「団地好き」の先にあるもの。
しばしば「団地好き」を謳っているが、その魅力を人に伝えることは難しい。「なぜ団地が好きなの?」と問われても、理由を上手く述べられないことはおろか、何か話し始めていいのかわからない有り様である。
「団地」と聞いて、その定義を訪ねてくる人もいれば、高齢化や空き家など現代社会が抱える問題と絡めて、現状を聞かれることもある。さらに、より実用的な関心から「家賃はどうなのか、住むためにどうすればよいのか」といったまるで不動産屋のようなことを聞かれることも、少なくない。また、人によっては「団地妻」を想起するようで、そこから官能的な魅力を抱いていると勘違いされることもある。
そうこうしているうちに、「なぜ団地が好きなのか」ということについて人に説明したり、社会に発信したりといった試みを避けることが多くなった。いわば、その魅力を人と共有するのではなく、自分のこころの内に留めるようになってしまったのである。
いわゆる「オタク」の対義語が何とされているのかわからないが、「〜好き」や「〜ファン」と、「オタク」との境界は「社会との関わり」の有無にあると思っている。すなわち「オタク」とは、社会からすれば極めて閉鎖的で、外から覗かれることもなければ、内から発信されることもない(あるいは少ない)世界観のことを指すのではないだろうか。
話は飛ぶが、大学生の頃、佐伯啓思の本に出会ったことをきっかけに政治思想に関心を待ったことがあって、そのときに「社会的なもの」を重視する考え方(専門用語ではコミュニタリアリズムや共和主義と呼ばれるもの)に強く共感を抱いたことを思い出した。20歳にして、ようやくまともに読書するようになったのも、彼の本がきっかけである。
もっとも、当時と今とでは、理解の幅も深さも異なることから、必ずしもあの頃のように信奉するわけではないが、「社会的なもの」を大切にする考え方は、いまでも自分の価値観の基礎として存在している。
それゆえ団地に限らず、趣味を社会との関わりの中で捉えることを意図しているわたしからすれば、「オタク」と呼ばれるのは本意ではない。ただ、冒頭に書いた「なぜ団地が好きなのか」、その問いに対する答えについて、説明や発信を避ける最近の傾向は、まさにオタク的な志向といえるのではないかとも思うのである。
「このままではいけない」と思い、いざ表現しようとしても、理屈が先行して、簡単に言葉にすることができない。困ったものだと思いつつ、ふと思い出したことがあった。かれこれ、5年ほど前になるだろうか、ある媒体に、「団地の魅力」をテーマにした記事を書く機会があった。当然、先方より文字数の指定があったので、否が応でも思考や経験を整理して、苦悶しつつもなんとか原稿を書き上げた。そのときに心がけたのは、可能な限り理屈は排除して、直感に響くような文章を書くことであった。
この文章について、年数の部分のみを修正したうえで、あらためてここに掲載してみたい。なお、今回はいくつか団地の写真をアップしているが、これらはすべて自分の足で訪ねて、撮影したものである。
稀有な光景を目にしているのだと思う。
目の前には同じ色、高さ、形をした住宅が、延々と建ち並んでいる。この団地と呼ばれる住宅が広まったのは、およそ半世紀前。それらは雨後の筍のごとく、日本各地に建てられた。しかし、かつては高嶺の花と呼ばれた団地も、いまでは高齢化や老朽化など取り巻く環境は厳しい。それに伴って、世間一般に想起される印象は悪化の一途を辿り、埼玉県のある駅では、駅名から「団地」の文字が消えた。
こうした団地に興味を持ってから、15年近くが経つ。この間、夢中になって各地の団地をめぐってきた。そのなかで感じたことは「高度化」という美称のもとに進められる建て替えや、「施設化」と称される地域からの孤立に、時に窒息しそうになりながらも、そこでは同質な住宅を「個々の人生」が彩り、虚構に過ぎなかった前提を「現実の生活」が肯定する、強靭な空間が確かに存在するということである。
都市の本質を「創造と破壊」と捉えるならば、これほど都市的な空間は他にあるまい。
あらためて読み直すと、結果、何が団地の魅力なのか、上手く答えられていないのは、残念ながら明白であろう。
この文章を要約すると、団地にある「強靭な空間」は、多くの「創造と破壊の舞台」でもある。そして、そこに都市の本質を垣間見ることができる。
こうなると「都市の魅力とは何か」という問いが浮かび上がってくるが、そうした壮大なテーマに挑むだけの知性もなければ、気概もいまはない。ただ、細々とながら続けている団地めぐりの先に、きっとその答えはあるのだろうと信じている。団地はもっとも都市らしい空間であるのだから。