見出し画像

夏休みの日記 2週目

7月8日(木)夏休み8日目 曇り、時々霧雨

8:30起床。ちょっとずつ是正できている。
だらだらと朝を過ごしていたら、不意に早稲田松竹でヴィスコンティをやっていることを思い出す。
10:30時点でチケットがあと50枚しかないとのことで、大いに焦りながら支度と移動。焦りすぎてサンダルが壊れた。

・国語 11:30〜12:45
望ましい席のチケットを無事確保し、近くのスタバに移動。
久しぶりに飲むコーヒーは刺激が強くて舌が拒否してしまう。トールサイズも飲みきれない。
映画が始まる前になんとか昨日の日記を書き終えようと奮闘するも、書きたいことが多すぎてまったく書き終わらない。人との交歓があった一日の密度がうれしい。
私の人生を抱きしめてくれる他者を愛している。会話を反芻して、書きとめる。四年前に手にした、言葉を信頼できることの初めてのよろこび。
あなたの言葉は信頼できる。あなたの言葉であれば、私は言葉を信頼できる。

・映画 12:55〜16:30
2本立て。『異邦人』(1967)と『夏の嵐』(1954)、どちらも初見。
カミュを原作とする『異邦人』には、親の顔より見たマルチェロ・マストロヤンニが主演している。
フェリーニ映画の常連であるマストロヤンニを、若い頃はネオ・リアリスモに愛された高貴な俳優なのだと思い込んでいたが、もしかすると日本でいうところの高倉健なのかもしれない、と古めかしいタイトルロールを眺めながら思いつく。
ヴィスコンティはとにかく登場人物に汗をかかせる。緊迫した画面の演出として、執拗なまでに俳優の額に汗を滲ませる。王侯貴族の悪どいやりとりの場面であれ、ドラァグ・クイーンになる男が舞台で踊らんとする場面であれ、ひたすら汗に感情を語らせる。ワンパターンと言ってもいい。
『異邦人』ではアルジェの暑さを表現するためにスーツの上衣にまで汗染みを作っていたが、「太陽のせい」を演出するためにそれほど過剰な汗が必要なのだろうか。汗をかかせたいがために『異邦人』を題材にとったのではないかと思わされるくらいだ。
『異邦人』はアルジェという舞台設定のために、海に入っている時以外のほとんど常時において登場人物が汗をかいていたが、基本的にヴィスコンティにとって汗とは涙の裏側だ。
涙が純真や気高さ、正しさに叛かれた悲しみ、誇りの苦しみといった善なるものを象徴している一方で、汗は、隠し事の露呈への恐怖や、相手が悪事に加担してくれるかどうかの交渉の瀬戸際、嘘を吐くときの後ろめたさ、自分の正義を否定されるときの焦り、みたいな、社会的正義から逸れた者が流す水として使われている。『異邦人』におけるムルソーが最初から汗だくだったのは、彼の存在が社会から外れたものであることを示唆していたのだろう。
ヴィスコンティが、社会が成立するための窮屈かつ不条理な約束事から外れた人間の疎外感を浮き彫りにするために露悪的に描く「社会」というものの毒気の強さにあてられて、こちらも具合が悪くなってしまう。心が傷つけられる。多勢にとってわかりやすい社会を成り立たせるためにムルソーの言い分を切り捨てる、彼の「反社会的な」主張を切り捨てるために死刑にする。しかも広場での斬首刑に処し、見せしめとする。
耐えがたい悪。正義を標榜している悪ほど胸糞悪いものはない。われわれの生きる社会で起こることを率直に描いている。
カミュが『異邦人』で描きたかったものをヴィスコンティの手が過剰に演出してしまっていて、映画自体は正直にいって受け入れがたいものだった。おそらくだが、ヴィスコンティの演技指導に従ったのであろうマストロヤンニが表現する死刑への激しい怯えやキリスト教の拒絶は、カミュが淡々と描き出したものとは乖離している。
60年に自殺したカミュにこの映画を見せたくないと思った。けれど、カミュが感じていた、社会が個人を蹂躙する不条理についてこれほどうまく映画化できたのはヴィスコンティを措いてほかにはいなかっただろう。カミュが文学的表現に託した中和をすべて踏み躙って、ヴィスコンティは事の本質だけを取り出して映像化した。それはそれで映画メディアの役割を果たしたと言えるだろう。カミュを愛する私にとっては承服しがたい映画だったが。

すでにヴィスコンティと別れることを決心しているが、未練から2本目も観る。初期作品であることを加味しても、『夏の嵐』はひどい代物だった。
原題はSenso(官能)というらしいが、官能を描くにはヴィスコンティは色気の面で力不足だし、原作について調べてもそこに官能と呼べるほどの官能は存在しない。ただ欲望のみがあらわれている。
情欲のために大義名分を捨てる男女の有様を描いて何が楽しいのだろう、とうんざりしながら思うが、ヴィスコンティにしてみればまさにそれが楽しいのだろう。奴は人間の愚かさを描くことに執心していて、男女のあいだに生まれる途方も無い欲情は、かれにとって格好のターゲットになる。
あまりにもお粗末で、途中で観るのをやめて劇場を後にした。
もう二度と彼の作品を観ないだろう。長年の愛憎関係にあったヴィスコンティとようやく訣別できて清々しい。

・駆け込み飲酒 17:30〜19:30
緊急事態宣言に腹が立ち、可能な限り飲食店にお金を落とそうと駆け込み飲酒。近所の気になっていたナチュール屋に初めて伺う。
一人飲みを受け入れてくれる静かな場所で、近くによい店があってうれしい。宣言が明けたらまた通いたい。
お店にすごくいいオレンジワインを教わったので、大事な人と一緒に飲もうと思って2本取り寄せた。
気に入ってくれるといいな。美味しいものは人と分かち合いたい。

・スペース 22:00〜27:00
生産的なことが何もできそうにない身体で、人恋しさにスペースを開いたら、思いがけず人が集まってくれた。
酔っていてほとんど覚えていないことが悔やまれる。誰が話し相手になってくれたのかだけは覚えているけれど、内容を思い出せない。
ずいぶん夜更かしして、酔いからログアウトしたのち、ひたすらに眠った。
起きたら桑原武夫のWikiのページが開いてあって、何を教わったのだろうか、思い出せないのが寂しい。


7月9日(金)夏休み9日目 薄い小雨

15:00起床。
深酒による体調不良に月経の貧血が重なり、眠り続ける。
一通り寝尽くして目を覚ますと、「人間の生のありえなさ」というタイトルのメールが届いていた。
なんとなくだけど、駒場の若い学生はヴェイユを読まなさそう。

・国語 17:00〜18:30
大学時代(今思えばある意味傲慢な)怯えと畏れのために授業を受けられなかった教授の授業に潜っている。現役生の後輩が厚意からオンライン講義のURLを教えてくれて、毎週資料をメールで送ってくれる。かわいい。ありがたい。
開講は金曜の17時からという社会人にはなかなか難しい時間帯で、結局半分も受講できなかったが、画面の向こうで教授が喋っているのを目撃するだけでも過去の傷が癒える。最終回の資料として貰っていたのはフーコーだったはずだが、授業時間ではアガンベンを扱っていた。アガンベンのことをよく知らないので、ただただ聞き流す。
ご自身が日本への紹介に大いに貢献なさった映画『ショア』について「これだけがホロコースト映画の本当である」と仰っていたが、先生は『ショア』にまつわる例の問題についてはまったくのスルーを決め込んでいるのだろうか。私も問題のことは詳しくないのだが、「『ショア』だけが本当のホロコースト映画」ということはないと思う。そもそも「本当のホロコースト映画」なんて存在するのだろうか。
何度か受講したが、教授の問題意識がどこにあり、何を教えるための講義であったのか、正直よくわからなかった。学生時代に受講したとして、とてもレポートを書けそうもない。

・他者 20:00〜25:00
家族、友人、知らない人とコミュニケーションをとった。
人と話していると楽しくなって酒を飲みすぎる。今夜もまた飲みすぎた。
他者と流されるままにコミュニケーションを取っているうちに死を迎えるのだろう。


7月10日(土)夏休み10日目 快晴、夕闇にスコール

12:00起床。
深酒のためか出血のためか、まだ人間には戻れていない。
目が覚めて、手指を大いに負傷していることに気づく。また酔っ払って雑な料理をして怪我したらしい。
寝具の布類を大いに洗濯。血痕だらけのシーツをようやく洗えてうれしい。
酔って作った料理は塩がきつすぎて食べられたものではなかった。

・代々木上原 17:20~17:50
かつて暮らしていた街を少し歩くと、その街がすでに私の街ではなくなったことをはっきりと感覚する。
上京して6年ほど代々木上原に住んでいた。深夜のファイヤーキングカフェでしばしば恋愛したものだ。すべては過去のうたかた。泡と消えた過去たち。
今日は大学時代から付き合いのある友人の家の夕食に招かれている。「手土産にはぜひケーキを」とのリクエストがあったので、アステリスクで細長いケーキを3つ買った。
食べる趣味がなくてもそこそこのケーキ屋をちゃんと知っている自分を大人だと思う。

・世田谷代田 18:00~22:30
下北沢で降りて、南へだらだら歩く。下北沢もまた変わり果てている。
大学時代、難しい本を読むべく深夜までコーヒーをお代わりして居座っていたミスドはまだ健在で嬉しい。
「きみの夏休みのスケジュールを見てぼくもぎょっとしたよ」と友人。
私の夏休みのスケジュールを見た研究者の友人たちはもれなく全員ぎょっとしているが、労働していたころは9時から19時まで仕事に取り組んでいたわけで、そんなに大したことじゃないと思うんだけどな。研究者とは机に向かっている時の頭の使い方が全然ちがうから、かれらの感覚で見るあの時間割がかなりやばい代物であることはわかる。
労働者はね、基本的に常に弛緩していて、時々ちょっとだけ集中するの。実になるのは1日30分くらいかな。ははは、生きる甲斐がねえなあ。
共通の友人である仏文研究者について噂する。「彼女は週に42時間研究をすることを己に課しているそうなんだけど、それを聞いたとき、ばけものだと思ったよ」と友人。週42時間って、1日6時間を休むことなく毎日か。それは完全にばけものですね。私は週6時間くらいしか頭を使っていないから、彼女には私の7倍の価値がある。
そのばけものは私の大切な親友の一人なのだが、ときどき彼女から密度と分量のものすごいメールをもらって、そういうときしれっと「これを書いていたら朝の5時になっていました」みたいなことを言ってくるんだけど、いや集中力えぐいな、と慄きます。私はいつのまにか、途切れ途切れにしか長いものを書けなくなってしまった。4年前は一気に1万字書けていたのだが。
植物園みたいにいろんな植物が茂るリッチな小川に沿って歩いて、住宅街の奥の奥の方の、建物は古いが内装はすごく新しくて綺麗な家に招き入れられた。建物は古いが内装は綺麗な家って、そういえば私の家もそうだな。趣味が似ていると安心する。

友人は文化人類学者で、歌人で研究者の恋人と一緒に暮らしていて、その歌人の方の歌のことは友人が彼女と恋に落ちる前から知っていて、恋に落ちたと知らされたとき、あれをつくる人があなたと恋に落ちたのか、とひらめきのような感覚を得たことをよく覚えている。必然と思った。以来、そんなに身近な存在になったのならば会って話をしてみたいとずっと思っていたのだけれど、なかなか機会に恵まれず、ようやくはじめましてできてうれしい。私はずっとあなたに会いたかった。
人類学者が緑色の料理を次々出してくれる。薄くスライスした胡瓜の上に薄くスライスしたキウイをのせて、玉ねぎをレモンでマリネしたものとバジルを乗せた皿。ゴーヤの白和え。オクラをスライスして梅醤油をまわしがけたもの。獅子唐としめじの炒め物。パクチーの水餃子。胡瓜の水餃子。
私を愛している者が私に食事を振る舞う時に野菜を駆使して私の食べられるものを作ってくれることに、いつも深い愛を感じる。

歌人の彼女と私ははじめましてだけど同じ森の仲間なので、大学時代になにを勉強していたのかとか、論文は何について書いたのかとか、自己紹介は必然的にそういう話になる。卒論については、私は本当に書きたかったテーマではない題材を3か月の付け焼き刃で書いて逃げるように大学を去った身なのだが、それでも私の所属先の誇り高さが私の人生を180度変えてしまったことに一矢報いたいと入魂して書き上げた論文だったのだ、という話をして、10年来の友人も「それは知らなかった」と驚いておもしろがってくれた。この話はほとんど誰にもしていなくて、披露したのはあなた方が2度目。私が何をしたかったのかわかってくれて嬉しかった。
「ある生き物から骨を取り出して別の肉に埋めるようなことをしたんだね」と人類学者。相変わらず変な比喩を使う。

食事とお酒を進めながら、彼女と書くことについて話し合う。
私はこうして散文を書いている身で、短歌のような圧縮し凝縮される表現は不可能なので、互いの創作に畏れを抱きつつ「あなたは何をしているの?」と問いかけあうのはとても刺激的でたのしい。
私が「私はいつも、文章を書くときは、私自身と、もう一人の、たった一人の愛する人のために書いている」と語ると、彼女は「わたしは世界によいものを置くために書いている」と語る。あなたの表現は確かにそうなのだろうなと得心する。雪の結晶が美しい構造をしていることが当然であるように、あなたの歌は世界が美しいものであることを淡々と語っている。私は自分の人生から美しいものを取り出す。あなたは世界から美しいものを拾い上げる。私の文章はメッセージに過ぎないが、あなたの短歌は雨上がりの夕焼けが美しいのと同じものをこの世に置いている。
「小説は書かないの」と彼女が言う。「書けないの」と答える。「あなたが小説を書くようになったとき、あなたは私にとっての〈怖い人〉になるだろう」と彼女が言う。〈怖い人〉というのは、把握不可能、くらいの意味だろう。確かに、私が文章を書く行為が自分のためでなく世界のためにシフトしたとき、私の文章はおそろしいものになるだろうというのはわかる。なぜそんなものをこの世に生み出すのか理解不可能で怖い、みたいなものになるだろう。
書けない書けないと謙遜していたら、人類学者が「でも、取り出した骨を別の肉に埋めることは、きみにはできたわけじゃん」と励ます。言われてみればそうだ。私から取り出した骨を、別の肉に埋めて、完全なるフィクションに仕立てること。事実、散文を書くうえで、2度ほどそれに成功している。書けるかもしれないという気がしてくる。
そろそろ自分について書くことに飽きてきていたので、新しいステージに移るのは楽しい挑戦かもしれない。

アステリスクで買ってきたケーキはいろんな味がした。3種類を3人でつつきあう。親密な食卓。
食後酒に人類学者がペルーで買ってきたよいピスコを飲ませてもらって、「インクの味がする」と語り合う。「インクの味がする」というとき、水に一滴の濃紺の墨汁を滴らせたイメージが脳裏によぎる。味とイメージが共感覚的に結びついていて、たとえばレストランでソムリエにワインの好みを訊かれたときに「白で、黄色というより緑色のワインが飲みたい」と話すとよく伝わるから、イメージングはごく一般的なことだと思っていたのだが、そうでもないらしい。
ワインの味はカラーチャートとの相性がよくて、好みを把握しやすい。日本酒の味には、色ではなく、外気温に対して肌が感じる爽やかさや重苦しさが結びついている感じがする。なので気に入るものを探し当てるのがすごく難しい。

すばらしく楽しい夜だった。人類学者の友人とは10年かけて言葉をすり合わせてきたし、歌人の彼女とは世界を受け取る感覚について了解しあえるので伝わらないことを恐れる必要がなくて、のびのびと言葉をはなつことができた。心地よい。
また会いたくて、次に訪ねる日をその晩のうちにきめた。今度は何の話をしよう。胸が躍る。

夜道、変わってしまった下北沢の、まったく知らないケバブ屋でケバブを買う。店主の異国人に「暑そうだね」と話しかけたら、「ものすごく暑い、最悪」と返ってきて笑った。日本の夏はほかのどの暑い国の夏よりも耐え難いもので、私たちも基本的には最悪だと思いながら暮らしているよ。ごめんね、こんな国で。
帰宅したら、夜のスコールのせいで干してあったシーツがびしょ濡れになっており、仕方がないのでシーツなしで眠った。


7月11日(日)夏休み11日目 快晴、遠雷、午後に豪雨

10:30起床。
いいぞ。その調子で8:00に起床できる真人間に戻ってゆけ。
昨晩も夜更かしをして、眠る前に30分だけ国語辞典を読んだ。もっとも模範的な国語の時間。

・生活 11:00~14:30
シーツを洗い直して、部屋の掃除をして、宅急便を受け取って、雷雨の前に食料の買い出し。
豆腐と人参ともやしを買いに出かけたはずが、ヨーグルトと大量のアイスクリームを買って帰宅。
動物性たんぱく質をあまり摂っていないため、身体が動的でない。声を出せと命じられても出せない感じがする。
黒のトップスが2着、新しいシーツが2枚、本が1冊届く。人間ひとりが生きるだけでいろんなものが必要だ。

・雷雨 15:30~16:30
晴れた空にかすかに響いていた遠雷が、厚い雲に連れられてどんどんこちらに迫る。
破けるような大きな音で雷が轟くので、大粒の雨の向こうで赤子がおおぜい泣いていた。

・国語 15:30~21:00
日記を書いていたら雑誌の編集者から「校正期限、昨日だったんですけど」と連絡がくる。
ここ数日人間をやめていたので、自分が社会と繋がっていることをすっかり忘れていた。申し訳ない。
あ~も~やだやだ誰か代わりに校正してくれ~~~~著作権放棄しま~~~~す!!!!!!と絶叫しながら2箇所に赤字を入れて責了。叫んでも一人。
昔の自分の文章読み返すのすげーストレス。ちょー疲れた。私もうこれ二度と読みたくない。
気を取り直して日記にとりかかる。人と会った翌日は日記が長くなって、ほかの勉強がなかなか手につかない。
軽い気持ちで始めた取り組みだが、これほど常時文章を書き続けていたことってこれまでになかった気がする。書き続けて、書き終えた時、何か変わっているだろうか。
夕食はブロッコリーの炒め物。ペペロンチーノ風にしたかったのだが、鷹の爪もパルメザンもなく、苦肉の策でセミドライトマトのオイル漬けと炒めてそれっぽくする。

・夕寝 21:00〜21:45
夕方ころからあまり体調が芳しくなく、昨日の日記を書き終えたので15分だけ一休みしようと思ったら45分眠ることになった。
こういう眠りは、労働時代の終盤によくやっていた。夜を延命するために短時間だけ眠る怪我人の手法や、20時くらいに食事も摂れず激しい疲労に押し倒されてぐさりと昏睡するような死に近い眠り。
あまりにも贅沢な夏休みをとってこうして休んでいるのにこんなに疲れるなんて、体力が落ちているのかしらと不安になったが、思えばけっこう連日派手に遊んだり学んだり書いたりしており、単に遊び疲れているのだろう。
本当は一生こういう感じで遊んで暮らせるといいのだが、誰も養ってくれていないということは、世界はいまのところ、私が労働したほうが世界がよくなると判断しているらしい。まあそれもわかる。私の労働によってしか世に生まれないよいものはたくさんあるからね。それでも、養われて創作だけをやって生きていければどんなにいいことか、とは思う。ものを書くのに労働が邪魔すぎる。
労働。夏休みに入って10日以上たったが、労働の疲れがまだ抜け切らない。
仕事のことを考えると殴られたように脳が痺れる。

・仕事 23:00〜23:30
引き継いでもらった案件について元同僚から問い合わせのメールが入っていたので、月曜が始まる前に対応しておく。
億劫だなあと思いながら取り掛かったが、やってみると意外といきいき取り組めた。仕事用の身体が顔を出したらしい。
仕事って「望む・望まざるにかかわらずやらなければならないこと」で、「やりたい・やりたくない」のスイッチが切れてくれるから、体調が悪かろうが気分が乗らなかろうが遂行できる。
それがいいことかどうかはわからない。でも、感情がオフになってただ機能だけが稼働するのは、正直言ってラクだった。久しぶりの、虚しいラクさ。こんなのは人生じゃない。

・国語 23:40〜25:30
松浦寿輝『明治の表象空間』(新潮社、2014)を貸してくれた人が、他の借りている本についてはあまり触れてこないのに、なぜかこの本のことだけはしばしば「読んでる?」「本当に読んでる?」「本当に?」と問い詰めてくるので、読んでいるところをアピールしておこうと思い、読む。
以前目次を読んでかなり慄いたのだが、この本は「国体」から始まり、第一部では明治時代の公文書における「国語」の成立を概観したのち、福沢諭吉、中江兆民、そして第二部で突然、植物園から博物学を取り出したかと思えば『言海』を精査し、バンヴェニストに逸れたかと思えばアガンベンに移り、スペンサーに移り、ベンヤミンに移り、シュミットに移り、ええ……と動揺しているところに加藤弘之、おお……と思っていると江藤淳に寄り道、と思えば徳富蘇峰に回帰、また兆民、井上毅……第二部はだいぶ振り回されるのだが、第三部では北村透谷、樋口一葉、幸田露伴、福地桜痴とまた落ち着きを取り戻したかのように見せかけておいて、終章の各節題には「セリー」という語を用いるという奇抜さ。終章では「理性」「システム」「時間」という三つのセリーにテーマを分けて明治の表象空間、しいては国語の成立について語っているのだが、いや〜マジか、という、半ば崇めるような気持ちで読むのをちょこちょこ中断してしまう。書かれていることは決して難解ではないのだが。
この「崇めるような気持ち」は、過去、若かったあの頃、『官能の哲学』などで松浦寿輝に接して湧き上がったものと同じものである気がする。自分に成長がないような気がしてちょっと悔しい。
終章で朔太郎に触れているところが詩人らしい。でもなんか、なんか、なんか、松浦寿輝って、詩人なんだけど、詩人ってこんなにすごいんだっけ、みたいな気分になる。いや私が読み手として詩人のすごさを完璧に理解しているかというと多分10%も理解できていないのですが、詩人という立場でありながら批評というこちらに100%すごさがわかる方法でも存在をプレゼンテーションしてきて、それがめちゃくちゃ怖い。初めて松浦寿輝を読んだ時からそれはずっと変わってない。それで、これは私の身勝手なんだけど、松浦寿輝のこういう仕事に目を通していない詩人はみんな詩人を名乗るのをやめてほしいという狭量な感情が生じる。

 たとえ夢見る余裕(それは若さにのみ可能な贅沢といったものだろう)はもうないにせよ、その断念と引き換えに、有難いことに、錯誤や愚行を犯す自由(それこそが老年の特権ではないのか)だけはまだふんだんに残っている。(松浦、2014:735)

私は、たとえ60代になって老いを正面から迎えても、こんなことを言う資格を持っていないだろう。

昨日、歌人の彼女と話していて、「なぜ書くのか」という話題になったときに、「私はただ“ポイント”を作っているにすぎない。過去の一点、“そこ”に立ち戻れるよう、石を置くのだ」という話をしたのだけど、この本の「はじめに」で松浦先生が「表象」という語彙について、私が語ったよりも整然と語っておられたので、少し長くなるが引用しておく。

 もちろん人は、日々刻々、裸の「現実」を体験している。今にも消えようとしているこの夕暮れの微光、打ち寄せてきてわたしの胸に当たって砕けるこの白い波、抱きしめた犬の軀から伝わってくるこの力強い心臓の鼓動——生はそれら数かぎりない無媒介的で鮮烈な体験の緊密な連鎖から成り立っており、われわれが生の最大の歓びと感じるのも、またその生に意味と価値を賦与する決定的な鍵と見なすのも、この「今・ここ」の現前のかけがえのなさそれ自体であろう。しかし、「今・ここ」はそのつどただちに過ぎ去ってゆき、それは二度とふたたび蘇ることはない。逆に言えば、二度とふたたび蘇りえないもののこのうたかたのはかなさ、この取り返しのつかなさ、或る場合には人を絶望させずにはおかない時間の流れのこの絶対的な不可逆性によってこそ、これら無数の「現在」のかけがえのない輝きは担保されている。
 人は無数の「現在」を継続的に体験しており、その「現在」のなまなましいリアリティに生の意味があるとも言えるが、にもかかわらずその持続的継起はまた、その一つ一つの「現在」を失いつづける過程にほかならない。経験された「今・ここ」を思念しようとするとき、思念されうる「現在」とはすでに過ぎ去ったものが意識に残す痕跡でしかなく、従ってそれはすでに「現在」の「表象」でしかないのだ。こうした刻々の喪失から人を救済する能力、他のいかなる動物も持たない人間固有の能力として、一見、記憶という心的営みがあるかに見える。実際、記憶のプールに貯えられた財というかたちで、人はみずからの生の時間の堆積を所有しおおせているかのように考え、そこに生きられた時間の価値の証明があると感じ、あの取り返しのつかなさから慰藉されたいと願う。「失われた時」は「ふたたび発見される」のではあるまいか。
 しかし実のところ、プールに貯留されたものは反復された「表象」の堆積でしかないし、「ふたたび発見され」た時間はその「ふたたび」であることの再帰性によって稀釈されてあるほかはない。思考も想起も、アルバムのページを繰りながら一枚一枚の「思い出の写真」という図像を確かめる身振りに似て、「現在」とは似て非なる反復された「表象」をめぐる思考であり、想起であるほかない。そのとき、思考や想起のツールである言語とはいったい何か。ありとあらゆる言語行為が、プルーストの長編小説それ自体を含め、「表象」の生産・交換・消費・再生産の過程以外の何ものでもないことは自明であろう。(松浦、2014:14-15、太字は原文傍点)

「松浦先生」にこういうふうに語られてしまうと左様でございますねと言うほかないのだが、実際私の文筆はこの引用部が提示しているところに回収されてしまうので、ものすごく挫かれる思いがする。その先に進むためにはやはり受肉する必要があるのだろう。

 人間の意識活動とは、畢竟、絶えず喪失しつづける「現在」を「表象」の形で反復し、反復を通じてファンタスムの領域で再獲得し、所有しようとする、あらかじめ挫折を運命づけられた絶望的な試みの絶えざる持続以外のものではない。(同)

仰る通りなのだが、この言いようもない虚しさは何なのだろう。
自身の生の営みに徒労感を感じつつ、それでも明日のために就寝。25:30。


7月12日(月)夏休み12日目 暑い晴れ、雷の予報

7:00起床。
さすが私、やればできる女全日本代表の座を縦(ほしいまま)にする女。そんな二つ名あったの?
昨日の日記を読み返して、松浦先生うまいなあと感嘆しつつ記事を更新。ついでにもう少し『明治の表象空間』を拾い読みする。

・フランス語? 8:30〜9:00
朝ごはんに冷蔵庫で発掘したサンドイッチを齧りつつ、ちょこっとだけフランス語の復習。
こんなに薄い教科書なのに全然履修が進まず、自己肯定感がやや下がる。
勤めていた頃は無性に食べたくなっていたコンビニのサンドイッチは家で食べると全然美味しくない。

・美容、おめかし 9:00〜11:00
シャワーを浴びてパックして、ベッドに転がりながらだらだら保湿。
服がどうも決まらず3回着替えて、結局バカンスっぽいワンピースをさらりと着ることに。
アクセサリーもまた微妙にきまらず、旅先で失くしたシンプルなダイヤのピアスが恋しい。ああいうものだけ着けていたいのだが。

・夏休み 11:00〜18:00
だらだらビールを飲みつつ、今日は夏休みをするのである。
気温が高く、革張りのソファが汗で濡れる。ランボーの「地獄の一季節」は「地獄の季節」でいいじゃないかとか、私の蔵書から取り出した『現代思想』1989年1月号「器官なきセックス」のような特集はもう組まれえない時代になったこととか、とりとめもなくおしゃべり。
「あなたの昔の男がヴィスコンティで今の男がファスビンダーであることは何だかすごく腑に落ちたよ」と言ってもらえて笑いながら、「ヴィスコンティは昔付き合っていた顔だけいいが中身が最低な男で、つい中身が最低であることを忘れてほいほい会いに行ってしまったんだけど、ああこういう奴だったよな、とげんなりした気持ちで帰ってきました。あなたが観るほどのものではない」と軽口をたたいた。

・動物性たんぱく質 19:00〜20:30 
朝にしょうもないサンドイッチを食べて以来ビールとプチトマトしか口にしておらず、生命がエネルギーになるものを食えと命じる。
スーパーにて欲望のままに生鮮食品をかごへ。木綿豆腐、鮭のハラミ、ステーキ用のカジキマグロ切り身、豚こま、鶏胸のひき肉、豚のハツ、ブロッコリー2株、しめじ1株、いかの練り物。
生肉や生魚をフライパンで焼きながらしらすをのせた木綿豆腐を食べ進め、時にアイスクリームを挟み、鮭、イカ、鮪、豚の順番に大量の動物性たんぱく質を摂取。殺戮だなあと思う。しらすに至っては、ここひと月で何万匹の命をむさぼったことか。
動物の生命を奪って生きていることに躊躇がなくはないのだが、そもそも私はあまたの人間の生命から何かしらを搾取して生きながらえているわけで、そのことを差し置いていまさらヴィーガンなんてちゃんちゃらおかしいと思い直す。
動物の生命を奪わないことを正義としている人間が、まわりの人間の生命を奪わずに生きていると思い込んでいるのだとしたらあまりにも視野狭窄というか、傲慢というか、おめでたい話だなと感じる。
あきらかに、われわれは食いあって損ないあって生きているではないか。私の身もまた他者に食い荒らされている。今さら豚を食ったから何だというのだ。鮭を食ったからなんだと言うのだ。お綺麗な正義なんかでは人間の業は粛正できない。ヴィーガンが栄養源を人間にするまで私はそのおためごかしを受け入れることはできない。

・夕寝 20:45〜21:30
また45分間の眠りがあった。習慣化しそうで怖い。

・動物性たんぱく質 22:00〜22:30
食べ足りなかったらしく、飢餓感がひどい。
チョコレートを貪るが糖質ではないらしく、急ぎ豆乳ヨーグルトを食べたもののだめだった。
納豆を生卵に溶いて砂糖を加えたパワーフードを3椀。木綿豆腐の残りにしらすをのせて2椀。
夏休みに入ってから精神的に完璧に安定していて、食事がほとんど必要なく、するすると痩せていっていた。なのでこれほどの飢餓感に苛まれるのは久しぶりで狼狽える。
生命って怖いな。
さすがに卵を3つも食べると落ち着いた。

・国語 22:30〜26:30
卵を3つも食べたので眠れるわけがない。
この夏休みの期間、とにかくずっと日記を書いている。存在が元気を取り戻すごとに日記が長くなる。詳らかになる。
今回の日記は、あなたが数年前に書いていたものの気迫を再び取り戻しているよね、と、この2週の長文にわたる日記をすべて読んでくれている人。
確かにそうかもしれない。自分の一日を材料に、書けることは無限に出てくる。それが書かれるべきことかどうかはさておき、いくらでも書ける。
ただ、それは散文の形式への甘えにすぎない。今回の日記で、私は削ることを一切放棄している。この数年、一点の文章を完成させるために分量のほとんど半分に至るまでに削ってきた、その技術を放棄してこの日記を書いている。
現象としては若返りなのだが、技巧としてはただの退化だろう。
この日記の書き方を変えるべき時なのかもしれない。
過去の一点に石を置くことは、親密な関係のあいだだけで果たされればいい。
そんなことより私はもっと、表現における理想を持っているはずだ。

7月13日(火)夏休み13日目 快晴

10:00起床。
昨晩3時近くまで起きていたにしては成績がいい。
8時半のアラームにセットしたStand by Meの音楽のスヌーズを起きるまでに何十回も止めた。

・通院 11:00~12:00
前職の総務から健康保険証の返却を求められて、そういえばと来月分の薬を確保するために通院。
休息を十分に確保できる生活になってから皮膚の炎症はかなり改善傾向にあるものの、すんなり完治というわけにもいかない。
脚のほうは、症状が急激に悪化しているということはなさそうだが、着実に軟骨が減っていっている。あと何年歩けるか。

・図書館 13:00~15:30
入館予約をしてあった図書館に資料を閲覧しに行くも、当然購入配架されていると思っていた目当ての本はまさかの所蔵なし。
自身の愚かさを恨みつつ(「あなたはわりと変な思い込みが多いよね」)、『美術手帖』の2021年8月号「女性たちの美術史」を読んで時間を潰す。
志賀理江子のインタヴューと小田原のどかの論考「なぜ女性の大彫刻家は現れないのか?」がおもしろかった。
巻頭の吉良智子によるイントロダクションで「学生たちに女性アーティストの名前を挙げろと問うとせいぜいオノ・ヨーコ、草間彌生、(あと一人誰か忘れた)の3名が挙がる程度」というのがにわかに信じがたい。
女性アーティストが美術史から排除されてきたことには間違いないが、昨今の、少なくとも展覧会シーンにおいては女性作家の大規模個展なども積極的に催されており、田中敦子とか塩田千春とかメアリー・カサットとか内藤礼とか宮脇愛子とか長島有里枝とか、近い記憶でいくらでも語れるはずなのに、何を見ているんだろう。
彼女たちの作品をわざわざ「女性アーティストの展示」と覚えながら観ないのは私が女性であるがゆえのアドバンテージなのかもしれないし、今時の学生たちにとってもそうなのかもしれない。いちいち性別を区分して観ていないよねと。あらためて「アーティストの誰が女性か」ということを問われたところで困惑するのかもしれない。それは日本のキュレーターたちの邁進の成果で、それがフェミニスムによって改めて評価されただけのことかもしれない。

・生活 15:30~19:00
生活のことが本当に嫌いだ。愛する人と分かち合いたいと微塵も思えない。

・国語 19:30~22:30
井上法子『永遠でないほうの火』(書肆侃侃房、2016)を数年越しにあらためて読むのだが、たった31文字の無数の反復にすぎないはずのものがなかなか読み進められない。
重い短歌の重さを思い知る。31文字ごとに立ち止まる。おそろしい。
「逆鱗にふれる おまえのうろこならこわがらずとも触れていたいよ」(「永遠でないほうの火」)。

・日記 時間帯不明
昨晩の反省を受け、日記をこのまま書き進めるか深く悩む。
これまで夏休みのあいだ毎日、目を覚ましてすぐにこの日記に取りかかり、ひねもす書き綴っていた。
書きつけたいことは常時生じた。けれど、そんな反射にすぎないテクストを編んでこの夏休みを終えるのは勿体ない気がする。

・皮膚のさいなみ 常時
薬を塗った部分がひりひりと熱をもって、何事にも集中できない。
苛まれることから逃れようとしたのか、気づくとPCを膝に乗せたまま眠りに落ちていた。
それでも、化粧を施さずに治療に専念できるだけ、今の環境はかつてよりずっとましだ。
社会とは何なのだろう。皮膚疾患に耐えてその上に眉を描いて、皮膚疾患に耐えてその上にファンデーションを塗って赤色を肌色に塗り繕って、毎朝9時に出勤することを強制する社会に耐えるのが立派な大人なのだろうか。

・美術 24:00~27:00
午後に読んでいた『美術手帖』の続きをコピーして持ち帰ったので読み進める。
グリセルダ・ポロックのインタヴュー「美術史におけるフェミニスト的介入という思考実践はなぜ必要なのか?」をきちんと読んで、腑に落ちるところが多い。
私自身はフェミニスムにどのように則するかの姿勢をいまだ決めかねていて、それはフェミニスムがあまりにも多様になってしまった現状を甘んじて引き受けながら自身をフェミニストであると語ることを危ぶむ保身がゆえだとも言えるのだが、もはや一切わかりやすい言葉で思想を語らずに行動で示すことでしか真のフェミニスムを引き受けられないのではないかと、それだけははっきりと思っている。真摯に勉強しているわけではないので、ここで言う「真のフェミニスム」がどういうものかを体系的に語り尽くすことはできないのだが、守られた立場、身の安全を約束された場所で言葉狩りをするような浅ましい行為にフェミニスムのたすきを掛けることの横暴を認めることはできない以上、語れる人間である私自身が黙するしか抵抗の手立てがないと思う。構造上の問題を個人の暴力にすり替えることの卑怯を是認することはできない。

ポロックのインタヴューは、オークションの価格調査によるとアートマーケットで取引された女性作家が5名しかいないこと(草間彌生、ジョアン・ミッチェル、ルイーズ・ブルジョワ、ジョージア・オキーフ、アグネス・マーティン)や、フェミニスムに「波」(第何波、という言い方)をあてがうことで世代間の断絶が生じている現状への嘆き、美術史からの女性の積極的排除など、聞くだけで憂鬱を呼ぶ話題に満ちていたが、彼女がはっきりとそれに抵抗する論文をしたためていることこそは救いであった。論文に目を通してはいないのだが、インタヴューを読むに、ただ自身の体験に基づく独善的な思想に耽ることなく、きちんと歴史をふまえて相対化した現実ふまえ、そこに未来を挿し込むような姿勢で仕上げたのだろうと信頼できる。
このインタヴューで最も励まされたのが、アートとフェミニスムの自覚的関係についてのくだり。

 アートはつねにひとりの人間による提言です。私たちは、アーティストに一人称単数形の「私」として話すことを認め、それを期待します。つまりアーティストは、アーティストとしての活動において、運動に参加することはないのです。(中略)
 しかし彼女たちは何よりも、ひとりのアーティストとして活動に取り組んでいるのです。私たちは、それぞれのアーティストの活動や作品を、女性性における、女性性が刻まれたものとして大切にし、学んでいかなければなりません。

たとえ女性の手なる仕事であっても、アートが(ないしありとあらゆる表現が)フェミニスムの支配下にあってはならないという、力強い肯定。
女性が女性の作家を「女性だから」礼賛することはあってはならない。それこそが女性として生きた「人間」の否定だ。
私がフェミニスムをなんとなく忌避してしまうのは、そこに「人間」という観点が備わっていないように見えるからだろうとあらためて考える。
われわれは男性女性である以前に人間であり、人間である私がたまたま女性の身体を備えていただけだ。
もちろん社会の圧力や周囲にいる人間の価値観が個人の人権のすべてを蹂躙する時代があったことは否定しない。その、あまりにも大きくあまりにも重くあまりにも執拗な「時代」というものに虐げられてきた女性の存在を現代的な価値観で踏みにじることはしたくない。でも、時代ははっきりと変わった。あるいは変わりつつある。
それと、少し話題はずれるのだが、今さら福島秀子の肩書に添えられた「美人」を目の敵にしなくてもいいのではないかと思った。同時に、今でもその語にずたずたに傷つけられる自分もいて、過渡期ですねと思う。
なんにせよ、私たちがここで踏ん張って乗り越える必要がある。

・反芻
「あなたの頭のよさはもう十分で、それで何をするかというところにきているはずだよ」と、有識者。
あなたほどの人がそう言うのならばそうなのだろう。ならばどうして私はこんなにも強く不具に苛まれる?

受肉のことを考える。
骨を取り出すことを考える。

7月14日(水)夏休み14日目 快晴

10:56起床。
iPhoneの画面を見て目を疑った。出発予定時刻まで5分しかない。
昨晩午前4時ちかくまで起きて考え事をしていたせいに違いないが、それにしてもひどい寝坊だ。

・ランチ 11:45〜15:30
写真家の友人と西荻窪のorganへ。
相変わらず期待を裏切らない素晴らしさ。どの皿も文句のつけようがない。
・黄色ビーツ、アンディーブ、リコッタチーズ、ブルーベリーのサラダ

・牡蠣とホタテのパンケーキ仕立て

・火を入れたプラムとブッラータチーズ、ソースはヴァンブラン

友人はいまベンヤミンを読んでいるらしく、「歴史の概念について」に書かれていることを解説してもらった。
ベンヤミンの語る「神」の概念には納得ができる。相手が神をどこに置いているかによって対話の仕方が変わってくるが、ベンヤミンとは同じ神をもっているようなので、安心して潜っていけそう。
自由を謳歌するためには暴力を施行しなければならないことへの落胆について話し合う。
すごく不自由な世界を生きている。暴力を振るわなくていい自由の道を獲得できるだろうか。

・眼鏡屋 16:00〜16:30
私の身体の眠りが押し潰してしまって機能を果たさなくなった眼鏡を修理屋に持っていく。
十数分をつかって奮闘してくれるも、取り返しはつかなかった。
お代を払おうとしたが、「直せなかったから」と受け取ってもらえない。
他人の良心にふれて心が痛い。何かお返ししたいが、何も返せそうにない。

・仕事 21:00〜23:00
仕事のメールを書くのが億劫だ。

・国語、フランス語 23:00〜25:00
西荻の古書店で手に入れた小林秀雄訳の『ランボオ詩集』(創元ライブラリ、1998、元本1972)を読む。
訳詩のタイトルでは「地獄の季節」なのに論考「ランボオ」では「地獄の一季節」って書いてる。
一季節、一季節……なんでだろうと思い原タイトルを確認するとUne saison en enferとなっていて、「地獄における一季節」なんだな。それでかあ。saison de l’enferじゃないっていう。
読んでいたが一瞬で飽きた。論考は頭が冴えている時にちゃんと読み直そう。
人にごく私的かつ赤裸々なメールを書き、送信後に送信元が会社のアドレスだったことに気づいて絶望。絶望した。わざわざサーバーから引っ張り出してまで私のメールを窃視したいような人間が社内にいないことを祈ることしかできない。
気を紛らわそうとフランス語会話のテキストを適当に暗唱して遊んでいるうちに酔い潰れて寝た。