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記憶障害の恋

人と酒を飲んでいたら「ハイデガーに送った書簡を公開されるアーレントは気の毒だが、送る方も送る方だ」という話が出て、私はこれまでアーレントのよい読者だったことはないが、切実さへの敬意を表して、彼女を抱きしめたくなった。


書き縋る、といった表現が適切であろう。

書いて書いて書いて、私の頭の中にしかないことに現実の輪郭を与えてやろうとする。現実の表面を与えてやろうとする。そこに手触りが生じれば、私はそれを触ることができる。それに触れることを夢みて書く。
一文字が、一点として、表面を成す。点、点、点、点、書いても書いても足りない。埋まらない。面を成さない。あんなに書いてもまだあなたの姿のその少し撚れた肌をした頬の部分すら埋まらない。触れられない。
点、点、点、点、書き埋めて、ようやく指先で僅かに撫でられるほどの面積になったかのように見えたので、我慢しきれず手を伸ばす。触れたら途端に崩れ落ちた。一瞬だけ触れた、私がつくったあなたの頬(部分)の感触は、崩れ去ってもう思い出せない。

書き縋る。記憶を現実にしようと焦る。
私が生きて思考した軌跡を残したくて筆を駈ける。
あなたが私にくれた言葉が現実のものだったのだと証明したくて文字を重ねる。
あなたと過ごした時間で私はこんなに変化したのだと確かめたくて書き連ねる。
紙に縋る。言葉に追い縋る。全て私の妄想に過ぎず、全て私が見た夢だったのだという可能性に怯え、泣きそうになるのをこらえながら書く。


わからなくなる。気が狂いそうになる。
声を聴いても、メールを読んでも、私の頭の中にしかあなたがいないので気が狂いそうになる。
夜中、一人きりで一人用のソファに寄りかかって、電話越しにあなたの声を聴く。記憶する。私の頭の中に記憶する。昼間、一人きりでメールを読む。メッセージを読む。私の頭の中に言葉が宿る。確かに見ていた。聴いていた。はずだ。はずでしかない。全て私の認識でしかない。私の記憶でしかない。この機能不全の脳の中にしかあなたがいない。

夢と現実の区別もまともにつけられないこの機能不全の脳、確かにあったことを記憶できず身近な人たちを失望させてばかりの欠陥品の脳。怖ろしいリアリティと美しさをもつ夢を創造することにだけは卓越して長けた、私を混乱させるばかりのこの脳。
全て私の妄想に過ぎないような気がする。あなたが私の正面に座って笑っていた日の記憶すら本物かどうか怪しくなる。


気配を、体できちんと感じたい。
触れなくていい。言葉を交わさなくてもいい。ただひたすら、傍にいることだけを許してほしい。あなたのいる空間で、寝そべって本を読みたい。時々眠りに落ちて、ふと目を覚ますとまたあなたの気配を体で感じて、安心してまた続きを読みたい。
窓から入る光の強弱と色で昼を知る。気温が下がって夜を知る。時間の流れる場所で、気配を感じる。
あなたが私の傍にいることを、体で知る。頭じゃなくて、体できちんと知る。体できちんと確認する。
触れなくていい。視線すら、交わさなくていい。僅かな身じろぎを感じたい。微かな呼吸の音を聴きとりたい。肌で触れて確かめなくていい。肉体の、もっとずっしりと重たい部分、肉や骨の重たい部分で、あなたの気配を受け取りたい。

そうして私は私の人生に確かにあなたがいることをようやく確認して安心して深い眠りに落ちたい。あなたが私の傍にいるのだと思い知って安堵したい。私の欠陥品の脳の見せる、異常なリアリティと常軌を逸した美しさをともなう夢から醒めて、不安な心で部屋を見やるとあなたがいるのが見えてそれで安心したい。心の底から、安心してしまいたい。