フルートがいた時
フルートはかつて私の大切なパートナーだった。
なんて言うとちょっと、いやかなりかっこつけてるみたい。
でも、感覚を言葉にするならこれが一番近い。
フルートと私
中学1年生から、高校2年生まで。
私は吹奏楽部だった。そんなに長い期間とは言えない。
でも、フルートがいたあの時は、毎日が濃厚だった。
音楽を通してフルートを愛していたような、フルートを通して音楽を愛していたような。
どれくらいフルートのことが好きだったかと聞かれれば、ロングトーンしかやらせてもらえないとしても今なら泣いて喜んで吹くくらい好きと答えるだろう。
現役当時はもちろんそうではない。
だってたかが13歳〜17歳の、部活としてやっていただけのプレーヤーなのだ。
メロディラインが吹きたくてたまらないし、連符はやりたかないし、チューニングが合わないだけで簡単にイライラする。
だからこそ、私の喜怒哀楽をストレートに感じていたのがフルートなのだ。
これはプレーヤー経験者なら分かるかもしれないことだが、悲しければ悲しい音が、楽しければ楽しい音が、怒っていれば怒っている音が鳴る。
別に、長調が短調に、短調が長調に変わるという訳ではけしてない。
音色も歌声も、さして変わらないものなのだ。
吹奏楽部と私
中学と高校では、同じ吹奏楽部でも180°違った。
善し悪しの話ではない。音楽として演奏する吹奏楽部と、楽譜をなぞって演奏する吹奏楽部の違いだ。
悪口でも善し悪しでもないことは重ねて伝えておこう。
私に合っていたのは、中学の吹奏楽部だった。
楽譜はなぞれて当然、その上でこのバンドの音楽を創っていく。指揮者である顧問の統率の元で。
そんなハイレベルな学校ではなかったが、コンクールに出場する時は必ず上を目指して練習していた。
そして、上手くなりたいと練習するのはコンクール期間だけではなかった。みんな、新しい楽譜が来て、それを覚えて音楽として楽しめるようになることを楽しんでいたのだ。
私の人生最初の吹奏楽部がそれだったもんで、吹奏楽部ってこういうものなんだと思ったまま、私は高校でも吹奏楽部に入部した。
高校の吹奏楽部は、かなりの弱小バンドだった。
人数は小編成のギリギリ、中学の時にはいたが高校に入ったらいない楽器なんてザラにあった。
春の入部の時点で、新入部員は私を含めてたしか8人だった。その中で中学からの経験者は私ともう一人。
しかもこの二人どちらもフルート奏者。
最悪もいいところである。私は運良くフルートにしてもらえたが、もう一人の子はサックスへ回された。そしてわりとすぐに、この子は退部した。
まぁ、珍しいことではない。
アンサンブルコンテストと私
それぞれの吹奏楽部の特徴の説明を終えてここで話したいのが、アンサンブルコンテスト(以下アンコン)についてだ。
アンコンに関しては、2つ思い出がある。
1つは、中2の時のアンコンだ。
私の学年は異例だった。そもそも私の学年だけで部員が20人いたのと、フルートパートは私の学年だけで4人いた。1、2年の時は6人、3年になった時には8人いた。
バンドの割合として意味不明である。
でも、色んなタイプの人間と同じ楽器で音を揃えるために向き合ったのは、私にとってとてもいい経験になったと思う。
フルートってそもそも、同じ楽器同士でチューニングが合いづらい楽器なのだ。もうほんと、合わない時はどれだけやっても合わない。それで合わないまま諦めて合奏に行けば、顧問から指揮棒が飛んでくる。
そんなフルートパートで2年目になって、アンコンの時期になった。1年の時は私だけ木管セクションでアンコンに出場していたので、フルートだけのアンコンはこれが最初で最後だった。3年生は、受験期と被るのでアンコンには出場出来ない。
私たち4人と、後輩2人。計6人のフルートパート。
そんなアンサンブルの楽譜があるもんかと笑っていたら、あった。あったのだ、フルート6重奏の楽譜が。
作曲者、何考えとんねん。まじ感謝。
楽曲は「銀のひかり」
アンサンブルなのにトリルが多くて、細かいタンギングばっかりで、連符の難易度はそこまで高くなくて、ピーチクパーチク喧しい私達6人にピッタリの楽曲だった。
アンコンは、毎年冬に開催される。
吹奏楽コンクールは夏、定期演奏会は秋、アンサンブルコンテストは冬。
いつもの流れはこうである。
寒い寒い言いながら、ダルマストーブを囲んでもうとにかく息を合わせる練習。
拍の取り方は、意外と人それぞれだったりする。タイミングの解釈は同じでも、実際にそれの出方が違ったりするのだ。これは外から見ていると面白いが、いざ一緒に音楽をやるとなるとなかなかに厄介なのである。
練習と私
ここで一つ思い出したが、私はこの6人の中で一番の
"下手くそ初心者"だった。後輩2人を含めての話だ。
そもそも中学から始めた初心者は私だけで、みんな基礎は一通り理解しているし出来る。
でも私は、私が一番下なのが心地良い人間だ。
一番下という自覚があるからこそ、過剰に足を引っ張らないように必死になって毎日練習する。分からないことは素直に聞く。聞いたことはメモする。
余談だが、社会人になってこういう一生懸命さや素直さを上司によく褒められた。おそらくここで培われたんだと思う。
今でも友人から私がストイックだと言われる所以はここだろうし、やろうとした何かを出来ないままでいいと思ったことは無い。
私が1年だった時、初心者だからと私を甘やかすことなく分からないことはあちらも懸命に教えてくれた3年の先輩には、今でも本当に感謝している。先輩、お元気ですか。
アンサンブルの練習は、もちろん一人でやるものではない。基礎練習、楽譜の中で出来ないものの練習は当たり前に一人でやるが、曲の練習はアンサンブルメンバーでやる。
6重奏なので、1st〜6thまである中で、私は4thを担当した。6つのパートの中で、3rdと4thは同じ動きをしていることが多い。3rdを担当した同じ学年の子とよく2人で合わせる練習もしていた。
音の粒一つ一つがズレていては、アンサンブルは成り立たない。不出来な私を相手に、3rdの子はかなり苦労したことだろう。それでも、一緒にここやろ、といつも声を掛けてくれていた。出来るようになるまで、ずっと。
1つの楽曲を通して、私と、フルートパートと向き合ったような気がする。
その結果、私達は県大会まで進んだ。フルートパートだけの演奏で、6人というフルートパートにしては大所帯で、かなり健闘した方じゃないかと思う。
フルート6重奏という物珍しさと、その割に音が揃っているという理由で勝ち進んだだけなことも、もちろん理解しているが。
高校でのアンコン
そうやって音楽との向き合い方を、楽器との向き合い方を知った私は、そのまま高校でもフルートを続けた。
そしてもれなく冬にやってきた、アンコン。
当時フルートパートは私と先輩の2人だけだったので、私は同じ1年のホルン、クラリネット、フルートの三重奏でアンコンに出場することとなった。
これが、私が高校の吹奏楽部を嫌になったきっかけである。
私だけが経験者で、立ち回りが分からなかった。
中学とはまるで真逆なのだ。
ホルンの子は穏やかな子で、出来ないことは出来るようになろうと努力したり聞いたりする。
だが困ったのは、クラリネットの子である。
8音(ピアノで言ったらドレミファソラシド)の運指も覚えないし、チューニングも合わない。
初心者なんだから仕方ないことだが、努力しないから腹が立つのだ。
今になれば、同じ熱量で音楽をやろうとした私が間違っていたことが分かる。初心者なんて、本当は吹くことが楽しければそれだけで十分なのだ。
大会だからと気張ってしまった、経験者は私だけだからと無駄に背負い込んだ私が良くなかったのだ。
出来なくてもヘラヘラして、個人練習の時にまた同じことを聞きに来るのがとにかく煩わしくて。
当時の私には、自分が初心者だった頃の先輩の寛容さがまるで無かったのだ。
聞いたんだからメモれよ、出来ないことを笑ってんなよ、出来る努力しろよ。
そんなことで頭がいっぱいで、小さい器は簡単に割れ、浅い懐はあっという間に怒りで溢れかえった。
そして結果私が何をしたかといえば、本番で思いっきり手を抜いたのである。抑揚もつけず、チューニングもおざなり、本当に最低限だけやったのである。
これはアンサンブルメンバーへの仕打ちというより、顧問への仕返しみたいな感覚だった。
私だけに押し付けんな、私だって1人の練習時間が欲しい、顧問なんだからちゃんと教えろ。
貴方がそうしないから、こんな滅茶苦茶な演奏になりましたー。
という我ながら浅はかな当てつけ。
易々と顧問はそれを見抜き、大会後めちゃくちゃ怒られた。
なんで練習でもっと上手く吹いてたのに、本番であんな演奏をしたんだ、と。
本番に弱くて緊張しました、と適当な言い訳をして逃げたこともよく覚えている。
だって、私は音楽をやりたかったのに、こんなの音楽じゃない、こんなんでアンサンブルをやっている場合じゃない、彼女は基礎練習をもっとやらなきゃダメなんだ、ロングトーン面倒臭いとか、言える立場にないんだ。
そういう態度が、モロに出ていたのだろう。
私はそのうち部活で浮いて、トレーナー(学指揮と基礎合奏)をやらされて、ダンスプレイが部で主軸になって、やってられんとなり、2年の途中で部活に行くのをやめた。
部活は辞めて後悔がなくても、フルートは辞めたくなかったのだろう。
24歳になる今でも夢に見る。フルートを吹く夢を。
中学のメンツで、フルートを吹く夢を。
音楽と私
音楽って、一人でやっても仕方ない所がある。
歌も、楽器も。私はみんな高い熱量でなら、歌は合唱、フルートは合奏が一番好きだ。
みんな同じ方向を向いて、目標を持って、同じものを一緒に作り上げる。
だからもう、あの時間は取り戻せない。あの部に留まっていたとしても、取り戻せたものじゃない。
ただ中学の時の部活が楽しすぎて、私は未練たらしく夢を見続けるのだろう。
これが晴れるのは、何をした時なのか。
それを見つけていくことが、実は私の人生の大きな目標だったりして。
なんちゃって。まぁ満更嘘でもないけどさっ。
では、こんな取り留めのない長い話を最後まで読んでくれたあなたに、何か笑顔になれることがありますように。