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「赤と黒」 私の所感

    「赤と黒」は19世紀フランスの作家スタンダールの小説で、誰でも一度は耳にしたことのある世界文学の名作である。
これまでに何度も舞台化、ドラマ化されており、宝塚での「赤と黒」の舞台作品は、1957年の菊田一夫版「赤と黒」~ジュリアン・ソレルの恋と人生~が初演である。後に柴田侑宏演出の月組大劇場公演「恋こそ我がいのち」(1975年・大滝子主演)が上演され話題となった(東京公演は「赤と黒」に改題)。
初演当時は宝塚には相応しくない題材だと賛否両論あったようである。
他にも映画、ロック・ミュージカル等制作されているが、原作、映画、柴田版「赤と黒」について私が感じたことを記してみたいと思う。

    私の宝塚との出会いは、奇しくも柴田版初演の年(1975年)であるが、この柴田版「赤と黒」の上演は、出版物で舞台写真や公演評を目にしたことを記憶しているくらいである。
それは、「赤と黒」についての予備知識がなかったこともあるが、当時、宝塚は「ベルサイユのばら」月組初演を経て花組再演と、いわゆる"ベルばらブーム”に沸き返っていた時期でもあり、残念ながら関心を持つに至らなかった。
「歌劇」「宝塚グラフ」をはじめ、宝塚関連誌を読むことは、宝塚ファンとなった私の楽しみのひとつだった。
その当時、私は中学生で思うように観劇できなかったこともあり、出演者とスタッフの対談、制作現場や生徒さんの様子を知ることができる「歌劇」、グラビア記事が魅力の「宝塚グラフ」はとても貴重でバイブルのようなもの。そして、その中でも公演評は社会的な反響、世間の評判などを客観的に知ることができ、作品理解にも役立った。
平成の時代となり、かなめ(涼風真世)さんと出会ってからは、出演作品を知るために再び公演評に注目するようになった。
その中でも、柴田版再演となったバウホール公演「赤と黒」(1989年)の公演評は、どの記事もジュリアンを演じたかなめさんの好演を称え、傑出した作品であることを記しており、この時初めて「赤と黒」に興味を持ち始めた。

    さて、「赤と黒」を知るため、まず原作を紐解いてみることにした。
    作者スタンダールは、実際に起きたラファルグ事件やベルテ事件をモチーフに、社会批判も込めてこの作品を著作した。
王政復古時代のフランスに架空の地方都市をつくり、町を牛耳っている司祭、町長をはじめとする貴族など権力者の中で、青年ジュリアン・ソレルが自身の信念のままに生きるさまを描いている。
    作品の中に描かれたジュリアンは、細く華奢なからだに、美しいというよりは可愛らしい顔立ち。その青白い面影の中に情熱的な黒く大きな瞳。若々しく率直で正義感あふれる青年。
しかも彼は保守的な田舎町で育ち、貧しい身分ゆえに貴族社会を憎悪し、ナポレオンを崇拝し「立身出世」という野望を抱いた自尊心の高い青年である。
ジュリアンは立身出世のため、聖職者という地位を利用してのし上がろうとするが、階級社会に生きる二人の女性と出会い、いつしか抑え切れぬ情熱的な恋に身を焼きながら、悲劇的な結末へと突き進んでいく。
その情景や心理描写は繊細かつ大胆で、特に終盤のジュリアン処刑以降の描写は生々しく、当時の批評家から"精神的・肉体的な拷問”などと揶揄されたようだ。
    私は読み進めながら、漠然としていたジュリアン像に血が通い始め、彼の過ごした時代、町の光景が目の前に広がるのを感じた。そして、さらに映画や宝塚の作品ではこの主人公がどのように描かれているのか知りたいという思いが強くなっていった。

    世界的に有名なジェラール・フィリップ主演のフランス映画(1954年)は、その映像の視覚的な部分が私のジュリアン像をさらに膨らませてくれた。
フィリップは"稀代のジュリアン役者”と謳われ、フランスのジェームズ・ディーンとも呼ばれる。早世したが1940年代後半から1950年代の国際的な二枚目スターであった。
    映画ではほぼ原作に沿ってはいるが、かなり枝葉の部分を削ぎ落としたものになっているという印象である。
裁判所でのジュリアンの回想の場面から始まる。
ジュリアンは父の家業を嫌い、ラテン語の家庭教師として町長の邸宅へ向かう。
常に自尊心の高いジュリアンではあったが、ブルジョワジーへの憎悪を抱きながらも夫人への想いを抑えられず、道ならぬ恋に落ちる。そんな彼の情熱的な恋が印象的に描かれ、貴族社会に対する軽蔑と憎悪の中、信念のまま我が道を突き進むジュリアン・ソレルをフィリップは魅力的に演じていた。
しかし、原作では重要な役割を果たしているジュリアンの親友フーケが登場しないことや、コラゾフ公爵の“恋の手ほどき”のように、スタンダールが貴族社会の恋愛心理を描いたエピソードが省かれていたことが残念である。
さらにジュリアンが囚われた後、二人の女性との人間模様が省略され、原作に描かれたようなドラマティックな結末を導くことができなかったことなどに物足りなさを感じたことは否めない。

    後日、運良く再演の柴田版「赤と黒」(1989年~90年・涼風真世主演)を視聴する機会を得た。
本作はバウホール公演用に再編された作品だが、全体的に原作に忠実で、原作の本質を的確に捉えながら編集され、なおかつ宝塚エッセンスも要所に効かせた演出には感嘆した。
    法廷での回想を交え、物語は進んでいく。ジュリアン自身によるナレーションやストップモーションが効果的に使われた背景描写、心の揺れ動き、葛藤など心理描写も巧み。馬車の音、教会の鐘の音、獄舎の扉がきしむ音などの効果音も印象的だ。
    涼風ジュリアンは、まず何と言っても気高く美しい。
原作の描写さながらに、華奢で可愛らしい容姿と、率直だが陰鬱としたその面影の中に強い野心を秘めている、そんな青年像そのままであった。
力強く、伸びやかで情熱的な歌唱にも魅了された。
    特に心に残るのは、家庭教師として赴いたレナール家の避暑地・ヴェルジーにおけるベンチでのシーン。
『あの10時の鐘が打ち終わるまでにやるんだ!それができなかったら、ジュリアン、お前は死ね!』
自身の自尊心を守るため、レナール夫人の手を掴むことに自身の生死さえ賭けてしまうジュリアン。
10時を告げる教会の鐘の音が響く中、早鐘のように打つ彼の心臓の鼓動が聞こえてくるようだ。
"大きな仕事”をやり遂げ満足したジュリアンと、彼の情熱に心乱れたレナール夫人の対照的な描写はとても印象的。
ジュリアンが夫人の寝室へ忍び込む場面では、ほの暗いライトに照らし出された二人のシルエットがとても切なく美しい。
ジュリアンの野心は、やがて愛の力によって衰え、つかの間の恋に身を焼くが、許されぬ恋ゆえの夫人との別離、神父に諭され神学校へ向かうジュリアン。
レナール夫人との幻想のダンスシーンは、神学生の制服(黒衣)と夫人の美しいドレスとの対比が印象的で、ジュリアンの禁欲的な生活、自身の煩悩から離れようともがく彼の苦しみが表現された切なく美しい場面であった。
    レナール夫人を演じた朝凪鈴さん。
好演ながら、三人の子を持つ母親の印象としては若すぎた、といった論評があったが、 原作では「ジュリアンの目には二十歳そこそこにしか見えなかった」と書かれており、世間知らずで従順、貞淑な夫人だが、ジュリアンの情熱に傾いていく激しさを秘めた女性を熱演していた。
    マチルドの羽根知里さんもまた、レナール夫人とは対照的に気まぐれでつかみどころのない高慢な令嬢を好演。
そして、先祖ボニファス・ドゥ・ラモール侯のエピソードで 「喪服のマチルド」を説明する件は、ジュリアンの処刑によってそれが現実のものとなる、彼女の運命を暗示した重要な場面と言える。
書斎でのジュリアンとマチルドの手紙を利用したやりとりも、冷静沈着な秘書とプライド高き令嬢の心理がわかる心憎い演出。
ジュリアンは次第にマチルドとの情熱的な恋に落ちていく。
マチルドの心が掴めないジュリアンが、コラゾフ公爵から受ける"恋の手ほどき”は、前述したように貴族社会の恋愛心理が風刺的に描かれている。
二人は互いの心を確認し、ジュリアンはマチルドから結婚の申し出を受けるが、思いもよらぬレナール夫人の手紙によってすべてを失ってしまう。
ジュリアンは復讐に燃え、教会でレナール夫人を撃つ…
傷を負うが一命を取り留めたレナール夫人、マチルド、ピラール校長、友人フーケが囚われたジュリアンに面会にやって来る終盤の場面は、詰め込み過ぎの感があるが、それぞれの思いが交錯する様子が見て取れる。
ジュリアンは二人の女性の愛を得ていることを悟り、『死は私に永遠の愛を与えくれた』と自ら死を受け入れ、断頭台に立つ。
ジュリアンの処刑という衝撃的な幕切れ。
しかし、それは単なる"死”で終わるのではない。果たして、柴田演出はさらにドラマチックなラストシーンを用意してくれた。
処刑後、喪服のマチルドがジュリアンの首を携え、葬る姿、そして自らの願い通り、ジュリアンの後を追うように神に召されるレナール夫人……その光景が目に浮かぶ。

    柴田演出「赤と黒」がヒットした最大の要因は、ジュリアンという人物が、涼風演じるジュリアン像と見事にシンクロしたこと、そして作品を彩る重厚でドラマティックな名曲の数々と、それを情熱的に歌い上げた涼風の圧倒的な歌唱力の素晴らしさにあるだろう。
後に柴田先生は、「この作品は彼女が自分で創り出した人物像に僕が付加していくという創り方をしたが、彼女のあの時期の意気込みと迸り、そしてちょうどあの頃に出来上がってきた声とがマッチして、あのジュリアン・ソレルができたのだと思う(「歌劇」より原文ママ)」と回想していた。
柴田先生は、すでに涼風真世の中に情熱的なジュリアン像を見ていたかのようだ。
先生が涼風をジュリアンに抜擢した意味が、私にはよく理解できた。
この作品は大好評を得て、1990年東京で再演された。
この年、かなめさんは翌年の「赤と黒」再演の夢を語り、大好きな役として作品を挙げていて、自分にとっていかにジュリアン・ソレルが愛おしい存在となっていたのかがわかる。
    そのスターの個性を掴んだ配役や演出は、座付作家としての評価も高く、厳しくも温かい指導で人望の厚かった柴田先生。
2019年に亡くなられ、柴田先生が「赤と黒」を直接演出されたのは1990年の再演が最後となった。
後年、後輩の演出家によって、2008年星組公演(安蘭けい主演)、2020年月組公演(珠城りょう主演)が上演されている。

    映像の中ではあっても、私は"涼風ジュリアン”に出逢えたことに感謝したい。
これ以上、涼風ジュリアンを賞賛する言葉を連ねるのは難しいが、彼女はいかなる時も気品に満ち、非の打ち所のない美しさで、魅力的なジュリアンを私達に見せてくれた。
それは、"芝居の月組”の名に恥じない、宝塚史上に燦然と輝く名演、名作だったと私は確信している。

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