別れ。——『さよならデパート』ができるまで(1)
歯を磨いていると、ついに奥歯が1本抜けた。私は41歳だ。
「安物買いの銭失い」という言葉がある。いつの間にか覚えていて、それが常識であるかのようになじんだ言い回しだ。
だけど実際は、セール品を逃したとか、欠品のため高い方を選ばざるを得なかったとか、そんな時に自分を納得させようと使っていた気がする。
——安物買いの銭失い。こっちで良かったんだ。
という具合に。
しかし今回ばかりは本来の意味を痛感させられた。安いウインナーには警戒が必要だ。
元はといえば仕事を失ったせいだ。
私は山形市の「小姓町」という、かつて遊郭だった所で料理店をしている。2020年3月末に志村けんさんが亡くなり、やがて山形市内で初めてのコロナの陽性者が確認されると、瞬く間に予約の一切が消えた。
当時は休業補償や給付金もまだはっきりしていなかったので、まずやることといったら「節約」だ。そんな時に出合ったのが、例の「安いウインナー」というわけだ。
ガキッと音がした。
左下の奥歯に痛みを感じて、反射的に口を開いた。しびれる箇所を人さし指でなでると、指はやや赤く色づいた。
何を噛んだのだろう。探ってみると、小さな骨だった。豚のものだろう。他の可能性は考えないでおこう。
ともかく、奥歯の1本がその日から揺れ始めた。
2020年5月から店を休んで間もない頃だ。その夏に大沼デパートのノンフィクションを書こうと思い立ち、調査と執筆を経て、2022年4月の発売に至る。歯が抜けたのは、本が書店に並ぶ直前だった。
「渡辺さん、これ乳歯ですよ」
歯医者さんが驚きの発言をした。繰り返しになるが、私は41歳だ。
「つまり、これから大人の歯が生えてくるんですか」
胸が躍って、つい診察室の椅子から背中を離した。
「そうじゃありません」
違った。私の顎に歯の在庫はないらしい。
1本損してるじゃないか。そう思った。
みんなはそれぞれ2回生えているのに、私のだけ1回。不平等だ。
お医者さんが「たまにそういう人は居ます」と言うので、同じ不遇を味わっている人を集めて活動団体でも起こそうかと考えたが、歯と一緒に気力も抜けたのか、「しかたない」と諦めた。歯科だけに。
治療法は「かぶせ」「ブリッジ」「インプラント」の3つがあるという。
「かぶせ」は隣接する歯も弱ってくる可能があり、「ブリッジ」は噛む力が以前の2〜3割ほどに落ちるらしい。自然な歯の感覚や強度に近いのは「インプラント」だそうだ。
インプラントは保険の適用がないので、山形の相場で1本40万円。ウインナー代をけちったために、40万円だ。
とりあえず保留した。即答できる金額ではない。今は決断を先に延ばしながら、のんきに歯石を取ってもらっている。
ともかく、この度の『さよならデパート』は、ぐらつく歯と共に完成させた作品だ。
私の方は無様だが、大沼デパートの320年は映画のように劇的だ。栄光・対立・葛藤と、物語に必要な全てが詰まっている。
では次回から、本書ができるまでの険しい道のりをたどっていこうと思う。
書き上げる頃には、抜けた歯をどうするか決めておきます。