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【番外編2】腹がへる。——『さよならデパート』事件簿

舟に乗ってみることにした。

『さよならデパート』を読んでくださった方ならご存知だと思うけども、序盤は「最上川」を中心に物語が展開する。内陸各地の産物を舟に積み、河口まで下して交易をしたというやつだ。

それで栄えた山形が、明治維新をきっかけに暗転するところに序盤の盛り上がりが、と言っては昔の人に悪いけども、興味深いポイントがあり、私個人としても最上川に惹かれていった。

「大石田」という町の、船着場跡に立って川の流れを見つめたこともある。天気の悪い日だった。傘を持参しておらず、額から顎に雨を垂らしながら雄大な川を眺めた。

薄暗い川べりに、かつての商人たちの姿を重ねてみる。親方が若い者をどやしながら、船荷を抱えている光景が浮かんだ。勝手な想像だけども。
ふと、地元のおじいさんが眉をひそめてそばを横切っていったので、そそくさと車に戻った。

——実際に舟に乗ってみよう。
そう思うまでに時間はかからなかった。

山形県内には、いくつか「最上川舟下り」の体験ができる場所がある。
地元生まれの悪いところで、そういった観光客向けの行楽にはこれまで全く興味がなかった。車で最上川沿いを走っていた時に、のろのろと川面を進む舟をたまに見かけたことがあったけど、「あんなのに誰が乗るのかね」くらいに思っていた。申し訳ない。何て極悪人だろう。

だけど舟下り文化の背景を知ってしまうと、乗ってみたくてたまらない。
特に「三難所」だ。最上川には、流れが急だったり底が浅かったりで、舟にとって脅威だった箇所があるという。昔は何艘もの舟が三難所で破壊され、その役目を失ったそうだ。
そこをくぐり抜ける体験が、村山市でできるのだ。

何てエキサイティングなんだ。もはやUSJじゃないか。
夏休みの時期が来たので、妻と娘を誘って出掛けていった。
受付を済ませ、出発の時間まで待合所に座る。私たちの他にも何組か家族連れや友達グループが集まってにぎわっていた。

——あんなのに誰が乗るのかね。
かつての私を思い出し、再び恥じ入った。
スパイダーマンのアトラクションくらい大人気じゃないか。

やがてクルーの合図に従って、3分ほどの道のりを舟まで歩いた。
私たちは列の後方に居たので、ほぼ最後に乗り込む格好になる。客用の椅子が設置されているのだけど、ざっと見回すかぎり3人並んで座れる所はもう埋まっているようだった。

「妻・娘」と「私」に別れて座ろう。そう判断した瞬間、前方から声が聞こえた。

「コッチニスワッテ、イイデスヨ」
40歳前後だろうか。黄色がかった髪の外国人が立ち上がる。
屈託のない笑顔で、それが当たり前のように彼はさっと席を移った。余りにスマートな一連が、私たちを恐縮も遠慮もさせずに3つ空いた椅子に導いた。

彼はどうやら、日本人と結婚してこちらに住んでいる外国人らしい。
妻と子、それから義理の両親と山形観光に来たようだ。私たちと同じく、子どもの夏休みに合わせてだったのだろう。

名は「カール」。
聞いたわけじゃないけど、雰囲気的にいかにもカールといった感じだった。

空けてくれた椅子に座って改めて頭を下げると、カールだけでなく彼の家族も爽やかな笑顔を返してくれた。善人の集まりだな、カール一家。

総勢15人ほどを乗せて、いよいよ舟が動きだした。
夏の日差しが、青空ときらきら光る川面との両方から浴びせられる。当然ながらモーターもクーラーもない。
船頭さんの話と船体のきしみとを聞きながら、私は額をぬらす汗をぬぐった。次第に、視界がかつての商人と同化していった。

異変が起こる。
出発から15分ほど過ぎていただろうか。
もうすぐ三難所の一つ目が見えてくるという頃だった。

女性の、ややかれた声が客席から発せられた。
「あの、すみません」
訴えは、船頭さんに向けられているようだった。

滔々と流れていた解説が止まる。
船頭さんの視線が川から女性へと移動した。

「熱中症みたいで」
その言葉は、船頭さんだけでなく乗客の全員に緊張感を走らせた。
確かに一人、客席で上体を折り曲げている。
カールだった。

船頭さんを呼んだのは、彼の義母だろう。
「この辺で降りられませんか」と、慌てていたからに違いないけども割と突飛な発言をした。
状況は川の真ん中。岸は草だらけ。その向こうにはポツポツと民家の屋根が見えるだけだ。

——ここで降りて、どうするんだろう。
白かった肌を真っ赤にしてうなだれるカールでさえ、そう思ったはずだ。

「事務所に連絡します」
それが船頭さんの判断だった。
カールの前に座る20代くらいの女性グループが、彼に何かを手渡している。どうやら凍らせた水の入ったペットボトルを持っていたらしい。受け取ったカールはそれを首の後ろに当てた。

適切な処置だったのだろう。
しばらくすると、カールは前屈みではあるものの、景色に目をやるくらいには回復してきた。
全体に安堵の空気が流れようとしていた。

「出発地点に救急車を呼んだそうです」
船頭さんの一言に、カールの義母が明らかな動揺を見せた。
何せカール本人は、ちょっと冷やしたくらいで元気になりつつあるのだ。
「いえ、大丈夫みたいです」
義母は上ずった声で返すけども、「万が一のことがあっては大変ですから」と極めて真っ当な船頭さん。
そのやりとりに、カールも体調不良とは別の理由で体を縮ませた。

舟の先が、ゆっくりと来た方角を振り向く。
「ちょっと飛ばしますよ」
船頭さんの合図で、豪快なモーター音が響き渡る。
舟の爆走が始まった。

逆再生の景色、ほてった肌をなでる風、申し訳なさそうに周りに頭を下げるカール、きょろきょろする義母。
舟はさっきまでさんざん漂わせていた江戸時代の情緒を蹴散らして、機械文明の登場を叫んだ。

ほどなくして出発地点が見えてくる。
確かに、救急車の姿があった。
船着場には救急隊員とたんかが待っている。カールはすでに肌の色をほとんど元通りにしていて、むしろ義母の方が病人みたいで気の毒になった。娘の夫を心配して焦っただけなのに。

カールはみんなの手前か、何となくさっきより具合が悪くなった雰囲気を出しながらたんかに横たわり、大きな棒みたいになって運ばれていった。
彼らの家族もそれに付いていき、他の家族も船酔いしたとかで降りてしまったので、2度目の出発はがらがらの客席で迎えることとなった。

トラブルはあったものの、三難所の厳しさを実感して工程を終えた。
知識だけがあるのと体験したのとでは文章も変わるはずだ。私は満足していた。

せっかく村山市まで来たのだからと、昼食は名物のそばにしようと近くの店へ向かう。いわゆる「田舎そば」、黒くて太くて硬いそばが有名な所だ。
観光客もだいぶ戻ってきたのだろう。ほぼ席が埋まっていた。

「板そば」を2枚注文する。
山形の板そばは、一般的に1.5〜2人前といったところだろうか。とはいえ大人二人で板そば1枚、ということはあまりない。ラーメンで言えば「大盛り」を頼むのに近い感覚だ。
当時、娘は小学1年生だったので、板そばを2枚頼んで3人で食べるくらいがちょうどよかった。
店内の混雑具合からしばらくかかるだろうと覚悟して、お茶を口にしつつ雑談で時間をつぶした。

私たちが座って満席だったらしく、玄関には待ちの列ができ始めている。
席が片付くと順番に客が通されるけども、私たちのテーブルにまだ板そばは来ない。そうしているうちにまた席が空いて、行列の先頭が中に案内された。

その瞬間、私たちははっとして顔を見合わせた。
近くの席に通された5人の集団は、カールたち家族だったのだ。

こちらに気付いた様子はない。
カールは妻子と義理の両親から囲まれるようにお誕生日席に腰を下ろし、楽しそうにお品書きに目を走らせる。やがて近くを通った店員さんを呼び止め、注文の品を読み上げた。

「皆さんで板そば5枚だと、結構多いですよ」
店員さんの声がこちらまで聞こえてきた。

思わず私の焦点がそっちに引っ張られた。
おいカール、何いっぱい食おうとしてるんだ。

舟の上で背中を丸める姿や、ペットボトルを首筋に当てる姿、棒になって救急車に吸い込まれていく姿が次々とよみがえる。

「いったん、3人前にしてみませんか。追加は後からでもできますから」
店員さんの説得が始まった。
カールも「まあ、それなら」といった感じで折れたようだった。

カールはお腹ぺこぺこだったのだろう。
私も空腹だった。細かい理由は伏せるけども、舟下りの所要時間が大幅に伸びたからだ。

その後のことは分からない。
私たちはカールの見せてくれたドラマを振り返りつつ、満腹で店を去った。

カール本人にとっても彼の家族にとっても、波乱の山形旅行だったことだろう。良い思い出になっているといいのだけど。

お気づきかもしれないが、今回はほとんど『さよならデパート』に関係がない。

以上です。

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