静寂の郊外(1)ー埼玉県幸手市
今回は5月の休日に、埼玉県幸手市を初訪問したときのことを書きたい。しばしば幸手市は「やばい」などネガティブな言葉で語られるものの、いざ訪ねてみると、旧日光街道沿いに建ち並ぶ本物の昭和レトロな街並みや、隠れたモダニズム建築の傑作「幸手市役所」、そして大量供給時代におけるひとつの到達点である「幸手団地」と、いくつもの発見があった。
なぜ幸手なのか
日ごろからテレビを見ることのないわたしが唯一、毎週チェックするのが「アド街ック天国」である。憧憬と継承を抱きながら見ているこの番組が、幸手を特集したのは3月のこと。普段、周りに「まち歩きのフィールドは1都3県」と謳っておきながら、「幸手(さって)」の読み方を知ったのはこのときだった。自らの不明を恥じつつ「幸手とはどのような場所なのか」知りたくて、まだ見ぬ街を訪ねに向かったのである。
その前に「幸手」について調べてみると、市の広報やシティプロモーションなどいたるところで、全国の市で唯一「幸」が使われていることにかけたフレーズ(「ハッピーハンド」や「手をつなぎ、幸せあふれる幸手市に!」)を目にする一方、Googleサジェスト(予測変換)において「幸手」のあとに続く言葉は「やばい」や「ヤンキー」といったネガティブなものばかり。果たして「幸手」とはいかなる街なのか。
幸手とはいかなる街なのか
幸手市は埼玉県の北部、東京都心部から50キロほどの場所に位置し、千葉県野田市と茨城県五霞町に隣接する県境の街である。人口は埼玉県内の市でもっとも少ない49,202人(推計人口(7月1日現在))で、県内の市で唯一5万人を切っている。ちなみに「平成の大合併」も相まって、いまや有名無実化した地方自治法の規定では、市の要件のひとつに「人口5万人以上」という項目がある。しかし、市になった後に、人口が減少し、5万人以下になったとしても、町や村への移行を強いることはない。幸手市は1985年の国勢調査で人口5万人を超え、翌年、市制を施行する。その後、5万8千人越えを記録した1995年をピークに、今日まで減少傾向が続く。また、減少に転じた時期は近隣自治体と比較しても早く(春日部市、杉戸町は2000年、久喜市は2005年、千葉県野田市は2010年が人口のピーク)、その規模は過去20年の累計で1万人近くに上っている。
ところで、この「東京都心部から50キロ圏内」は、東京圏における人口増減の分水嶺と言われることがある。つまり、傾向として、東京から50キロを境にさらに遠くなれば人口は減少し、反対に近くなれば人口は増加しているのだ。そして、ちょうど50キロ付近に位置する地域は、増減の瀬戸際にあるため、自治体の施策が人口増あるいは減に、直接的に作用する余地があるといえよう。例えば同じ埼玉県では東松山市は人口が増加傾向にある一方、飯能市は幸手市と同様、急激な人口減少に悩まされている。これら3つの市は、いずれも東京都心部から50キロ付近に位置するとともに、電車を使えば1本で東京まで向かうことができるアクセスを有しており、「対東京」といった点で大きな差はない。
また、幸手市の特徴として、県内の市の中でもワーストの所得水準が挙げられる。際立った産業はなく、市内に本社を構える企業はほとんどない。そもそも事業所の数も少ない。これらの要因が重なった結果なのだろう。「人口と所得」これら基本となるふたつの統計を見る限り、「幸手はやばい」と言われるのもわからなくはないのだ。
なお、幸手市の治安について「悪い」と評する声が散見されるが、直近2か年の犯罪率を見ると、確かに上位に位置するも、春日部市など周辺自治体の比較において、著しく高いとはいえないことは指摘しておく。「幸手はやばい」というイメージが先行した結果、実態から乖離した形で「やばさ」が増幅されている感は否めない(川口市が意外に低く感じるのも同様の理由であろう)。
「東武縛り」で幸手へ
さて、下調べはこれくらい留め、現地へと向かう。東京から幸手までの道程は、東武亀戸線で曳舟、そこから東武伊勢崎線に乗り換え、東武動物公園からは直通先の東武日光線に入るという「東武縛り」で向かうことにした。
東武亀戸線は曳舟から亀戸までを結ぶ全長3.4キロの支線である。5駅によって構成されるこの短い路線は、どことも直通はせず、走る車両は2両編成。このようなことから、亀戸線は「都会でローカル線の趣を感じられる路線」として物珍しく語られる。それにもかかわらず、起点の曳舟付近のごく一部を除いて複線なのは、かつて東武の本線として機能していた時代の名残である。1904年の開業当時、亀戸線は終点の亀戸から総武鉄道(現在のJR総武線各駅停車)に乗り入れ、両国橋駅(現在の両国駅)まで直通運転を行っていた。この頃、東武は都心部から離れた北千住を起点していたことから、少しでも都心に近く、また(当時は)ターミナル駅であった両国まで直通可能な亀戸線を「本線」とすることを目論み、それに似合った設備にしたのである。しかしながら、1907年の総武鉄道の国有化に伴い、競合相手である「東武」の利益につながる直通運転は廃止されることになる。結局、東武の「本線」は単独で浅草を目指し(1931年乗り入れ)、亀戸線は「支線」に転じて、現在まで至っている。「都会のローカル線」は「東武における「本線」の夢の跡」でもあるのだ。
曳舟で降りたら、東武伊勢崎線に乗り換える。この「東武発祥の路線」や「本線」とも評される由緒ある路線の別名は「東武スカイツリーライン」。発表当時は物議を醸したこの愛称も、10年以上経ったいまでは市民権を得たように感じるが、ややこしいことに東武伊勢崎線のなかでも「浅草から東武動物公園まで」を指すことはあまり知られていない。伊勢崎方面は当然だとして、草加、越谷、春日部といったエリアから「スカイツリー」を感じることはできるのだろうか。
それはさておき、東武伊勢崎線(わたしにはこのほうがしっくりとくる)の醍醐味は、北千住から北越谷までの間、18.9キロにも上る「私鉄最長の複々線区間」であろう。優等列車が各駅停車と並行しながら、相次いで抜き去る光景は、体感的な「速度」を増してくれる。疾走感溢れる前面展望に目を凝らしながら、曳舟から50分ほどで幸手駅に到着となる。
なお、厳密にいえば東武動物公園から先、東武伊勢崎線は久喜方面へと進み、幸手も含む南栗橋方面は東武日光線となる。したがって、東京側で直通する東京メトロ半蔵門線(さらにはその直通先である東急田園都市線)と日比谷線、そして、東武日光線、これらは東武伊勢崎線と一体的に運用されているのである。乗ったのは「急行 南栗橋行き」であったため曳舟から幸手までは乗り換えなし、車両は東急の5000系だった。
さて、幸手駅は2面2線、階段を上ったところに改札があるいわゆる「橋上駅」である。開業は1928年と古いものの、2019年には橋上駅に改良されただけあって、構内はとても綺麗である。ホーム上のダイヤ表を眺め、運行本数をみると、休日の日中には1時間あたり2本しか来ない時間帯もあって驚いた。東武日光線はこの次の駅である南栗橋で、特急を除いて系統分離している。つまり、南栗橋から先へと向かうには、一度、同駅で乗り換えなければならない。それは言い換えれば、南栗橋までは直通先の都心と一体的に運用されていることを意味する。幸手市は自らを「東京通勤圏」に位置づけているが、足立区や墨田区など東京東部ならまだしも、「都心」までの距離を通勤するのは、移動時間だけでなく運行本数においても困難が伴うに違いない。
改札を出て、幸手の名所「権現堂堤」の巨大写真を横目に東口から駅を出る。一応、ホームから西口方面を見るも、空き地が広がる殺風景だったため、迷うことなく「東」を選んだ。東口には小さなロータリーがあって、バスの停留所とタクシー乗り場があるほか、1軒のコンビニ(ファミリーマート)がある。あとは地元の飲食店と思われる店が散見されるが、日中であったせいか、どこも閉まっている。これだけでは、よく見かける東京近郊の小さな駅の風景にほかならない。その中にどれだけ「幸手らしさ」を見つけられるか。目を凝らしてみた。
「幸手らしさ」を探して
2019年に再開発された駅前の中で、静かに、そして重厚にたたずむのは「東武鉄道日光線開通記念碑」、書いたのは東武鉄道の初代社長で「鉄道王」と称された根津嘉一郎だという。根津が初代社長を退いたのは1940年、あれから80年あまり経過したが、いまや東武は関東で最長の路線を保有する私鉄まで発展を遂げた。
記念碑に向かい合うようにあったのは、中古マンションの広告、築年数はわからないものの(ただし、新耐震のため1981年以降である)3LDK、71㎡で890万円という。都心で同じ広さのマンションを購入するならば、もうひとつ「0」が付いたとしてもおかしくない。不便とはいえ、都心まで1本で通える駅のすぐ近くのマンションが1000万円以下で買える。「人生の選択肢として…」、一瞬考えてしまった。あくまで「一瞬」だけれども。
詳細は次回に記すが、幸手はもともと日光街道と日光御成街道が交わる要所として発展した宿場町である。東武日光線は日光街道と並行して走るものの、その距離は若干離れており、商業施設や行政機関の多くも街道沿いに立地していることから、鉄道の存在感は低い。現在もまた「街道」を中心に構成されているのだ。
さらなる「幸手らしさ」を探すため、街道に向けて歩くことにした。
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