□訪問入浴と施設介護ではどちらの方が会話力が必要か□

 タイトルの通りですがどちらの方が下位話力が必要なのでしょうか。相手の気持ちを知る能力が高い必要が有るでしょうか。両方やってしまったのですが訪問入浴の方が、相手を理解する必要性が高いと思いました。施設介護だといつも同じお客さんが居ていつもおんなじ従業員がいて同じようにいつも過ごすという感じでした。だから、どんなに察しが悪くてもどんなに相手の気持ちが分からない人でも年がら年中一緒に居れば何となくどんな風に、会話すれば良いのか分かってきます。何となくこのヒトってこんな感じなんだなぁこういう風に応対していれば良いのだなぁというのが分かります。

 でも訪問入浴は、1日中ずぅっと一緒に居る訳ではないのでとても短い時間内で相手を理解する必要があります。また、ご家族とも会話をしなければならないのでとても、会話力が必要となります。施設で言えばご家族との会話をするのは、管理者だけとか事務員だけとかそういう専門の人しかご家族とはしっかりとは会話をしません。でも、訪問入浴だとそういった間に入ってくれる従業員は居ないので、作業をしながらご家族ともちゃんとした真面目しっかりとした世間話をしなくてはならないし、ご本人がどんな感じの人なのかも理解してそのご本人とも会話しなくてはならない。

 施設介護よりも訪問入浴の方が、表面上の会話しかしないしどっぷり関わる訳では無いから、相手を理解する能力や会話する能力がより必要ないと思ってしまう人も居ると思うのですが、訪問入浴の方がかえって、相手を理解する能力と会話をする能力は必要でした。

 ミスすると命に直結するような、機械を多く使うケースでは会話がどうのこうのとかではなくてミスなくやる事が大事ですからそもそも、会話できているかどうかとかはちょっとどうでも良かったりするのですが、そういうケースでも慣れてくれば会話もそこそこ必要だったりします。そこそこの会話をするという事はつねに必要です。

 相手を理解する能力が著しく欠如しているケースや何となく適当な会話をするという事をできない人の場合は、訪問入浴よりもかえって施設介護の方が向いています。私は、相手を理解する能力が著しく欠如していて適当な会話をするという事もできないのですが、とても簡単なお客さんしか居ない介護施設でならばやっていけました。さすがに、ずぅっと一緒に居ると分かって来るんですよね。施設では、ご家族との「ごく一般的な会話」というのさえやらないで済んだので、「ごく一般的な会話」をできなくても仕事を行う事をできました。

 相手の気持ちが分からないと親友に相談したら、「施設よりも訪問入浴の方が表面的な関わりしかしないからその方が良いのでは?」と言われて訪問入浴をチャレンジしてみたのですが、余計に難しかったです。「相手の気持ちが分からない」というのは、私にとっては当たり前であり、分かる訳が無いし、こうかなと思ってみても外れてしまうし、もちろん当たっている事もあるけど。そもそも私は、それぞれの気持ちはそれぞれの気持ちだからそんなにグイグイ探ったり当てたり良い意味でのやりとりも別にしなくて良いなと思っているタイプなので、あまり、他人の気持ちに触れるべきではないと思っています。その人の気持ちはその人の気持ちだから。触らないであげるのが一番良いと思う。

 けれども、寂しいと感じていたり、つまらないと感じていたりする人に対してはやっぱり会話をした方が良かったりして、相手の気持ちになんとなく触れてあげた方が良い事もあったりして。そういうところの気持ちとか判断とかを私は自然には行えないので、訪問入浴は全く向いていなかった。会話をできないから。あくまでも仕事だからシンプルに作業だけを実行してそれで家に帰りたいというのが私の気持ち。誰かと会話をしたりとかそういうのは、プライベートでやるならば別に良いなと思うけれども仕事でやりたいとは全く思わない。何となく散歩をした時に近所の人と挨拶したり、家族と会話をしたり、インターネットでチャットで誰かとおしゃべりしたりそういうのは良いと思うけれども、仕事の最中にある意味では仕事の一環としての「ごく一般的な会話」というのはできない。

 というのも、作業そのもので頭がいっぱいだから全く余裕が無いから。何かを話せば、作業が止まってしまう。作業をすれば、何かを話す事はできない。余裕を持って作業をできるというところまで行く事ができるならば、最終的に会話もするし作業もするというところに行けるのだろうけれども、私はどの仕事をしてもどの作業をしても、いつも頭の中はパニック発作が起きる寸前のところで、作業だけだとしても上手くできないかできるかギリギリのところを、行ったり来たりしているから、その上で、相手に不快が無いように「ごく一般的な会話」をするというのは、全くもって不可能だった。

 作業そのものがとても簡単だったり、いっつも全く同じ作業をしていてさすがの私でも余裕を持って行えたりする場合には、会話をしながらというのもできたし、年がら年中いっしょの相手とだったら、適当にいい感じの会話というのもできたし、冗談だったり、笑ったりしながらもできた。それは、作業内容がごくシンプルで簡単でいつもいつもやっていてるケースのみ。その「簡単」というのも、健常者にとっての簡単ではなくて、障碍者がやってもそれでも「簡単」だと言ってのける事ができるくらいとっても簡単な作業の事。

 こういう私のような人は、訪問入浴か施設介護かで言うならば施設介護だし、その中でも重度の人を預かるような施設介護ではなくて従業員がやる事とは本当にちょっとした手助けをする程度の軽度ばかりの人が集まるような施設である必要が有る。また、そもそも、介護とか医療の分野には、私のような「精神障碍者」は従業員としての関わりを持つべきではない。そもそも私のような「精神障碍者」はまずもって「障碍者雇用枠」の中から就業先を選択するべき。そして、相手の気持ちが著しく理解しにくいとか一般的な会話をできないというケースでは、介護職員の仕事は差っ引いていく事が正解である。

 人が嫌いで、人との会話が大嫌いな人にとって、人と会話をするという事は拷問の1つだ。

また訪問入浴では
・機械を順番通りに作業する
 ときには自分で考えてやり方を変える
・ご家族とごく一般的な会話をする
・ご本人との会話もする
こういった事を同時進行で行っていかなくてはならないので、知的な障碍を持った人や精神的な障碍を持った人にとっては到底不可能な仕事です。決してやるべきではないでしょう。運転もやり続けなくてはならず、運転そのものが「野生的であり感覚的であり」そういう意味での「上手い」必要があります。

 完璧にルールを全て守りながら、過度に恐れながら運転をしていると、時間通りに次の目的地に辿り着く事はできないので、「野生的に感覚的に」運転をするという運転の仕方が必要であります。ルールを知りつつ100%守るのではなくて・・・というような「実質として安心で安全である」という運転の仕方が必要です。

 私の場合だと、ルールを守る事だけに集中したり、かと思えば資格の中から目的の物体を見つけ出して認識する能力が著しく低いので見逃す事がとても多く、人間の体が出す事ができるスピードを越える物体を取り扱う事がそもそもできない。ルールを100%絶対に守ろうとしたり、事故が起きる事を過度に恐れている(不安性障碍)の人だと、運転をするという行為を行えません。訪問入浴においての運転をするという行為を行えません。ある程度スピードを出して、それはもちろんその道における最大スピードの範囲内ですが、感覚的に安全な範囲内であり、決まり通りの範囲内であり、その中でできるだけ速い速度である必要があります。

 そもそも、強迫性障碍だったり不安性障碍だったりする人が、運転免許証を取るべきではない。そして取ったとしても、それは、とても大変な思いをして運転をしているのだから、自分の出勤の時にだけ運転をするとか、お休みの日に遊びに行く時に運転をするとかならば良いけれども、時間通りに目的地に辿り着く必要が有る仕事においての運転はするべきではありません。

・辿り着く事自体はできるけれども時間として遅れてしまう
・時間として辿り着く事はできるけれども事故をする

これらのどちらかの選択になってしまいます。

もしくは

・時間通りに辿り着くし事故も無いがとても苦痛であり不安である

という事が起きる。
これでは、いち従業員として働いている1人の人物としてとても不幸である。だから、強迫性障碍や不安性障碍の人や、精神障碍や知的障碍の人が、運転を仕事にする事はしないべきであると感じた。
理論的に考えてももちろんそうだし、実際にやってしまってみてもやはりそうだと確信した。

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