映画チョコレートドーナツ/Any Day Now(2012)ネタバレ感想


1.視聴のきっかけと視聴中の反応

きっかけ

・ネットフリックスでたまたまお勧めに出ていた

・ゲイのカップルがダウン症の子どもを保護するといったあらすじが面白そうだった


視聴中の反応

・最初にマルコ(ダウン症の子ども)をみたとき、「え、マルコ子どもなの?」っとびっくり。体格も大きいので20歳は超えているようにみえた。


・ショーパブで働くルディに一目惚れした(逆かな)、検事のポールとのやりとりが面白い(ふわふわした感想)。


・ルディとポールの関係は、女装することも多くてルディの仕草がいわゆる「女性らしさ」を感じさせる演技が多かった。ルディの背景とか当時の時世(舞台は79年から始まる)を踏まえると当然。と思いつつ、実際そんなにらしさが分かれたりしているものなのかなと思考が余所見。


・裁判でマルコのもつ人形が金髪の女性であることが話題になるんだけど、それって母親の象徴になるの?


・ここは物語の核心的な部分。本作では、二人がマルコを養育するために裁判で従弟であると嘘をついて一時的な親権を獲得する。が、この虚偽が明らかになり、マルコは施設に送られる。そこで、二人は色々な手を尽くしてマルコを取り戻そうとするのだけれど、ハッピーエンドを望む読み手とそれを期待させる描写が二転三転されるところに面白さがあり「ひゃ~」となった。


・邦題が英題とかけ離れていることに気付かなかったのだけれど、チョコレートドーナツは幸せやハッピーエンドの象徴として機能している部分もあって、この題から膨らむ思考もある。個人的には併記してくれているとうれしい。


2.中心的な感想

①3つの裏切り

 本作で特に心動かされたのは、上述したルディとポールがマルコを取り戻そうとする展開。それを記憶の限りまとめると次のようになる。


Aマルコの養育権を巡る裁判1

 ⇨裏切り1

Bマルコの養育権を巡る裁判2

 ⇨裏切り2

Cマルコの脱出(2回目)

 ⇨裏切り3


 まさに二転三転の裏切りが読み手の心を揺さぶってくる。この揺さぶりは、読み手が視聴中に予想する漠然とした成功への裏切りというよりも、語り手が積極的に「ほら、この裁判はきっとうまくいくさ」と期待させてくるもの。


②語り手が積極的に期待させてくる:裁判編

 例えばAの裁判1では、


 ・ゲイに対する偏見を引き出すグレッグという弁護士の尋問の歯切れが悪くなっていく

・判決が決まるシーンの前にルディがマルコに電話をし、迎えに行くから荷造りをしてと伝える。

 ・これが決定的なのだが、判事が判決を読み上げる間にマルコが荷造りをして、施設の外に向かっていくシーンが明るい風景の中で映し出される(マルコは画面で言えば、左を向ていたはずで好転を予期させる)。


「はい、これは勝ち申した~」と語り手は映像・音楽を通してビシビシと伝えてくる……にも関わらず、結局マルコの養育権は獲得できない。マルコは施設の出口に立っているのだけれど職員が部屋に連れていく。

 同様にBの裁判2では、二人が新しく雇った黒人弁護士が、裁判直前にマルコを取り戻す論を支える法律の解釈を引き出してポールと会話をするシーンが挿入され、「お、やはりこれで勝てるでおじゃるよ~」となる。が、ポールの元上司が司法取引?で獄中にいたマルコの母親の刑期を減らす代わりに、マルコを引き取らせることで、裁判自体がおじゃんになる。このとき、施設を出て車で送迎されるマルコという、マルコ脱出できた?とミスリードさせるのも意地悪ポイント。


③語り手が積極的に期待させてくる:脱出編

 まあ、ここまでは、そうここまでは多少長いけれどもまだ二人がマルコと再会したり、一緒に暮らすことができるんじゃないかと思わせるものになっている。が、特にこの語り手が読み手を突き放してくるのが、Cのマルコの脱出。

 まず、マルコの脱出は映画の前半で1度行われる。母が投獄され施設に入れられたマルコが、家に帰りたいとアパートに戻るのだ。それをルディとポールが発見して養育に繋がっていく。

 さて、2回目の脱出は、マルコの母はドラッグを止められず恋人とセックスをするために、マルコを廊下に追い出すところから始まる。マルコは廊下に留まらずに、夜の街を歩いていく。このとき、カメラはマルコにだけ焦点が合っていて、まわりが近視の人の世界でぼわんぼわんになっていて、誰もマルコが視界にはいっていない/マルコの視界に焦点化するべきものがいないといった雰囲気が醸し出される。私は「マルコそんなに思いっきり外に出てしまって大丈夫なの?」と思いつつ、「いや1回目の脱出ではルディがマルコを見つけたから、またここで再会するシーンが来るんだ」「でも、ここでマルコを連れ出すと接近禁止令?が出ているから、母親を逮捕するところからいくんか」とかあらぬ未来をスイッチさせていた。

 マルコが歩くシーンではルディの歌唱が挿入されて、ルディのステージでの映像やポールがタイプをするシーンが出てくる。その後、マルコの養育権を認めなかった面々に手紙が届けられ、その内容が朗読されていくシーンへと切り替わる。おや、これは母親の告発?……なんて甘いものではなく、マルコが3日間街をさまよった挙句死んでしまったことを告げる内容だった。そのまま特に物語は動かずにあっけなく終わる。もう二人がマルコを取り戻すなんてことは二度と叶わないのだと私は目を覚ます。ラストシーンはマルコが画面やや右側を歩き、建物の陰に入ったあたりでフェードアウトしていく。このやや右側っていうのもハッピーエンドではないということの念押し。


3.解釈:裏切りの効果

 まあ、救いのない物語は無数にあるのだから、そんなに傷つくことなんてないのだろう。でも、ハッピーエンドを期待させたのは演出だけじゃなくて、もう10年近く前になる映画でマイノリティを扱っているという背景に油断してしまった。

 本作の3回にわたる裏切りと、明示的には誰も救われないという結末の効果は主に2つ考えられた。


①読み手がマイノリティの境遇や問題性に深く関わる契機になる。

②その後の登場人物の振る舞いを予期させる。


 2つに分けてみたけれども、あまり大差ないかもしれない。まず①。これは手放しで肯定できないが、社会的な問題を扱うときは、人間の振る舞いの愚かさを徹底すること、幸運にしないことで、私たちが当事者性を感じたり、そういった社会に批判的な目を向けたり、建設的な実践に導く可能性が高まる。ただ、そういった手法は極端なプロパガンダに繋がる危うさがあるだろう。また、物語としての仕掛けが現実問題の解決だけに閉じてしまうのも、なんだかもったいない気もする。あと、この物語はゲイのカップルがダウン症の子を養育していたという史実を元にしているんだけど、実際の養子はマルコのように死んだりしていない。まあ、マルコのような存在が放置されて死んでいた事例はあるだろうけど。

 次に②。この手紙は二人とマルコを結果的に引き離した裁判関係者に届けられるのだが、どの面々もそれがどうした私の知ったことではないといった反応はしない。そういったところに、1980年代から少しずつ保守且つ権力側である白人層の考えも改まっていくことを予期させる。ここで、英題の「いつの日か」というタイトルの意味も響いてくる。邦題はそこを想起できないのが惜しいところなので、やっぱりタイトルは併記してほしい。

 まあでも、あんな手紙を送られたところで、現実なら家や職場であの手紙をまじまじ読んだりしないだろうなと、逆に虚構に突っ込んでしまう心もある。そういった点でも、読み手として展開への疑問を抱いてしまう部分はあるものの。

 そう、あるものの、でもこういった裏切りで心が傷ついたからこそ、ここで長々と感想や解釈を綴ってしまうのだ。結末に対する拒絶反応じみた他者の感想ブログもそういったところに起因していいるだろうし。この裏切りの効果は、私たちがこの作品について語ることを誘発する。それも効果。

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