記録

今日午前の会話内容が印象に残ったので記録として。発達障害の勉強をしている峯上からの見解があった。それを聞いたうえでのぼくの感想というか解釈を書いておこうと思う。

人は十人十色というくらいに一人一人が個性のある生き物である。そのなかでも社会になじめない人が発達障害として取り上げられている。十人十色という言葉があるにもかかわらず、出る杭は打たれるという言葉もある。

どちらが正しいのか。

どちらも正しいのである。日本では。少なくとも、人である以上はこだわりや個性というものは必ず持っているものだ。ない人がいるとしたら、それは虚無であるとぼくは思う。趣味、趣向が似たような人は共通の話題ができ、仲良くなりやすい。逆に合わなければ別にしゃべる必要もない。

ぼく自身、田舎の中学出身で、それこそ1クラス10人程度の人数しかいなかった。担任から高校に行けば気が合う人もできるでしょうと言われたくらいだ。同級生と会話するには、無理やりやってるゲームを合わせなきゃいけなかったりでとにかく共通の話題を生み出せなかった。

今日の議論としては、個性が尖ってるが故に2次障害として精神疾病になってしまうということだった。正直な話、割と思い当たる節はある。

ただ、最近の主張として、発達障害だから個性である、というのが多くみられる気がする。でも、発達障害の人だけが個性を持っているか?といわれると、ぼくはYESとは言えない。人間だれしもが個性を持っていると思う。何が違うのか、と聞かれると、ぼくだったら価値観という言葉を選ぶと思う。

10年前と今、圧倒的に違うものがある。情報量だ。スマフォの普及率を見ればそれは明らかだろう。10年前は限られた場所からしか情報は得られなかった。それが今、スマフォを持つだけで世界とつながることになる。顔は知らないけど、価値観が近いなという人を世界から探せる。つまり、日本の中で納まっていたものが、もうすでに世界に繋がれるのだ。そういった背景を踏まえ、個性の価値観というものにさらに磨きがかかってしまっているように感じる。

個性や多様性という言葉が大きくなってきたのだが、そもそもな話それらは人間として標準で備わっているものである。日本人が日本人として収まっていたのは、国内だけの情報で完結していたからだと思う。10年前の最新情報とはもう過去のものである。過去のものに囚われていては人としての前進はない。技術の進歩の代償として、人も変わっていかなければいけない。

S.Nさんの言葉は今も耳に残ってる。発達障害の子にいきなり働けという親は正常であるはずがないという言葉だ。少なくとも、何かしら個性のある人というのは昔からいたはずである。ただ、診断名が出てないだけだ。何かしら遺伝的要素があってもおかしくない。

社会のレールをちゃんと走れるならそれでいい。でも中にはぼくらのようなはみ出してしまったやつらだっている。ぼくはむしろ、レールから外れ、ネットで様々な人と意見を交わすことによって自分の世界では知らなかった知識や価値観を得ることができた。たぶんここがぼくの人生の起点になるのだろう。

自分と他人とは違う。当たり前のことだ。自分にはできるけど、誰かにはできない。またそれの逆もある。できることをお互いに認め、共存していくことが今後大事なことになるとぼくは思っている。

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