなっていなかった。行ったよ、葬式にはね。幸運なことにバラバラにはなっていなかった。傷一つなかったよ。まるで死に神が魂だけ持って行ったみたいだった。頭を強く打ったんだっておばさんは言ってた。指切りをした手は、硬く冷たくなっていてね。

 それは俺が初めて見た死の塊だった。友達の姿をした死の塊だった。小さな子どもの躰に詰め込まれた死の塊だった。ユウは躰の中に死を詰め込まれ、剥製のようになって動かなかった。ユウがいなくなったなんて信じられなかった。だってユウの姿はそこあるのにさ。声すら出さないなんてな。子供の頭と心じゃまったくもって受け止めることができなかった。

 俺は家に帰ってひとしきり泣いた。ベッドに突っ伏してわんわん泣いた。泣いたってどうにもなるもんじゃない。でも、泣いた。泣き続けた。神様にお願いもした。友達を生き返らせてください、何でもしますからってね。そして、誰にもどうにもならない時間がただゆっくりと過ぎていった。ベッドカバーはぐっしょりと濡れ、俺はその湿った布地に頬をつけてじっと動かずにいた。

 夏の気流が、雲を生み出していた。田舎の地方都市は大きな大気のうねりの中にあった。子供の世界は小さい。故郷の町のその先は、きっと古代の人が考えた世界のように断崖絶壁が続いている。風も雲もその向こう側からやってくる。この町にある道のどこか一本だけが、先へ先へと続いている。ユウはその道を通ってここではない町へいったのかも知れない。子供の俺はそう思った。開けっ放しだった窓の向こうから、遠い雷の音が聞こえてきた。レースのカーテンが誘うように(あるいは「いってらっしゃい」と言うように)ひらりと揺れた。

 気がつくと俺は自転車にまたがって、鉄のような雲の下を進んでいた。何も考えず、ただペダルを漕いでいた。たんぼ道はどこまでも真っ直ぐで、目に映るあらゆる景色から夕立の気配が漂っていた。日没はまだまだ先だというのに、空はどんどん暗くなってくる。もうすぐ槍のような雨が降り始めるだろう。空に二度目の雷鳴が轟いた。

 「二人で雷を見にいこう」。約束はもう決して果たせないことは分かっていた。いくら子供でも、もちろんそれくらいは分かる。でも、人は理解できることを耐えられるとは限らない。それはまったく別の話さ。

 光が弾けた。鉄の雲の間を閃光が駆け抜けた。まっすぐな、鋭い、矢のような閃光。その刹那、俺はぐっとペダルが重くなるのを感じた。誰かが自転車の後ろに飛び乗った。そう思った。

 風の音に混じって、よく知った声が聞こえてきた。

「振り返らないでくれよ。振り返ったらいかなくちゃならないから。それは嫌だよ。雷を見にいきたいからさ」

 夢だろうか? 幻だろうか? 夢だったら儚いし、幻だったら切ない。世界の向こう側から来た存在に、戸惑いを感じなかったといえば嘘になる。でももし本当だったなら?

「どうしたんだよ。二人で雷を見にいくんだろ?」

 よく知った声は俺を諭すように言った。あるいは俺に懇願するように言った。ユウは後ろから俺の両肩をつかんできた。体に染みついた、慣れた二人乗りの感触。俺たちはいつもの俺たちだった。俺は笑った。馬鹿みたいに笑った。嘘みたいに笑った。それはユウも同じだった。通り過ぎる学校の校舎からブラスバンドの練習が漏れ聞こえてきた。旅人を祝福するような金管と木管のハーモニーだった。

 俺たちは二人でたんぼ道を走り続けた。行く当てなんてなかった。ただ雲の集まる北の空を目がけて進んでいた。その時のユウはやたらとお喋りで、下らない冗談を飛ばしては俺の頭を勢いよく叩いた。

 再び光が飛び散って、俺たちは空を仰いだ。空気を引き裂く音が肌をなぞっていった。

「ここでいいよ。止めてくれ」

 ユウにそう言われて、俺は慌てて自転車のブレーキをキッと握った。そこは水田のど真ん中にそびえ立つ鉄塔の前だった。田んぼ道の十字路の脇に立つ、巨大な送電塔だった。空を渡って遠くまで送電線が続いていた。ずっとずっと遠くまで。何の前触れもなく、目に映る世界の光と影が反転し、爆発音が響いた。膨張した大気の圧を感じた。近くに雷が落ちたんだ。途端に俺は怖くなった。引き返そう。自転車のハンドルを切ろうとする俺の手を後ろからユウが押さえ込んだ。

「もう少し待ってほしい。もう少しだけ」

 ユウは耳元でそう囁いた。その声があまりにも切実だったので、俺は仕方なくその場から動くことができなかった。でもいつまた雷が落ちてくるか知れたもんじゃない。不安で胸がざわついていた。ぽつりと降った一粒の雨が俺の頬を打った。風が水田を大きくなぎ払っていく。やけに静かだった。雲の合間を流れる遠い風の音まで聞こえてくる。そんな感じだった。もう日も暮れようとしていた。

「ごめんな」

 ユウは一言そう口にした。途端、何か直感のようなものが走った。言葉では説明できない直感だ。俺がユウを止めようとして、振り返ろうとした時と、自転車の荷台が軽くなったのはほぼ同時だった。

 鋭い光の柱が目の前に立ち上がった。稲妻が鉄塔を直撃したんだ。俺の体にも凄まじい衝撃が突き抜けていった。頭の先からつま先まで痺れた。声すらもあげられない。心臓が豆粒くらいにまで縮込められた。田んぼ道に並んでいた電灯がいっせいに消えた。まわりの電灯だけじゃない、町中の灯りが一斉に消えていた。停電が町を包んだんだ。

 雷に撃たれた鉄塔はスパークし、先端から真っ赤な火球と真っ青な火花をまき散らしていた。取り付けられた変電設備か何かが燃えていた。その光景は、何か神聖な儀式につかう巨大なトーチが燃え上がっているようだった。すでに恐怖は通り越していた。まぶたを見開いたままの俺の目にその光景はいやというほど焼き付いた。金属の焦げる硫黄のような匂いがした。炎は緑の水田を照らし、電気の青い火花は雨のように地上まで降り注いできていた。

「でもお前との約束は守らなきゃと思ったんだ」

 幻惑的な光景の中、ユウの声が響いた。まるで実体のない処からそれは聞こえてきた。鉄の雲の中を何条もの雷が走っていた。俺は泣いていた。分かったんだ。その時本当に分かったんだ。もうユウには会えないということが。この宇宙が終わるまで会えないんだ。それが分かって悲しくなった。鉄塔の炎は風に吹かれて収束し、周囲は宵闇のベールに包まれていた。雷光が時折、そのベールをはぎ取った。

 ストップモーションのように、真っ直ぐに道の先を歩いていくユウの後ろ姿が見えた。

 雷が光る度にその姿はどんどん小さくなっていった。

 俺は自転車のハンドルを握りしめたまま、友達の去って行った闇の方角を見つめていた。



 その時起こったことが何だったのか、今でもまったく分からない。あの時、確かに「ごめんな」とユウは言った。その意味が一体何だったのか。

 正直なことを言うと、俺はあの時、ユウに連れていかれる気がしたんだ。あいつが俺を一緒に連れていこうとしているんだと直感的に思った。恥ずかしいよ。結果的には俺の邪推だった。ユウはただ俺と雷を見にいくという約束を果たしに来てくれただけだったんだよ。

 ……いや、やっぱり本当のところは分からない。子供の頃も分からなかったし、いい年になった今でも分からない。あれは友達だったのか、友達の姿をした悪魔のようなものだったのか。

 でも、闇の中に現れる度に遠くなっていく、ユウの後ろ姿を見ながら、子供の俺はやっぱりどうしても涙を押さえることができなかった。俺のよく知ったあの後ろ姿は、善きものだと信じていた。

 善きものを無条件で信じる。それは子供の特権だ。誰も邪魔をすることのできない特権だ。俺はそう思う。


オモテ7月「雷を見にいく」/文・丘本さちを
cover design・仲井希代子(ケシュ ハモニウム × ケシュ#203)

『カレンダーストーリーズ』とは…"丘本さちを"と"毎月のゲスト"が文章やイラスト、音楽などで月々のストーリーを綴っていく連載企画です。第一月曜日は「オモテ○月」として丘本の短編小説が、第三月曜日は「ウラ○月」としてゲストの物語が更新されます。

※2016年 10月の更新をもって『カレンダーストーリーズ』の連載は終了しました。お読みいただいた皆様ありがとうございました。

丘本さちを(おかもと さちを)…映像プロデューサー、週末小説家(2015年7月現在)。大手CMプロダクション、出版社勤務を経て現在フリーランス。映像制作業に勤しみつつ、精力的に小説や歌詞などの執筆活動を行う。第5回新脈文芸賞受賞。既刊本に『往復書簡 傑作選』(仲井陽との共著、ケー出版)がある。今秋に『続・往復書簡 傑作選』を刊行予定。謎の集団ケシュ ハモニウム創設メンバー。愛称は”さちを”。物静かだがフレンドリーな対応に定評あり。

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