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なんでもない。〈短編小説〉

 真っ白な空が所々ひび割れて、ゆらゆらと光が流れ出ている。
 早朝からのアルバイトを終え店を出ると、日曜日の河原町通りはすでに多くの人間でごった返していた。最近眠りが浅く、疲れがとれないせいかよく音が鳴るようになってしまった肩を軽く回して、千春は慣れ親しんだ人混みに溶けていった。買い物客や恋人たちで賑わう繁華街を、するすると足早に通り抜ける。千春は通行人の、連れ添う人に向ける表情や歩き方を見たり、他愛ない会話の内容を盗み聞くのが好きだった。その人の全貌までは見えないまでも、その面持ちと声色のギャップを楽しんだり、時折出没する奇抜な服装をした若者に目を奪われそうになったりしながら、いつもの道を真っ直ぐに進んでいった。
 繁華街から2回ほど道を折れ、ほとんど人が通らなくなった路地に、「喫茶 松ノ木」はあった。昭和の終わりごろに、店主である松木が大阪の小さな広告会社を辞め、学生時代から憧れて、ようやく出した念願の店である。しかし切望していたにしては、手作りのかけ看板が軒先に掛かっているだけで、一見の客にはひどく不親切な見た目をしている。ひとたび、中に入れば焦げた赤茶色の落ち着いた木目の壁と、黒松から切り出した一枚板の四席のカウンターと、他には四人掛けのテーブルが三つある。千春にとってはそれが松ノ木を好きになる理由だった。松木が学生時代から趣味で集めていたレコードが店内にかかっていた。小さな、居心地のよい店だった。千春はアルバイト終わりに決まってこの松ノ木に寄って、大学の講義までの時間を使って本を読むのがもっぱらの日課であった。その日も、松ノ木の立て付けが悪くなったガラス戸を、古びた金属と枯れた木の音を立てながら開いて中に入っていった。
「あらぁ、ちぃちゃんいらっしゃい。いつものでいいかしら。」
 松木の妻である光子さんがいつものように迎えてくれた。光子はカウンターに立つ夫に向かって、ちぃちゃんスペシャルひとつゥ、と元気よく伝えた。ちらりと千春を見た松木は、右手を上げ、こめかみに指の先端を軽く付けるようにして千春に向かっての会釈と、妻への了解の旨を伝えた。
千春は決まってカウンターの一番奥にある席に座った。別段こだわりや理由などはなかったが、そこがなんとなく落ち着いて過ごせる場所であった。千春はありがとう。と言って、そうだ、と思い出して光子に尋ねた。
「ミツさん、昨日言ってた手首の調子はどうなん?」
「どうも、なかなか治らなくてねぇ。買い物の時にとっても不便なのよォ。」
 黒いバンドを巻いた左手首を大事そうに右手でさすりながら、ねぇ、と松木の顔を見ると、
「シルバーカーでも買うか。」
と、お湯を注いで膨らみ泡だったコーヒーの粉から目を離さずに、口元をほころばせながら冗談めいて言った。
「いやよォ、ますます老け込んじゃうじゃない。立ち姿だけでも若く見られたいのよ、私は。」
 ミツさんは、腰に手を当て背筋をピンと伸ばしてみせた。もう七十を越えているらしいミツさんの背筋は、街中で見かける若者よりもすらっと真っ直ぐで、バレリーナのように綺麗な姿勢を保っていた。
「確かに、若々しいですねェ。」
 素直に気持ちが口をついて出た言葉に、ミツさんはまんざらでもなく、ありがとォ、と言った。
「ちぃ坊、おまたせ。」
 そう言って松木は、千春の前にシンプルな真っ白のカップに注がれたコーヒーとソーサーに、立方体でうす茶色の砂糖を3つと通常よりも大きいピッチャーになみなみ入れたフレッシュミルクを置いた。これが決まって千春の頼むものであった。
「ちぃちゃんスペシャルお待ちどォ。」
 にこやかにミツさんが言うと、松木はため息交じりにかすかに笑った。
「大仰やなぁ、ただのブレンドコーヒーやないか。」
と付け足した。千春にではなく、千春よりも先に来て、カウンターに座る女性に対して知らせているように思えた。
 女性は近くにある、無愛想な中年の男がやっている、その顔に似つかわしくないほどに整えられた書店の、オリジナルのカバーがかかった文庫本を片手に、見たことのない煙草を吸っていた。コーヒーはほとんど飲み終えていて、灰皿にはかなりの吸い殻が蓄えられていた。千春はその女性の横顔にひどく引っかかる何かを感じた。
「あの人、最近よく来てくれはるんよ、えらい美人さんやろォ。」
 ミツさんがこそっと耳打ちで教えてくれた、が、声が少し大きくほとんど筒抜けだったのか、女性はこちらに時折視線をむけ少し様子を窺っているようだった。
「その本、商店街の角の、本屋さんで買われたでしょう。」
 また言葉がぽんと口をついて出た。気まずかったからなのか、何故あの時彼女にこうやって話しかけたのか、まるでわからない。けれど、確かなのは彼女に話しかけられれば、話題は何でもよかったと、そう考えていたことだった。
「ええ、そうです、このカバーが可愛くて、本の品揃えも良いので。」
 女性は、そのぱっちりとした大きな二重の瞼をまん丸に開いて、戸惑いながら答えた。
「何度か行かれてるんですか、僕も、あの本屋さんたまに行くんですよ。」
 それから千春と女性は、あの本屋でどんな本を買ったか、どんな作者が好きか、ジャンルは、と小一時間話し込んだ。
 お互いの名前を言い合ったのは、それからだった。
 彼女の名前はイズミというらしい。一つに澄みきった、で一澄っていうの、と彼女は少し照れながら教えてくれた。
 なんだか男の子っぽいでしょう、と言った彼女は目線を空のコーヒーカップに注ぎ、手持ち無沙汰そうにテーブルの上の煙草の箱を触っていた。その横顔は、どこか少女のような幼さを感じさせた。
 僕も同じように、千の春で、千春です、と名乗った。
「なんだか、女の子みたいね、羨ましい。」
 一澄はいたずらっぽく笑った。その表情はどこまでも柔和で、そのまま吸い込まれそうな気がして、誤魔化すために少しだけ残っていてさめきってしまったコーヒーを慌てて飲みきって、よく言われます、少し、恥ずかしいんですけど、自分では割と気に入ってるんです、と平静を装って答えた。
「確かに、とってもいい名前だと思う、覚えておくわ。」
 ありがとうございます、と千春が照れくさくしながら応えると、一澄はあっと言って何かひらめいた様子だった。
「私たち、名前を交換したら、もしかしたらちょうどいいのかもね。」
 思いがけない彼女の提案で、千春は、どぎまぎした。突拍子のない、無邪気な少女のような言葉が、胸中で刹那に反芻される。千春の顔を少しだけのぞき込んでから、少し微笑み、彼女はカウンターの上にあるものを片付けて、もう戻らなきゃいけないのと言った。
「じゃあまたね、千春くん。」
 席を立ち、一澄は帰りがけに松の木のイラストが印刷されたコーヒーチケットを一枚ちぎり、ミツさんに手渡した。いつもありがとねェとミツさんがニッコリ笑うと、一澄も微笑んで、また来ます、と言い店を出た。
 すると、ずっと黙っていた松木が、カップやソーサーを拭きながら、にやにやと笑っているのに気がついた。
「ちぃ坊も隅に置けへんなぁ。」
と言うと、ミツさんもカウンターを片付けながらこちらを見ていた。
「高嶺の花やでェ、あの子ォは。」
 千春は、そんな二人の言葉をほとんど聞いてはいなかった。
 彼女が立ち去った後で、外国の煙草の独特な甘ったるい匂いの中で、頭をぼんやりとさせ、柑橘の香りがしたことを何度も頭の中に再現してそれに浸り、一澄が出て行った松ノ木のガラス戸から、白雲を映したどこか気の抜けた街をじっと見つめていた。


 

 それから、僕は以前よりも松ノ木に通うようになっていた。いつも一澄に会えたわけではなかったが、一週間の内に三度ほどは会えた。その度に僕らは、最近何を読んでいるかをつらつらと報告しあったり、仕事やアルバイトの愚痴を言い合ったりしていた。あらかた喋り終えて、彼女がコーヒーチケットをちぎり出すのが、その時間の終わりを告げる合図であった。
一澄はこの近くの映画館でチケットの販売員をしていて、その休憩時間を使って松ノ木に通い始めたという。生まれは埼玉で、高校の頃から京都に住んでいるらしかった。彼女は元々、自分の映画を作りたくて映像を学べる、京都の創立間もない私立大学に進学し、卒業後は少し有名な監督について助監督をしていたと話してくれたが、師の名前を教えてくれることはなかった。
 その後、過労が祟って身体を壊し、夢を諦めて今の仕事に就いたのが3年前だという。
 千春は映画の話をする彼女の顔が特に好きだった。夢を諦めたような人間のする顔には見えず、軽やかに、ガラス玉のように目を輝かせて、年代、ジャンル、洋画邦画問わず魅力を語る彼女は、夢見る少女そのものであった。千春は、ひょっとしたら彼女は諦めてはいないのではないかとも思った。
 それほどまでに映画を語る彼女は美しかった。映画を抜き取ったら、忽ちに生気を失い枯れてしまうと、根拠のない確信を持った。
「千春くんは、どういう映画が好きなの?」
 話題に困った男女の間で交わされる、ありきたりな質問、しかし一澄らしい疑問であった。
「どんなって言われると、少し困りますけど。」
「幸せな映画は嫌い?」
「幸せな映画は……嫌いじゃないですけど、最初から最後までずっと幸せな映画は、つまらないです。」
「なんだかわかるような気もするけど、映画の中くらいは夢見ていたいわ。」
 すっかり話し込んでしまったようで、ぬるい水の入った、汗をかいたグラスの飲み口を、人差し指で何度も何度もなぞっていた。

 
 

 その日は雨が降っていた。天気予報は晴れのち曇りと伝えていたから、傘を持ってはいなかった。河原町通りのアーケードを通って、路地で少し雨に打たれながら松ノ木に入った。一澄はその日初めてテーブル席に座っていて、入ってきた僕を見ると、手招きして呼んだ。
「どうして今日はこっちなんですか?」
 そう聞くと、一澄は当然のように、
「きまぐれよ、どこの席で話したって対して変わらへんでしょう。」
 それにここは大きい窓があって気持ちが良いわ、と付け足して彼女は外の商店街を見やった。
 雨が降り、人の持つ傘が歩く花のように見えた。その風景を無数の雫がなぞっていった。
 千春が一澄のほうへ顔を向けると、彼女はまだ窓の方を向いていた。その横顔は変わらず美しかったが、出会った頃よりも、湿っぽく、漠然とした寂寥感を讃えていた。彼女は窓を向いたまま、ねぇ、と呼びかけてきた。
「千春くんはさ、雨って好き?」
「雨ですか。」
「そう、雨。」
「あんまり……好きじゃないですねェ、洗濯物は濡れるし、自転車で外に出にくくなってまうし。」
 そう言いながら、千春はアルバイトをしている店に近い、野ざらしの駐輪場に置いてある自転車を思い描いて、この雨の中またそれに乗って帰ることに気づき、憂鬱になっていた。
「ふふ、現実的やね、なんかもっと違う言葉が聞きたいなァ。」
 彼女はやっとこっちを向いて、無邪気に微笑んで言った。その顔は以前曇りが晴れないままのように見えた。
 千春は暫く、腕を組んで松ノ木の年季の入った温暖色のランプを見つめて、一澄の求める言葉を考えた。
「……昔、好きな人がいて、意を決して告白したんです。そしたらフラれてしもて、あんまりあっけなくそのやりとりが終わるもんやから、ぽかんとしてしもたんです。その帰り道に、ちょうど通り雨がざぁっと降って、雨に打たれながら走って帰ったんです。でも雨は、歌でよく聴くように、別に心の傷も、今までの感情も全部流してくれなかったから、雨は嫌いです。」
 千春は、ぼうっとしたまま一澄を見つめていた。一澄もまたじっと千春の目をのぞき込んでいた。
 再び雨の音が鮮明に聞こえてきた頃、一澄が堰を切ったように笑い出した。
「本当に、君はリアリストやね。」
 そこでやっと我に返り、余計なことを喋ってしまったと、恥ずかしさがじんわり背筋から昇ってきた。
「でも、千春くんのそういう感性、私、好きやわ。」
 彼女は白い綺麗な歯を見せて、少女のようにころころと笑った。
そしてその日以来、彼女は松ノ木からも、僕の前からも姿を消した。
その後、彼女に関する噂を松ノ木に来た彼女の同僚らしき男達から盗み聞いた。
 どうやら、彼女は職場でうまくいっていなかったようで、僕の耳にはざわざわとした嫌なモノだけが残っていった。
 その男達が言うには、彼女は職を変え東京へと身を移したらしかった。

 僕は、2年後に半年間の就職活動を終えて晴れて就職先が決まった。
松ノ木にその報告に行くと、ミツさんは
「あらァよかったわねェ、ちぃちゃんもいよいよ社会に羽ばたくときが来たのねェ、ねェ、アンタ」
 マスターはいつもと同じ調子でいた。
「もうそんなに時間が経ってもうたか、早いもんや。」
 いつもと違ったのは、少し大きめのカップでいつもの珈琲が出てきて、綺麗にまいたホイップとシロップ漬けの真っ赤なチェリーがのったコーヒーゼリーが出てきたことだった。
「ミツさん、僕これ、頼んでないよ。」
 ミツさんはニコニコ笑ったまま、ピンと背筋を伸ばしてこちらを見ていた。
「鈍い奴やな、就職祝いや、ささやかすぎるけどな。」
 マスターの口調は少し乱暴だったが、どこか機嫌が良さそうだった。
 僕は一言だけ、ありがとう、と言っていつもより珈琲は美味しく感じてコーヒーゼリーはギュッと苦みが詰まっていた。ホイップの甘味と一緒に味わうと、優しさが感じられた。
 いつまでもこの2人がこの店を続けていてほしいと思った。帰り際にミツさんとマスターは店先まで出てきて、僕を見送ってくれた。
「身体には気をつけるんやよォ、何かあったらすぐこっち帰ってくるんやで。」
 マスターは苦笑しながらミツさんの肩に手を置いた。
「いつの間にかちぃちゃんのお母さんになってもうなみたいやな、元気でやるんやぞ。」
 2人は僕が道を曲がるまで、手を振り続けてくれた。

 

 京都を発つ日が来た。4年住んだ家も僕のいた証になるものは何も残っていない。少しの寂しさがあったが、すぐに消えていった。13時発の新幹線に乗って、僕は東京に向かった。夕方頃に着くと、人が呆れるほど歩いていた。あまり人混みは好きではないが、そのうち慣れないとな、と思った。
夕焼けが綺麗な日で、少し歩いてみることにした。京都に比べて、東京の空は少し狭く感じた。人も建物も情報もひしめき合っていて、退屈はしなさそうだ。
 一澄も同じ空を見ているのだろうか。松ノ木から彼女が姿を消してから、探そうと思ったこともあった。会って聞きたいことがたくさんあった。
 最近観た映画は、どこであの本を知ったのか、なぜ煙草を吸い始めたのか、なぜ何も言わずいなくなってしまったのか。けれど、そんな野暮なことはやめようと思った。彼女はきっと、諦めていた夢をまた追いかけたくなったのだろう。そう思うことにした。
 特別な関係になったわけでも、何年間も付き合いがあったわけでもない。 僕と彼女はただ松ノ木の常連であっただけで、なんでもないただの知り合いだ。
 なんでもなかったんだ。
 ぼうっとそんなことを考えながら、少し甘い柑橘類の香りがする煙草を、深く吸った。


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