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映画感想文

「GORILAS IN THE MIST」
邦題〜愛は霧のかなたに

ネタバレ含みます

アフリカの奥地で
マンウンテンゴリラの生態調査と保護活動を行なった霊長類学者
ダイアン・フォッシーの半生を綴った映画

アメリカからはるばる
言葉も文化も違うアフリカの山奥へ単身
ゴリラの保護活動のためにやってきた
フォッシー。

最初の6週間は 
森の中をあてどなく歩き回り
ゴリラの姿を見ることさえできなかったため、
ついにゴリラの糞を見つけた時は歓喜!
その後、ゴリラ本人に出会うものの
距離感を誤り威嚇され
逃げ出してしまい失敗に。
ようやく少しずつ慣れてきた頃には
国の内乱により撤退を余儀なくされる

山を降りたのち、
反対側の国境のサイドから山に入り
ベースを新たに研究をはじめる

じわじわと
ゴリラと信頼関係を築き上げ、
世界で類を見ないほどまでに
ゴリラの群れと距離を縮めたフォッシー。
触れ合い、寝転び
手と手を重ねるまでになった。

一方で現地の住人たちは
ゴリラを密猟して生計を立てる者もいた。
森を、ゴリラを、守りたい一心のダイアンと
原住民がぶつかり合う。

密猟者を対策をしながらも
保護と研究を重ねていく道を模索するフォッシーだったが、
親しくしていたボスゴリラが
密猟者たちの手で
あまりにも無惨で酷い死を遂げ
怒りに狂い、
なりふりかまわず復讐心に燃える

見知っていたゴリラの群れは
離れた場所で 穏やかに暮らしている様子を
見つけたものの、
フォッシーはある夜
寝込みを襲われ、
ナタで頭を割られ、死を遂げる

これは実話で、
フォッシーの死は
未だ未解決のままとなっている。


この映画を観て、
本当の意味で持続可能な、恒久的な
動物保護の難しさを知った。
資金面がある方は、
野生動物の研究に打ち込み、
かわいい、かわいそうと保護をしても
資金がない方の収入源が
密猟と結びついてしまっている限り、
保護と密猟がいたちごっことなってしまう。

フォッシーの場合、
あまりに情熱的になるあまり
「わたしの森!わたしのゴリラ!!」
という想いが強くなりすぎた。
誰かの所有物ではなく、
共存するはずの森と動物と人間であるのに。
多角的な目線を失い、
結果、自らの死を招いたようにも見える。

最近たまたま読んでいた
京都大学のゴリラ学者、山極寿一さんの本には
ゴリラの研究に必要なものとして、
現地の人との対話力、
現地のマナーを知ること、
味方をつくることよりも、
敵を作らないことの方が大切だと書かれていた。

彼はこの映画のダイアンフォッシーと面識があり、
彼女の傘下で研究をしていた体験と、
彼女の無惨な死を身近に知っていることから
このような見解に行き着いたのかなと推測した。


ダイアンフォッシーの研究、保護活動は
実を結び、絶滅の危機に晒されていた
マウンテンゴリラは数を増やしたし、
その後の霊長類研究にも
大きな功績をもたらしたことは
紛れもない事実だ。

一方ゴリラの群れは
人間を、離れたところから見ている。
必要な場合
正当防衛の威嚇はする。
でもそれ以上は関わらない。
傷ついたら、
悲しみを受け入れて、
残った者で安全な場所を探し、再構築する。
執着せず、
穏やかに生きている。

優しすぎるから
絶滅してしまうほど、数が減ってしまうのか。
だから
人間みたいに
狂気の沙汰で狂ったように
保護活動すれば守れることもあるのか。

それが地球のためであり、
絶滅危惧の動物たちのためかもしれない。
けれど
やり方を間違えば
それは一時的な対策にしかならないし、
守りたいもののために
戦い争い、殺しあえば、
復讐に復讐を重ね、
永遠に戦いが続くことになってしまう。
そうなる場合、人間は愚か者だ。

マウンテンゴリラの
孤高の気高さが 
頼りなく悲しくても 
神々しく映る。
そんな生き方に
どうしても魅せられてしまう。

映画の最後、
静かな森の中で、
ダイアンフォッシーのお墓と
亡くなったゴリラのお墓の
石が二つの墓を結んで
永遠にひとつになったように

人と動物が
ちょうど良い距離感で
ひとつになって暮らしていけたらいいのに

じぶんにできることとは
何だろうと考えた

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