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「文字書き」という呼び方が嫌いという話
こんにちは、らいなすです。突然ですが、みなさんは「文章を書く人」をなんと呼びますか。「ライター」、「物書き」……職業から趣味まで幅広く、様々な呼び方があります。
どれも違う意味を持っていて、あるものは輝かしく、あるものは無味乾燥した印象を持たせるそれらの中に、僕が憎悪しているものが1つ。……そう、それが「文字書き」です。
今回はこの「文字書き」について思いの丈を綴ります。今回のレギュレーションは「『クソッタレ』とか『粗チン野郎』といった洋画風の罵倒をなるべく使わない」で行こうと思います。
※かなり断定的な書き方をしていますが、あくまで僕個人の意見です。
■そもそも僕たちが書いているのは「文字」か?
まず、「文字書き」という単語を分解していきましょう。これは「文字」と「書き」に分かれています。
「文字」は言わずもがな、言葉の最小単位です。複数を組み合わせることで意味を成す。言うなれば、言葉という分子に対して、原子のような役割を担っています(化学は高校まで習ったんですが、間違っていたらすいません)。
「書き」の部分は「書き手」。「マッチ売りの少女」において、「少女」が「マッチの売り手」であるような感覚です。“心”で理解しましょう。
ここで問題になってくるのが、「文章を書く人」が書いているのか「文字」なのか、というところ。確かに、文章を書く過程で文字を書いていますが、果たしてこれは正しいのでしょうか。
■「文章」は「文字」ではない
ところで、あなたは文章を書くときにどのようなことを意識していますか。最初に結論を持ってくるだとか、箇条書きのように情報を羅列するだとか、方法は様々です。
しかし、どんな文章にも必ずあるのが流れ。この流れによって文章は支配されています。
例えば、「らいなすがりんごを3個買った」であれば、伝えたいのは「りんごを3個買った」事実にかかります。これの語順を変えると「りんごを3個買った、らいなすが」。最も重要なのが「らいなす(買った人物)」に早変わりです。
りんごを買って何をしたのかは想像におまかせします。おすすめはうさぎさん切り。
つまり、人間はすべからく文脈によって伝えんとすることを示すわけです。 文章の本体は文脈であり、文字ではありません。ここが最重要のポイントです。忘れたら命はないと思え。
本題に立ち返りましょう。「文字書き」は、「文字」を書く人。彼らの書く本体は文字。つまり、文字を書き連ねるだけの人です。文脈についてはこれっぽっちも考えられていません。
ここが違和感の源泉。
では、他の呼び方はどうでしょう。「ライター(Writer)」は「(文章を)書く(Write)+er(人)」。「物書き」は「物(文章、本など特定しない言葉)+書き手」。文脈のニュアンスがしっかり含まれています。これには口うるさいらいなすもニッコリ。
これを別の例に起こしてみると、「絵描き」が「線書き」にされるようなものです。「線の集合」で「表現」するから「絵」になるのであって、線を書いているわけじゃないですよね。
まとめ
「文章を書く人」は「文章」を書いているのであって、「文字」を書いているのではない。決して「文字書き」などと呼ばないように。
■文章を書こう
そんなこんなで、僕のnoteにおける初投稿でした。最初の投稿が愚痴のようになって恐縮ですが、これからも機会があれば何かと書いていくつもりです。(最近フォローした方々、加えて冷蔵庫さんに触発されています)
下書きには『アサシン クリード ローグ』について語る記事があるので、次はそっちかな……。