感想:狩峰隆希/「チェロと三つ葉」歌壇2017.4
かりみねさんご本人からお許しいただきましたので、noteで拙感想を公開いたします。ありがとうございました。
引用元は歌壇2017年4月号、誌上交流戦:短歌甲子園の歌人たち―盛岡VS日向
引用した短歌は七首中の五首、文中に太字を入れています。
たましいを抱きあげるようにひとがチェロ運ぶ深夜の高速バスで
連作「チェロと三つ葉」の序章歌。連作を通して主体は旅をしている。ここでは子どもではない、夜行バスの人の流れをみつめる大人の目だ。否、たましいは容易く大人に見えないだろう。無垢な子どもの目も持ち合わせた混沌の年頃か。『たましい』『抱きあげる』『ひとが』と、続くアの音は温かく下句に命を与えていて好き。
しかし、まあ。人の声に最も近いと言われる楽器チェロを「たましいを抱きあげるように」と詠い出されるとあまりに出来すぎていて小憎らしい。同じバスに乗り込んだ旅人として、主体はチェロ弾きに軽い羨望をもったのかもしれない。私は持った。旅は独りでも楽しいが、共有する誰れかがいれば寂しくはない。
インスタントカメラで君が撮りためる川の歳をもちえぬひかり
旅の小休止だろうか、川を背景に撮り続ける『君』。スマホではなくデジカメではなく、一眼でもなくインスタントカメラ。字数合わせのようでいてインスタントカメラの即写/使い捨ての特徴と、悠久とした川との対比を出しているのかもしれない。
読みで気になったのは『川の歳』。かわ-の-としと読むと字足らずでリズムが崩れる。もしや、歳と書いて[よわい]と読ませるのか。
勝手に読みを[よわい]と信じ、国語辞典で調べ、よわいの意が生まれてから経過した年数と知った。そうか、川はまだ生まれても死んでもいない、そこにある自然だな。
――そうひとり勝手に得心して読み返せば、君が撮りためていく川のひかりの、なんて刹那の輝きなのだろう。
噴水のアーチよ、時よ、対岸に届くころにはこと切れるみず
勢いあまった水の流れが読点でこちらにまで飛沫を飛ばす。『こと切れる』の不穏さに至るまで、読者は噴水の風景を思い浮かべて気づけないでいる。歌の中で二度詠まれている水の最後が『こと切れるみず』。ここに主体の『水』でない、何かがある。
「まだふみも見ず 天橋立/小式部内侍」のような韻を踏んでいるのなら、この歌は微かに死の匂いを含んでいる。あまりに微かで、けれど対岸はひどく遠く、頼りなく流れる水が見えた気がした。
カツ丼を讃えてそこへ添えられる三つ葉のように日々にも旅が
作者が若いと知っているのでこれは純粋に清々しく好ましく感じた。少年ぽい。カツ丼讃えるのかあ、ふふふ。旅が非日常の象徴なら三つ葉の翠はなお美しい。旅を楽しむ為私たちは地味な暮らしを重ね、暮らしの中も長い旅のひとつなのだきっと。主体の旅への前向きさを感じた。
わが胸にひこうき雲の曳かれゆく遠くで君がふりかえるまで
ひこうき雲は見上げる目線だ。それが主体の胸に曳かれてゆく、ちょっとした目線の混乱がある。心象の空に憧れが曳く雲だろうか、何かを決意し旅立つ機の曳く雲だろうか。連作の中で再び登場する『君』は、主体と雲一線ひかれたことに気づいていない。決別というより淡やかな別離。けれど距離的にも心情的にもしばらく会えそうにない旅なのだろう。
青空に映えてこそあれ。いってらっしゃい。